Jerusalem / Israel
エルサレム療養所
イスラエル
Leprosy Sanatoriums in the World / 世界のハンセン病療養所
Jerusalem / Israel
イスラエル
戦争と分断の歴史に翻弄された
エルサレムの「イエスの救い」の希望
イスラエル内陸の高地にあるエルサレムは、第二次世界大戦後の1947年、国連の永久信託統治区となった。その後の度重なる中東戦争を経て西エルサレムと旧市街を含む東エルサレムに分断され、現在は東西エルサレムともにイスラエル国の実効支配下にある。イスラエルはエルサレムを首都としているが、日本を含む国際社会からは認められていない。またパレスチナ自治政府もここを将来独立時の首都としているが、現実的にはイスラエルが支配しており、自治政府の本部はラマッラーにある。
エルサレムは古くよりユダヤ教、キリスト教、イスラム教の聖地として世界の人々の信仰を集めて来た街であった。旧市街にはユダヤ教の聖地である神殿の丘と嘆きの丘があり、キリスト教の聖地である聖墳墓教会(イエス・キリストが磔刑にされたゴルゴタの丘の跡地に建てられた教会)やイエスが十字架を背負って歩いた悲しみの道もある。さらにイスラム教の聖地、岩のドームとモスクもこの一角にある。エルサレム旧市街とそれを囲む城壁群はユネスコの世界遺産であると同時に危機遺産にも指定されている。
この旧市街からほど遠くない新市街の一角、首相や大統領の邸宅もあるエルサレムの超一等地に、かつて「らい者の家 Leper Home」とよばれていた建物がある。エルサレム石という薄茶色の石積みの建物は、19世紀のエルサレムで知られていたドイツ人建築家コンラッド・シークによるもので、正面入口の左右に特徴的なアーチ形の階段があり、建物は2階建てに半地下がついて一見3階建てにみえる。周囲は樅と松の樹々に縁どられ、よく手入れされた庭園に囲まれている。この印象的な建物は19世紀後半からほぼ120年あまりの間、ハンセン病を病む人々の安住の地であり、いろいろな民族の患者たちが生活を共にした場であった。建物の正面に「Jesus Hilfe(ドイツ語 イエスの救い)」の文字が刻まれていることでも明らかなように、イスラエル政府に移管されるまでドイツキリスト教プロテスタントの修道士と看護師たちの奉仕と看護のもとに患者たちの自立の生活が営まれた。
ドイツの男爵夫人(キリスト教プロテスタント)が聖地エルサレム訪問。
第一次「らい者の家 Leper Home」が完成。ドイツモラビア教会の修道士夫妻が寮父・寮母として着任。
ドイツ人ディーコネス(看護師としての訓練を受けた女性社会奉仕家)が着任。
第二次「らい者の家 Leper Home」の開設。「Jesus Hilfe イエスの救い」と命名。
ドイツ皇帝ヴィルヘルム二世夫妻のエルサレム訪問時、随行員が「らい者の家」を訪問。その結果、皇帝より下賜金があり、その資金で別棟が建設された。
乳牛の飼育のため土地を購入。
第一次世界大戦勃発。エルサレムは戒厳令下に。
イギリスの委任統治領パレスチナとなり(1948年まで)、イギリスの公衆衛生制度が導入された。
イギリスの公衆衛生制度のもと、菌陰性となった患者の退園が認められる。
エルサレムの人口が増え建築物も増加。アラブ系・ユダヤ系住民の対立が深まる。
第二次世界大戦勃発。ドイツが敵国となる。
エルサレムは包囲され、アラブ系・ユダヤ系の戦場となる。
イスラエル国独立。エルサレムがイスラエルとヨルダンに分割される。
モラビア教会は「らい者の家」のすべてをユダヤ民族基金(Jewish National Fund)に売却。イスラエル保健省が管理運営に当たることとなった。
ゴールドグラバー医師(Dr. Moshe Beer Goldgraber医師)が着任。唯一の常勤医師であった。
施設の建物がエルサレムの重要建築物と認証され登録される。
最後の入所者が退所し、病院としての機能は閉鎖。ハンセン病センターとして外来診療を継続。
保健省の小児精神衛生部の外来診療所も同所に併設。
現代写真芸術家ユーヴァル・ヤイリ(Yuval Yairi)による、旧「らい者の家」を題材にした写真展「Forevermore」がテルアビブおよびニューヨークで開催。
ハンセン病歴史展示「この壁の裏に Behind the Wall」を一般公開。エルサレム市長も招聘。
ハンセン病外来診療所は、ハダッシュ政府病院機構の感染症部門に移転。
エルサレム開発機構による保存修復。
旧「らい者の家」の原型を維持しつつ、デザイン、メディア、テクノロジー文化センター「HANSEN HOUSEハンセンハウス」として再出発。
「らい者の家」の歴史は、1865年、オスマン帝国下にあった聖地エルサレムをドイツの男爵夫人が訪れたことから始まった。当時、旧市街を囲む高い城壁の南東の角にあるシオン門の外には、ハンセン病者たちが泥小屋に住み着き、聖地巡礼に訪れる人々に物乞いをする姿が見られた。その悲惨な状況に心を痛めた夫人は、この人々のために「家」を造りたいとエルサレムの英独プロテスタント合同教会に働きかけ、2年後の1867年、城壁からさほど遠くない土地に2階建ての「Leper Home らい者の家」が完成した。ホームの運営はかねてからアフリカなどでの活動歴があったドイツのモラビア教会に委託された。
患者の大半はアラブ系の人々で、当初は宗教的な警戒心から入所をためらう人もあったが、寮父寮母として世話をした司教夫妻やドイツのモラビア教会から派遣された奉仕看護師(ディーコネス)の活動に触れ、次第に入所希望者が増えていった。施設の拡大にせまられたモラビア教会は、1887年旧市街から少し離れた現在の地に、60人程度が住める第二の「らい者の家」を完成させた。当時周辺はブドウ畑などが点々とする荒涼とした丘陵地帯であった。
それから120年あまり、「イエスの救い」と名付けられたホームは、第一次、第二次世界大戦と戦後の激動をくぐりぬけ、この地方でハンセン病を病む人々が身を寄せる唯一の場として存在した。常時30~40名の入所者に対し、3~5名の看護師が看護にあたり、1950年、イスラエル政府保健省に移管されるまでの間に延べ50名近い看護師がその任にあたった。1980年代の化学療法の導入を経て、2000年、社会的理由から入所を続けていた4名の入所者が介護施設に移転し入所施設としては閉鎖された。通算約600名の患者がここで生活を共にした。外来診療所も2009年エルサレム市内のハダシュ政府医療機構に移転。「イエスの救い」は120余年の幕を閉じた。
シオン門の外の患者たち
最初のLeper Home
奉仕看護師(ディーコネス)と患者
モラビア教会の救済事業としてはじまった「らい者の家」は、次のような基本原則に基づいて運営されていた。
外見上は閉鎖的な隔絶的な施設であったが、家族や親戚の来訪は自由であり、患者の退所も自由であった。患者への対応は治療よりケアであり、日常の清潔、清浄な空気、栄養ある食物、各種の作業とキリストの愛がその中心であった。
乾いた気候のエルサレムでは水の確保は死活問題であった。施設の敷地内には屋根や背後の坂から雨水を効率的にためるあらゆる工夫がなされていた。開設当初二つの水槽で240㎥の貯水量のため、入所者と職員を含め60人余りの洗濯、掃除、水浴びにも事欠き、800㎥への拡大の報告がある。さらに貯水槽から建物に水を引き上げるために、ロバが引く送水ポンプがあったことが写真と近年の発掘で明らかにされた。最終的には11の水槽を備え、入所者用の耕作地のほか、並木や庭園を維持するにも十分な水を確保した。
1898年ドイツ皇帝ウイルヘルム二世ご夫妻が聖地を訪れた際、随行員が「らい者の家」を訪問し、翌年皇帝陛下からご下賜金があり、2階建ての別棟が建てられた。末期の重症者用の部屋、無菌室、包帯交換室、薬品や器具の収納庫の他、2階には乾燥室と患者用の敷布や冬用の衣類の収蔵庫が建てられ、入所施設としての整備が整っていった。
敷地内では修道士の指導で酪農が盛んに行われた。乳牛50頭が飼育できる牛舎があり、新鮮な牛乳が手に入り、余剰分は市場で有利に換金できたという。また入所者たちは敷地内にそれぞれの耕作地を与えられ、玉ねぎ、豌豆、トマトや野菜類を栽培して給食用にしていた。
1914年第一次世界大戦の勃発以降、「らい者の家」は度重なる戦争に翻弄された。開戦まもなくエルサレムには戒厳令が敷かれ、日常の物資の不足と全面的な運営の困難に直面することになった。ホームの屋根の上を弾丸が飛び交い、敷地内に軍隊用の鉄道線路が敷かれるという状況であった。1917年にはエルサレムがイギリスの委任統治領パレスチナの一部となったため、敵対国であるドイツ系の施設として唯一存続を許されてはいたが、その運営は困難を極めた。
1939年には第二次世界大戦時が勃発、再びドイツは敵国となった。英国委任統治下のパレスチナでドイツ人は国外追放あるいは収監されたが、「らい者の家」は存続を認められ、礼拝も維持された。エルサレムに残る少数のドイツ人の拠り所となった。しかし施設の維持は困難を極め、「開所以来はじめて、入所希望者を断らざるを得ない状況であった」と報告されている。
大戦後の1947年、パレスチナ分割決議の結果、第一次中東戦争が起こる。1948年3月エルサレムは包囲され戦場となった。ホームの周辺にもエジプト軍が迫り、屋根瓦が砕けるような状態であった。ホームは入り口に大きく赤十字のマークを付け、国際赤十字等の救援物資で窮地を凌いだ。アラブとユダヤの対立はホームの中にも持ち込まれ、モラビア教会本部は看護師たちにホームを離れることも認めたが、全員が入所者とともにホームを守り続けた。
1948年5月、イスラエル国の建国により、エルサレムはイスラエルとヨルダンに分割された。「らい者の家」は地理的にイスラエル側の地区にあるため、アラブ系の入所者の幾人かはトルコ系の団体が運営する施設に移るという事態になった。
戦争の混乱と戦後の運営の危機に加えて、ユダヤ系患者の入所希望が増加するという事態になり、モラビア教会は、1950年、土地と建物のすべてをユダヤ民族基金(Jewish National Fund)に売却した。その後の運営はイスラエル政府保健省が当たることとなり、名称は「Hansen Government Hospital 」と改められた。
ユーヴァル・ヤイリ(Yuval Yairi 1961‐ )
イスラエルの芸術家。写真とビデオアートで知られる。2005年、入所者が去った「らい者の家」をテーマに、2年間かけて「Forevermore 未来永劫」と題する写真作品を制作した。デジタルビデオカメラを用いて静止状態で撮影するという方法で、無人の空間にあたかも一瞬前まで人が存在していたかのような感覚を抱かせるイメージを創作。テルアビブやニューヨークで展覧会を開催した。芸術作品の創作の場となりテーマとなったことは、「らい者の家」のその後のあり方に貢献したといえる。
ルース・ヴェクスラー(Ruth Wexler)
ハダシュ医療機構感染症部 イスラエルハンセン病センター看護師長。1988年から2009年までエルサレムの旧「らい者の家」の看護主任であった。この施設が2009年に閉鎖移転される直前、この建物が歴史指定建造物であることに着目し、病室、治療室など施設の一部を復元して「BEHIND THE WALL ― The Story of the Leper Home in Jerusalem /この壁の後ろに―エルサレム・らい者の家の物語」と題した歴史展示を企画し公開した。エルサレムの一等地にあって高い塀に囲まれたこの場所の歴史の公開は大きな反響を呼び、エルサレム市長も出席。その後の「ハンセン・ハウス」とよばれる新しい展開への道を開いた。
シュムエル・ヨセフ・アグノン(Shmuel Yosef Agnon 1888-1970)
1966年ノーベル文学賞を受賞した最初のヘブライ文学作家。アグノンの最後の小説「Shira」は、中年の大学教授が、がつて病院で出会った自由奔放な看護師シーラを追い求める空想の世界を描いた未完の小説。シーラはハンセン病の患者であった。
モシェB.ゴールドグラバー 医師(Dr. Moshe B. Goldgraber 1913-2007)
ポーランド生まれ。1939年イタリアで医師となり直後にパレスチナに逃れた。1964年からボランティアの内科医師としてこのハンセン病院にかかわり、2000年まで家族とともに敷地内に居住した。1950年以降、保健省管轄の施設となった同病院ではアフリカ北部、イエメン、インド等からの移民労働者の患者も増えた。公的なハンセン病対策機関として1980年代に化学療法を導入し、入所患者は減少していった。
エルサレムの一等地に塀にかこまれた旧「らい者の家・イエスの救い」。約2ヘクタール(6000坪)の土地は、格好の開発物件として注目を浴びていたが、外来診療所が移転した後の2011年から2013年にかけて、エルサレム開発機構と都市計画専門家などの手によって修復と保存がなされ、「HANSEN HOUSE ハンセン・ハウス」として一般市民に公開された。
正式には、「CENTER FOR MULTIMEDIA DESIGN AND TECHNOLOGY マルチメディア・デザイン・テクノロジーセンター」と呼ばれ、各種の文化事業、ダンス公演、野外映写会などが公開で行われている。デザインやメディア芸術家の本拠地でもあり、世界的なデジタル・プロデュースのネットワークFABLAB (Fabrication Laboratory 制作ラボ)の一拠点、その名も[HANSEN FABLAB]でもある。
生まれ変わった「ハンセン・ハウス」は、その名称に記憶がつながれているだけではない。マルチメディアセンターの内部には2009年に公開展示された「BEHIND THE WALL ― The Story of the Leper Home in Jerusalem /この壁の後ろに―エルサレムの「らい者の家」の物語」が永久展示として引き継がれている。21世紀のエルサレムで、多彩な企画に集まる新しい世代の人々の傍らに、聖書の時代からの病に思いを馳せる場所が併存している。この建物自体が歴史を語るものであるだけに、世界的にもユニークなこの試みが生まれたことは十分評価できる。
その一方、当事者性が希薄なこの試みがどこまで意味ある発信であり続けることが出来るのか懸念も少なくない。開設から120余年の間に600人近い人々がこのホームに住んだ。「らい者の家・イエスの救い」はハンセン病を病む人々が身を寄せることのできた唯一の場であり、宗教、民族を超えて無条件に受け入れられた場所とされている。しかし、その人々の声はどこにも記録されていない。
参考資料:
The Leper Home in Jerusalem 1867-2009 Presentation by Ruth Wexler at 19th International Leprosy Congress (2016)