Kalaupapa / Hawaii・USA
カラウパパ療養所
ハワイ・アメリカ合衆国
Leprosy Sanatoriums in the World / 世界のハンセン病療養所
Kalaupapa / Hawaii・USA
ハワイ・アメリカ合衆国
海と絶壁に囲まれた隔離の地から
国立歴史公園へ
オアフ島から南東に40km、マウイ島からは13km。ハワイ諸島のほぼ真中にある平坦な形の島、モロカイ島。その中央部北端の700m近い崖が海に落ちるその先がカラウパパ半島である。三方を海に、背後はそそり立つ崖に阻まれた舌状の半島で、自然が作った格好の隔離の地である。
1800年代前半、ハワイ諸島に蔓延したハンセン病への危機感から、ハワイ王国は1865年に「ハンセン病蔓延予防法」を制定し、カラウパパを隔離の地に定め強制隔離を始めた。最初の患者12名が送られたのは1866年。それから103年後の1969年に隔離法が廃止されるまでに、約8000人の患者がこの地に送られた。
今日、カラウパパを終の棲家として住む人は数人となり、療養所としての役割が終わる日は迫っている。しかし、この地に送られてここに生きた8000人の記憶はハワイの人々の中に生き続けており、親族のルーツを求める人は後を絶たない。ハンセン病隔離の地として世界の記憶となったカラウパパは、国立歴史公園として新しい展開を企画する連邦政府公園局と、カラウパパを自らの家族につながる地としてその記憶の継承を求めるカラウパパ家族の会の双方で、あるべき将来像への模索が続いている。
カラウパパ国立歴史公園
http://leprosyhistory.org/geographical_region/site/hawaii
https://www.nps.gov/kala/learn/historyculture/a-brief-history-of-kalaupapa.htm
ハワイ王朝がハンセン病患者の終生隔離法を制定。隔離政策の背景には、現住民への病気の蔓延と白人プランテーション経営者たちの勢力拡大要求があった。隔離の地と選定されたカラウパパ半島は渓谷に水源があり、先住民が定着していたが、ハワイ王国政府が土地を買収し先住民を移住させた。
カリヒ病院に一時収容施設開設。
最初の12人(男9女3)の患者が半島南西側のカラワオに移送された。同年10月までに142人(男101女41)となった。
ベルギー人ダミアン神父がカラワオに到着(33才)。
ダミアン神父がハンセン病と診断され公表された。
後藤昌直がハワイ王の招きでダミアン神父の治療にあたる。(再度1893年〜1895年にもハワイで治療に当たる。大風子油、薬湯、温泉療法などによる後藤式療法。後藤昌直は父昌文と共に東京に「起廃病院」を開いた医師)
ヨゼフ・ダットン(ブラザー・ダットン)がカラワオに到着。
マザー・マリアンヌ・コープと修道女たちがカラワオに到着。
ダミアン神父死去(49才)。
この年患者総数888人。内ハワイ人797、中国人43、ポルトガル人14。
連邦政府がハンセン病研究所を設置。しかし9名の患者を集めたのみで閉鎖。
マザー・マリアンヌ死去(80才)。
ヨゼフ・ダットン、カラウパパを去る(1931年死去)。
前年の日米開戦により、ホノルルのカリヒ病院閉鎖。子どもを含む患者がカラウパパに移送された。
サルフォン剤による治療が始まった。カラウパパに収容される患者は少なくなった。
隔離法廃止。
カラウパパは合衆国政府の史跡に認定され、歴史的建築物、景観として保存の対象となった。
カーター大統領の署名により連邦政府国立公園局管轄の国立歴史公園となった。
「Ka‘Ohana O Kalaupapa カラウパパ家族の会」が結成された。
オバマ大統領の署名で「カラウパパ・メモリアル法」が成立。カラウパパに生きた人々の名前を刻んだ記念碑が建立されることとなった。
治療のない暗黒の時代に患者に寄り添って生き、その人生を捧げた聖職者たち。カラウパパは二人の聖者、聖ダミアンと聖マリアンヌコープが知られている。
聖ダミアン(1840-1889) ヨセフ・デ・ブーステル(Joseph de Veuster)
ダミアン神父
モロカイ島で当時誰も顧みなかったハンセン病患者たちのケアに生涯をささげ、自らもハンセン病で命を落とした。
聖ダミアンの遺骸は、当初島内の教会横の墓地に埋葬されていたが、1930年代になってダミアン神父を「ベルギーの英雄」とする世論が高まり、1936年遺骸は故郷ベルギーへ戻された。その後1995年、遺骸の一部(右腕)はモロカイに戻り、聖フィロメナ教会横の墓地に葬られている。
1995年6月4日、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世によって列福。
2009年10月12日、教皇ベネディクト16世により聖人の列に加えられた。
聖マリアンヌ・コープ(1838-1932) マリアンヌ・コープ(Mother Marianne Cope)
1832年、中部ドイツにバルバラ・コープとして生まれた。翌年、家族でアメリカに移住。貧しい移民の生活を経て1862年、24才のときニューヨーク州シラキュースでフランシスカン修道会に入り修道女マリアンヌとなる。修道会では看護、教育方面に優れた力を発揮し、1883年ハワイの病院からの看護指導の求めに応えて、ハワイに渡った。オアフ島カカアコのハンセン病院を経て、1888年ダミアン神父の病状が進行しつつあったモロカイ島のカラウパパに修道女5人とともに着任し、末期のダミアン神父を介護した。日々の生活の中で、女の子たちにはリボン飾りやきれいな服を身に着けるように勧め、女性たちには手芸や縫物を勧めたほか、部屋を整頓し、真っ白なベッドのシーツ、壁には絵を飾り、食事の時にはテーブルをきちんと整えるなど、人々の生活の質の向上に心を砕いた。清潔、生活の彩り、造園、音楽、芸術などをとおして人々が失いかけていた尊厳の回復に働きかけ、入所者の信頼と敬愛の的となった。
2004年ローマ法王ジョン・ポール2世により列福。
2011年12月、ローマ法王ベネディクト16世により列聖確認。
2012年10月21日、バチカンにて聖マリアンヌ・コープの聖列式が行われた。
隔絶されたコミュニティの生活は、数多くの芸術家を生んだ。何よりもハワイと切っても切れない音楽の世界にその豊かな足跡がみられる。作曲家でスラックギター奏者デニス・カマカヒとステーヴン・イングリスによるCDアルバム「Waimeka Helelei Falling Teardrop」(涙ながれて)にはカラウパパの入所者で作詞家、作曲家、演奏家による曲が12曲収録されており、「このアルバムはバーナード・プニカイアとカラウパパの人々に捧げる」と書かれている。カマカヒ自身、カラウパパに生きたヘンリー・ナライエルア―「Footprints in the Sand – A Memoir of Kalaupapa」(2006)の著者―の従弟に当たり、同じくこのアルバムのギター奏者のイングリスは、「バーナード・プニカイアは若いころからの尊敬の的であったと」書いている。
http://stepheninglis.com/waimakahelelei/listen-now/
エルネスト・カラ Ernest Kala
エルネスト・カラの墓地に詣でるデニス・カマカヒ
カラウパパの「国歌」にも譬えられる教会音楽「E Na Kini -The Multitude」を作詞作曲したことで知られる。「権利のためにたたかおう。ひとびとよ。権利を、永遠の権利を、獲得しよう」。カラウパパの人々はこの歌う時にはいつも起立したという。
サムソン・クアヒネ Samson Kuahine
1950年代に広くラジオ、テレビで演奏されたバラード「Sunset of Kalaupapa」(カラウパパの夕焼け)の作者。幼い時にカラウパパに連れてこられ、20代で失明した。1958年没。
バーナード・K・プニカイア (1930-2009)
6才で母と別れ、オアフ島の真珠湾に近いカリヒ病院に収容された。1941年12月の真珠湾攻撃直後、危険を避けるためにカラウパパに送られた。一生をハンセン病患者とハワイ民族の権利と尊厳を取り戻すために闘った活動家。オアフの居住施設ハレモハル取り壊し反対運動のリーダーでもあった。
自作の曲をオートハープという平面のギターのような楽器を演奏しながら歌った。中でも「Kalaupapa My Hometown-カラウパパ わが故郷」はよく知られていて、CD収録されている。
聳え立つ山々 はてしなく ひろがる海
みどり深き渓谷(たに)々々 美しさ充ち満ちるところ
カラウパパ 我が故郷(ふるさと) カラウパパ 我が愛
1996年ニューヨーク国連本部他で開催されたWHO・笹川記念保健協力財団・IDEA共催のハンセン病啓発展示の主題「Quest for Dignity」(日本語では「尊厳の確立」と表現)の提案者でもある。
1997年国際交流会議のため来日し、多磨全生園、菊池恵楓園を訪問。1998年北京国際ハンセン病学会に参加。2003年、カラウパパ・オハナの会初代会長。
2009年没。追悼文がハンセン病制圧大使ニュースレター37号にある。http://www.smhf.or.jp/e/ambassador/037_06.html
Aloha Kalaupapa
小説『モロカイ』(アラン・ベネット)に触発されて、フィリップ・ジョゼフ・カハウナエレ・スワインが2010年に創作。実は親族がカラウパパの患者であったことが後日判明、一層思い入れ深い曲となったと作者が述べている。
閉ざされた島で生きる人々の絶望感は想像を絶する。治療法のない時代、人々はこの地で命を終えるためにカラウパパに送られた。過酷な環境の中で、人々は海を、樹を、石を含むすべての存在を友として生き抜いた。その豊かな才能はさまざまな作品となって残されていて、カラウパパに生きた人々の人生を語り続けている。
エド・カトー Ed Kato(1918-1998)
19才で収容されて1998年80才で亡くなったエド・カトーは、マウイ島生まれの日系二世。自宅をアトリエとしてカラウパパの海、山、教会を描き続けた。なかでも、石に描かれた「スマイル」はカラウパパのシンボルともなっている。日系人たちの墓を作り、漢字で慕碑銘(漢字の碑銘)を彫ったのもカトーであった。定年までカラウパパ総合店舗の支配人を務めたほか、カラウパパ日系人会のまとめ役であり、カラウパパ・ライオンズクラブの責任者でもあった。カトーもまた、隔離法廃止後は世界の各地を旅した一人であった。死後、遺灰は魚釣り仲間たちの手でカラウパパの海に散灰された。
ケンソー・セキ Kenso Seki(1910-1998)
ケンソー・セキは日系二世。自宅の隣の車庫を工房にして、自生するココナッツの殻でランプや花生けを器用に作って訪れる人に気前よくプレゼントした。隔離法が廃止されたのち、アメリカ本土の各地を旅し、1970年には大阪万国博も訪れていた。部屋の壁には訪問地のロゴが入った三角のペナントが所狭しと飾られていた。
ジョン・カオナ John Kaona(1921-1988)
木の実(幹に棘が密生するスナバコの木)を電動やすりで削って繊細なドルフィン・アクセサリーを作ることで知られた。1982年のナショナル・ジオグラフィク誌で紹介されている。ホノルルのカリヒ病院で診断を受けたとき、見世物のように診察台上で裸にされた屈辱から脱走し、より自由な生活を求めてカラウパパ移送の船に飛び乗ったという武勇伝の持ち主。カラウパパでの43年の間に、両手指と両下腿を失ったが、ドルフィン・アクセサリーをはじめ、木彫り、貝殻装飾など芸術工芸への挑戦は生涯つづけた。
「死ぬまでに、カラウパパに生きた人たち全部の名前を刻んだ記念碑が見たい。
私がここに来る前に亡くなった人たちは個人的には知らないけれど、
みんなの気持はよくわかる。心はひとつだから。」
(オリヴィア・ブレイタさん。記念碑を見ることなく2007年没)
カラウパパ半島が隔離の地であった1866年から1969年までの103年間に、ハワイの島々から8000人近い人がカラウパパに送り込まれた。親と子を、夫と妻を引き裂いたこの病気は「分断する病」(Separating Sickness)と呼ばれた。
カラウパパに送られた人々の90%はハワイの人々であったが、中国や日本、ポルトガル、フィリピンの出身者もいた。サトウキビやパイナップルのプランテーションの労働者としてやってきてハンセン病を発病し、この地に隔離された人たちだった。1903年の記録には、888人中797人はハワイ人、43人が中国人、14人はポルトガル人とあり、1924年の記録には485人中ハワイ人は366人、日本人は32人、フィリピン人25人、といった記録がある。
8000人の大半はカラウパパで亡くなったが、墓地が判明しているのは、主として1900年以降の埋葬者1300人ほどにすぎない。半島先端の一角には日系人の墓地もあり、「広島県安芸郡」「熊本県菊池郡」などの文字がかすかに読み取れる。
カラウパパへの隔離が始まってからちょうど150年にあたる現在、存命の元患者は13名。その内でカラウパパに残っている人は9人。国立公園局とハワイ州政府保健局の見守りのもとで、カラウパパ最後の日々が時を刻んでいる。
「先人たちへの敬愛の想いに併せて、生き抜いた証を未来にのこすために」名前を刻んだ記念碑を建てるということはカラウパパ居住者の長年の願いであった。とくにハワイの伝統文化の中では正統的なハワイ名は個人の貴重な財産である。2003年に発足した「Ka ‘Ohana O Kalaupapa」(カラウパパ家族の会)は、8000人一人一人の名前を復元するプロジェクトを立ち上げ、国立公園局と交渉を始めた。その結果2008年2月「カラウパパ・メモリアル法」が連邦議会で成立し、2009年3月にはオバマ大統領の署名で「カラウパパ・メモリアル法」として結実した。
記念碑の建立はまだ実現していないが、カラウパパ・メモリアルをきっかけに、それまで失われたていた先祖の存在をカラウパパに発見する動きも生んでいる。2016年5月、カラウパパ国立歴史公園のフェイスブックにタケナカ・モイチさんの写真と孫にあたるロドニー・シンカワさんの記事が載った。叔母さんの何気ない一言「あなたのおじいさんはカラウパパで亡くなったのよ」をきっかけに、今まで語られることのなかった祖父の人生が親族みんなの記憶に戻ってきた。祖父タケナカ・モキチは1882年生まれ。1923年にハンセン病の診断を受け、翌1924年1月カラウパパへ。1935年に52才で没。日系人墓地K地区の16番に埋葬されている、という情報が国立歴史公園の資料から確認された。収容の時の患者番号の付いたモイチさんの写真もあり、親族の同意で公開された。孫のロドニーさんは、「今まで親族の誰も口にしなかった祖父の死とそれまでの生活がカラウパパの資料で復元された。親族の空白が埋まったことに感謝する」と書いている。
https://www.facebook.com/KALA.NPS/photos/a.520968264623350.1073741827.111307082256139/1012624708791034/?type=3&theater
1980年のカーター大統領署名により、連邦政府国立公園局管轄の国立歴史公園となったカラウパパは今後どうなっていくのだろうか。現在、その将来像への模索も続けられている。当事者と家族を代表する「Ka’Ohana O Kalaupapaカラウパパ家族の会」は、2009年、カラウパパの将来構想に関する「ポジション・ペーパー」を国立公園局に提出し、「カラウパパは聖なる地であり、この地に生きた人々の命の証を記録し、保存し、語り伝えることは未来の社会への責任である」という当事者と家族の熱い思いを提言に込めた。
一方、カラウパパ歴史公園の管理当局は、2015年4月、カラウパパ国立歴史公園の総合運営計画“案”を作製し、15〜20年先の青写真を公開した。
カラウパパ国立歴史公園とは何なのか。そこでは、何が保存されるべきか。何が語られるべきか。国立歴史公園としての公開はどうあるべきか。将来像を巡って、当事者・家族側の要望とどのように調整を図っていくのか。カラウパパの例は居住者が少なくなっている世界のハンセン病療養所の将来のあり方を考える上で、極めて重要な先行例として注目される。
http://www.kalaupapaohana.org/position.html
ハワイにおける日本人移民は1900年代半ば以降増加し、1924年までに22万人を数えた。その多くはハワイに定着し日系アメリカ人としてハワイ社会の基礎を作り上げていったことはよく知られている。その中でハンセン病と診断された人々はカラウパパに送られている。カラウパパでは日系二世の人々が郵便局やカラウパパストア(販売部)の責任者を務め、日本の祭りや遊びが伝承されていた。また、カラウパパには日系人の墓地多い。雨風にさらされて崩れつつある墓石の保存と判別の作業が進められている。
http://www.mognet.org/hansen/people/deai06.html
http://remembrance.pacifichistoricparks.org/2016/09/28/translating-japanese-grave-markers/
今一つ、日本とカラウパパの「交流」の足跡があった。それは、日本の療養所入所者によるカラウパパ訪問である。1970年末から1980年初にかけて、奈良の「交流の家」が企画して3~4回行われた。カラウパパ訪問は、当然その目玉企画として毎回組み込まれていた。1980年8月の「むすび新聞」(SF2-2号)は3回目のハワイ旅行が、6月17日から22日まで、入所者6名とボランティア3名の合計9名で行われ、カラウパパには18日に日帰りで訪ねた報告が見られる。カラウパパの人々と日本の療養所の人々との間にどのような出会いがあったのか、今から30年以上前の記録は何を語ってくれるのだろうか。
日本人墓地にのこる墓碑(写真提供 カラウパパ国立歴史公園 Ka'ohulani. McGuire さん)
1974年3月 カラウパパを訪れた交流―むすびーの家の人々(写真提供 FIWC関西)