Rovisco Pais / Portugal
ロビスコ・パイス療養所
ポルトガル
Leprosy Sanatoriums in the World / 世界のハンセン病療養所
Rovisco Pais / Portugal
ポルトガル
独裁政権による
新国家構想に組み込まれた施設
ポルトガルでは19世紀半ばよりハンセン病患者の増加が見られていた。当時は隔離以外に有効な感染防止策はないと認識されてはいたものの、国としての方針はなかった。1930年内務省が全国的なハンセン病調査を行い、1,127名の患者を発見した。その結果1938年にはハンセン病予防法が制定され、1940年には国立のハンセン病療養所ロビスコ・パイスを建設することが決定された。
1947年9月7日に開所したロビスコ・パイス国立ハンセン病療養所は、すべての患者を一つの療養所に隔離収容して、療養所内で治療と生活を完結させるという構想で、これは1932年に始まったサラザール独裁政権による新国家体制(エスタード・ノヴォ)の衛生思想を象徴するものであった。すなわち、疾病を広い意味の社会的問題ととらえ、それに対応するためには社会的脅威とされた患者を隔離したうえで、科学的知見にもとづいて、身体的、倫理的に再生をはかるべきであり、この社会医学的な理念を独裁政権の権威的温情主義のもとで実現しようとしたものであった。その理論的指導者はコインブラ大学医学部教授ビサヤ・パレットであった。
ハンセン病の患者は貧しい農村部に多かったので、ロビスコ・パイス療養所は病気による汚染を一掃する無菌のコミュニティとして構想された。強制収容の対象は原則として感染性の患者とされ、非感性性とされた患者には住居内隔離と外来治療を認めるモデルでもあったが、現実的には貧しい患者は強制収容の対象となり、一方で資産のある層には外来治療を認めるという側面があった。
患者の発見と診断のために医師・看護師・ケースワーカーからなる移動診療隊が組織され、地方の医師や患者の出身地域からの通報を受けて、全国的に患者の診断と登録を行っていった。時にはすでに収容された患者自らが通報することもあった。全国的な疫学情報の収集と患者のマッピングが可能となり、1947年から1980年の間に2,629人の患者が登録されたと報告されている。
患者は収容命令により強制的に入所させられ、逃亡者は罰せられた。強制収容は患者にとって市民権の剥奪であった。ハンセン病の診断は社会的な死の宣告であり、収容は市民としての死であった。地域社会ですでに排除されて来た患者は、収容されて見えない存在となった。患者にとってハンセン病の診断は‘犯罪者’としての起訴であり、療養所は‘刑務所’であった。
(Alice Cruz論文)
第1回国際ハンセン病会議(於:ベルリン)にポルトガルからゼフェリノ・ファルサンが出席。ポルトガルのハンセン病状況について発表し、国際委員会のメンバーとなる。
リスボンで国際医学会開催。1873年にらい菌を発見者したアルマウエル・ハンセン(ノルウェイ)も出席。ハンセン病の拡大に関する懸念が共有された。
内務省調査委員会がハンセン病蔓延状況を調査。1,127名の患者の存在を確認。
サラザール政権発足。
新憲法により、権威主義的独裁政権エスタード・ノヴォ「新国家体制」発足。インフラ整備や教育の普及などが進む。
ハンセン病予防法成立。ロビスコ・パイス療養所建設を決定(法律29122号)。
ハンセン病患者の届け出義務化。
ロビスコ・パイス療養所開所。同年の登録患者数368人。
患者発見と在宅患者フォローのために移動診断チームの創設。1951年登録患者数901人。
ラウル・フォレロー(フランス・ハンセン病支援協会会長)がロビスコ・パイス療養所を訪問。
ハンセン病患者家族保護協会設立。患者と家族への経済的支援開始。
ラウル・フォレロー 再訪。
移動診療チーム廃止。ハンセン病患者発見・フォロー業務を政府の一般保健業務に統合。
カーネーション革命により独裁政権崩壊。
ハンセン病患者強制隔離の廃止。社会復帰者が出始める。
ハンセン病対策は、中央政府直轄事業から保健省プライマリーヘルス部に統合された。
ハンセン病支援NGO ポルトガル・ラウル・フォレロー友の会(APARF) 発足。
Associação Portuguesa Amigos de Raoul Follereau。
ロビスコ・パイス療養所の施設の一部の転用を開始。
法律第23号により、ロビスコ・パイスハンセン病療養所は、ポルトガル中央6県合同の「リハビリテーション医学センター兼ロビスコ・パイス療養所」となった。Centro de Medicina de Reabilitacao da Regiao Centro-Rovico Pais (CMRRC-RP)。
ロビスコ・パイス療養所に在住のハンセン病回復者は11人となった。
ロビスコ・パイス療養所は、リスボンから北へ約200キロ、ハンセン病患者が多い中部沿岸の農村地帯にある。140ヘクタール(約42万坪)の広大な土地に、病院建築で高名であったカルロス・ラモスの設計により、収容人員1,000人を想定して建てられた。土地及び建築資金は篤志家のロビスコ・パイス氏の遺贈金によったものであったところから、療養所の名称となった。
療養所の中核施設である中央病院には、診断・治療・臨床研究施設の他に隔離棟があり、隣接して不自由者棟や軽作業が可能な軽症患者棟がある。少し離れたところに、一般労働可能な患者の宿舎6棟が点在。さらに2軒長屋式の家族用住戸が5棟あり、それぞれ庭と家庭菜園を囲んで家族団地を形作っていた。このほかに中央洗濯場、中央調理室、結核や精神疾患患者用の特別室、規律違反を犯した入所者用の監禁室のある建物があった。
設計で特徴的であったのは、中央病院から教会・修道院に至る中央道路をはさんで各種の建物が左右対称に男女別に配置されていたことである。これは教会の設計にも貫徹されていた。教会はV字型に建てられていて、会衆席は男女それぞれ別棟で、中央祭壇部分とベルタワーでつながってはいるが、男女はお互いを見ることがない設計である。
療養所内で男女間の交流は禁止。違反者は厳しく処罰された。唯一の例外は家族用団地で、家族棟の周囲には農地や庭園があり、入所者自身が管理する庭園は療養所の最大の見せ場であり、外来訪問者の称賛の的であった。あたかも質素で規律正しいポルトガル家庭のモラルのショウケースとして演出されたかのように。
男女の交際禁止を始めあらゆる規則を乗り越えて、入所者たちは自らの生活を築いていった。療養所内では多くのカップルが生まれ、そして私生児が生まれていった。なかには脱走して婚姻届けを出し、正当な夫婦として再入所したという例もあった。
療養所は基本的に入所者の労働による自給自足のコミュニティであり、各人それぞれ特定の集団に所属することになっていて、そのグループに与えられた仕事に就いた。農作業を中心に、石工、靴屋、洗濯、縫製、盲人介護、教師、看護助手・薬剤助手など療養所の運営を支えるあらゆる所内作業があった。所内での金銭のやり取りは禁じられていたため、賃金は療養所当局が保管し家族に支払うか、一時帰省や退園の際に支払われた。アルコールを除くすべての必需品は療養所から支給された。労働は義務であると同時に治療の基本的な要素であるともされていた。それは独裁政権の価値観にもとづく家父長的温情主義と、宗教と規律をベースにした自給自足の農業コロニーというイメージであった。
1950年代の家族棟
多くの入所者にとって、療養所での生活水準は収容前の生活に比べるとはるかにレベルの高いものであった。何よりも、電気のある生活は当時の多くの農村のレベルを超えていた。そのほか、サッカー、映画、音楽・ダンス・演劇活動、有名芸術家などの慰問、宗教的イベント、刺繍などの創作、入所者専用のバーや書斎兼読書室、入所者による新聞「光」の制作なども、入所前の生活ではありえなかったことだった。敷地内には池もあり、日曜日毎に舟遊びができる等々、療養所当局の管理下で作り出された健康的なコミュニティというユートピアのイメージを追う日常があった。
しかし入所者たちは、当然ながら管理と統制の結果として生み出されたユートピアとは異質な日常を記憶していた。
家族団地は一つの村みたいなものだけれど、それでもいろんな規則に縛られていた。(中略)広場で集まってダンスをしていても、「何やってるんだ」と療養所の管理側から電話がかかってくる。我々の間に内部通報者がいるんだよ。
治療という名の束縛もあった。やれテストだ、やれ医者のところに行け、服を脱げ、、、。身体検査で見つかった傷を検査用紙の人体図にスケッチされたりして、まるで見世物かマネキンだ。こういうことを我慢し続けなければならなかった。
(Alice Cruz 論文)
療養所の内規は感染予防措置として親子の分離を徹底した。出産は病院内の分娩室で行われたが、親たちは生後直ちに子どもと別れることを事前に通告されていた。広大な療養所の入口に近い、森に囲まれた「健常者地区」には、乳幼児用と 3才以上児用の「感染予防施設」があった。子どもたちは、ときおり外出着を着せられて、パーラーと呼ばれていた面会室で親たちに会った。面会所の中では、病者である親と健常者である子どもが、左右にある「二重のガラス窓」で仕切られた別々の空間で対面した。親子を隔てる二重のガラスには、ところどころ、互い違いに穴があけられていた。つまり親子が直接触れることは出来ないが声は通り抜けるので聞こえるようになっていた。フランシスコ・サントス(49才)は、水族館のようにガラス越しに初めて両親を見た時のことが今でも忘れられない。
僕が4才くらいの時、面接室で両脇から抱えられて両親の顔の前に座らせられた。右側にお母さん、左側にお父さん。それぞれ離れていて、僕がその真ん中でガラスに手をだして両親の顔に触れると、彼らは僕にキスをしたんだ。ガラス越しにね。そしてガラスの両側で泣いた。両親は僕に触れたいって。思い出しても恐ろしい記憶だ。冷たいガラスの感触と僕が顔を寄せようとするその先に見える両親の唇。忘れられない。両親と遊ぶこともなく、両親の匂いを知らないで過ぎた子ども時代。
https://www.publico.pt/sociedade/noticia/infancias-de-vitrine-1663305
(カタリナ・ゴメス作「Infâncias de vitrine-ショーケースの中の子どもたち)
フェルナンド・ビサヤ・バレット Fernando Bissaya Barreto (1886-1974)
医師であると同時に政治家としてサラザール政権を支援する立場で社会変革に取り組み、卓越した理論と実行力で教育、福祉、医療分野の改革と展開に大きな足跡を残した。
バレットはロビスコ・パイス療養所の展開をとおして、ハンセン病は神罰であるといった従来の立場を否定し、ハンセン病は貧困と不衛生に起因する疾患で国の貧困の象徴であり、医学的に対応するべき課題であるとし、文化国家をめざすポルトガルの戦略的な保健計画の一つとして取り組んだ。健康で衛生的な環境の創出、生活レベルの向上、知的、倫理的な対応をベースとする家父長的温情主義であった。男女交際の禁止、親子の分離を徹底した一方で、人工的に生命の継続を断つ断種、中絶の強要といった方針は見当たらない。
バレットの言葉の中に「病者と闘うのではなく、病気と闘うのだ」「患者が逃げていく療養所ではなく、患者が逃げてくるような療養所を」といった言葉が残されている。バレットの保健分野での功績は、ハンセン病以外に結核や精神疾患の療養所、高齢者対策、児童の教育と健全な育成を目指す取り組みなど多岐にわたった。1958年ビサヤ・バレット財団を創設、子ども公園、子どもの家、救貧施設などを作り、今日も継続されている。
ポルトガルの政治体制の変化と世界的なハンセン病医療の動向の変化を受けて、ポルトガルのハンセン病をめぐる状況は 1970年代後半から大きく動いた。1976年強制隔離法が廃止され、社会復帰可能な人々は若干の手当てと支援組織のフォローを受けて退所していった。
療養所は、残った少数の高齢回復者の生活保障と医療施設としての将来を模索した結果、1996年10月23日法律第23号により、中部6県を対象としたリハビリテーション医療センター(Centro de Medicina de Reabilitacao da Regiao Centro-Rovico Pais (CMRRC-RP))兼ロビスコ・パイス療養所という両者の機能を包含した形で存続することになった。新たに出来たセンターは、温水プールや最先端の機器を備え、長期・短期入院治療にも対応する近代的なリハビリテーション病院として、時代のニーズに応えている。
http://www.roviscopais.min-saude.pt/
ポルトガルのハンセン病統計によると、1980年までの登録患者総数は4,501人。その内、隔離収容されていた人の数は1950年が901人、1977年には180人、1996年には66人と減少し、2015年の時点では11人となった。ロビスコ・パイス療養所の歴史が閉じる日は目前に迫っている。
新しいリハビリセンターの背後には、あの印象的な建築様式の療養所の建物が残っている。そこではこれまでと変わることなく、社会から見えない存在として生きるハンセン病回復者たちの日常が続いている。入所者たちは21世紀の今日まで生き抜いて来たにもかかわらず、「見えない存在」として人生を終えることになるのだろうか。
ドキュメンタリー:ポルトガル・スペイン つなげ!療養所に生きた先人の魂
2007年コインブラ大学の研究者が入所者たちのインタヴューを行い、その研究成果を発表した。ロビスコ・パイスで人生の大半を生きた人々の言葉が初めて外部に伝えられたが、彼ら自身が社会の表にでて発言することはついぞなかった。入所者の一人が、「忘れられる権利」という表現をしたことを研究者は記録している。
今一つ、「存在し」ながら「隠されて」生きて来た当事者のグループがある。療養所で出生した第二世代の人々である。療養所内には乳幼児施設(Nursery)と感染予防施設(Preventorium)の二つがあり、これまでに療養所内で生まれた子どもは129人であったという。
2015年4月、コインブラを一人の男性が訪れた。ブラジルのハンセン病当事者組織モーハン(MORHAN)の全国事務局長アルツール・クストディオ(Artur Custodio)だった。 2014年、ポルトガルのジャーナリストであるカタリナ・ゴメス(Catarina Gomes)が書いた「ショウケースの中の子どもたち」と題するルポと映像でブラジルと重なる第二世代の悲劇と被害を知り、励ましと連帯のメッセージを携えてやって来たのだった。コインブラのカフェでアルツールと会ったのは、ポルトガル側第二世代のフランシスコ、ファティマ、マリアの3人。その中の一人ファティマがアルツールの来訪を知って手当たり次第に仲間の第二世代に電話をかけて誘ったが、集まったのは3人だけだったのだ。
ファティマたちはブラジルのハンセン病第二世代も、自らのアイデンティティに悩み、長い闘いを続けている様子をアルツールの持参したパソコンの映像で初めて知った。ポルトガルとブラジルは同一言語。突然のブラジルからの呼びかけで、ポルトガルの第二世代の3人の人生に新しい風が吹き込んだ瞬間だった。午後のカフェで話し合った4人は、その足でロビスコ・パイス療養所を訪問した。そして今、ポルトガルの二人はブラジルの第二世代とフェイス・ブックで対話を始めている。
ロビスコ・パイス療養所の歴史は、隔離の人生を生きた第一世代、ハンセン病の影を今も背負う第二世代、隔離から解放され社会復帰した人々の歴史でもある。そして療養所への隔離は免れたものの、ハンセン病の当事者であった人々もふくめ4,501人と129人の人生は、現代と未来のポルトガルの人々に何を残すのだろうか。その語りが記録され記憶されるチャンスはあるのだろうか。残された時間はあまりにも短い。
現ロビスコ・パイス医療センター当局には当時の建物や医療と生活の記録を保存する意思があり、隣国スペインのハンセン病施設からの連携の呼びかけもすでにあるという情報もある。建造物と記録を保存することは重要であるが、そこに生きた人々の語りがあって初めて物の意味が生き返る。そして語りを記録するのは時間とのたたかい。ポルトガルでこの役割を担うのは誰なのだろうか。
参考資料:
Alice Cruz, “The Hospital-Colónia Rovisco Pais: the Last Portuguese Leprosarium and the Contingent Universes of Experience and Memory”
http://www.scielo.br/scielo.php?pid=S0104-59702009000200008&script=sci_arttext&tlng=en