Carville / USA
カーヴィル療養所
アメリカ合衆国
Leprosy Sanatoriums in the World / 世界のハンセン病療養所
Carville / USA
アメリカ合衆国
カーヴィル(Carville)は、米国本土で唯一のハンセン病療養所として100年あまりの歴史を刻み、ハンセン病の世界に大きな足跡を残している。
前史――ルイジアナ州立「Louisiana Leper Home」レパーホーム(らい者の家)
1894年、アメリカ南部ルイジアナ州の州都バトン・ルージュから南に25キロ、ミシシッピー河が大きくU字型に蛇行して流れるところに、「ルイジアナ州立LEPER HOME(らい者の家)」として始まった。140ヘクタール(約42万坪)におよぶこの地はもともとアメリカ原住民の狩猟と漁の場であった。その後買収されてサトウキビ農園となり、壮大なギリシャ風のプランテーション屋敷が建てられていた。しかし農園はその後閉鎖され、広大な屋敷と奴隷小屋を残して廃園となっていた。
当時ルイジアナ州は全米でハンセン病患者がもっとも多い州であったが、医師たちの理解もなく、伝染病院への監禁や迫害など患者たちの悲惨な状況が報じられていた。皮膚科医としてハンセン病に関心を持っていたイサドア・ダイアーは、ハンセン病患者のための隔離の場の必要性を提唱し、これに応えた州政府が州内各地で土地の確保に苦慮したあげくやっと見つけたのが廃園となっていた農園であった。ダイア―は、このホームは患者にとっては「避難所であり、患者を非難するための場ではない。そこは治療と研究の場であり、拘禁の場であってはならない」として、看護の役割を修道会に依頼した。
「1894年11月、夜の闇に隠れて南部ニューオリンズ港からタグボートに引かれた一隻の石炭運搬船が河を上って来た。飼育用のダチョウの運搬と偽って、実はニューオリンズの伝染病院から7人(男性5人、女性2人)のハンセン病患者と80台のベッドをのせて「ルイジアナ LEPER HOME(らい者の家)」となるこの地に移送して来たのだった。」(スタンレー・スタイン『もはや一人ではない』より)
カーヴィル ハンセン病療養所
http://leprosyhistory.org/geographical_region/site/site-of-importance-carville
かつて患者を乗せた石炭運搬船が到着したミシシッピー河の船着き場に立つWHOハンセン病制圧大使笹川陽平氏(2009)
1909年の調査では、米国内14州のハンセン病患者は139人で、うち50例がルイジアナ州であった。他州でも患者たちへの迫害が知られており、なかでも米西戦争に従軍してメキシコ・フィリピンに派遣され、後にハンセン病を発症したジョン・アーリーは、首都ワシントンDC他米国内を転々とする生活を余儀なくされると同時に社会の注目を集めていた。1916年アーリーは、患者が療養に専念できるハンセン病院の必要性を米国議会で証言し訴えた。1917年2月3日、ルイジアナ州に国立ハンセン病療養所を設置する議案(第4086号)が公衆衛生局長官ルパート・ブルー、アメリカ救らい協会の医師ウィリアム・ダナー等により提案された。これを受けて1920年、「ルイジアナ州立LEPER HOME」は連邦政府公衆衛生局(USPHS)管轄の「第66海軍病院」となり、ここに国立のカーヴィル病療養所が誕生した(1999年に閉鎖)。
なおカーヴィルという名前は、療養所から3キロほどはなれた農園の所有者で、この地方で唯一の雑貨店の経営者と郵便局長も兼ねるジョン・マディソン・カーヴィル氏に由来している。療養所の所在地は「カーヴィルの店、カーヴィルの郵便局のあるところ」として知られるようになり、正式な住居表示の一部や療養所の通称ともなり、今日でも「カーヴィル療養所」として知られている。
アメリカ民主党の有力な政治コンサルタントで、ジョンの孫にあたるジェイムズ・カーヴィル氏は、「カーヴィルは地球上で最高の場所だ、と親父に教え込まれてきたけれど、今思い返すと全く親父のいう通りだ」と、この地で多くの入所者や医師スタッフと交わった日々を振り返っている(ホセ・ラミレスJr.著「ハンセン病との旅」)。
スタンレー・スタインは、『もはや一人ではない』のなかで、1940年代のカーヴィル療養所の状況を次のように書いている。
「あの奇跡のスルフォン剤治療をうけることができるようになった1940年代の初め、私たちはまだ刑務所にいるのとほとんど同じ扱いを受けていた。有刺鉄線付きのネットフェンスで外の社会と隔てられ、選挙権も与えられていなかった。郵便局もなかった。鉄道の駅や幹線道路につながる馬車道は、雨の季節には泥の川になってほとんど通行できなかった。」「ルイジアナ州法は、この病気をアジア型コレラや天然痘、腺ペスト、黄熱病などとおなじように隔離を必要とする伝染病に分類した。私たちは列車にもバスにも乗れなかった。カーヴィルの入所者同士の結婚は―不文律だったが―禁止されていた。」「患者が出す郵便物は一つ残らず殺菌装置をとおすことになっていた。」「医学的には長足の進歩をとげた。しかし社会的には、患者が鈴を持たされた時代からそれほど変わってはいなかった。」
1857年建築のプランテーション屋敷。後に療養所の事務本館として使われた。「Known simply to the rest of the world as CARVILLE... 100YEARS」より<
初期から入所者の介護にあたった愛徳姉妹会の修道女たちと司祭(1896年)「National Hansen's Disease Museum, Carville, Louisiana, US」
1940年までの入所者は、ハウスとよばれる木造平屋の集合住宅に一室を与えられた。ハウスは一棟に10~12の個室と共用のトイレとシャワーが一つあるという共同住宅で、男女は別棟であった。メキシコ系、フィリピン系など、当時の入所者の出身地毎に集まる傾向もあった。食事は食堂で提供され、食堂内部も男女別に分けられていた。
ただし、一部資金力のある人たちは北側のゴルフコースの裏手に小さな家(コテージ)を建てたり、退去者から買い取ったりして住むことが黙認されていた。鉄条網のなかではあったが生活は自由が多く、好みの食事を好みの時間に作り、花や野菜を植え鶏を飼い、人を招いてパーティを開くことも出来た。しかし夫婦で居住することは1952年に所内結婚が認められるまでは禁じられていた。白く塗られた家々は、ホワイト・シティ、コテージ・グローヴとよばれる「自由地区」であった。
1930年代後半、カーヴィルの木造建築を近代的な耐火建築に建て替える予算がついた。設計や設備について入所者自治会等と折衝を重ねた末、1941年8月、新しいカーヴィルが完成した。
「古顔の患者たちはわが目を疑った。木造の建物や歩道がつぎつぎとコンクリートと漆喰の見事な建物に変わっていったからだ。ベッド数65(男性用44、女性用21)を備えた治療棟の両側に、2階建てのハウスが、それぞれ中庭を囲んで10棟ずつ、合計20棟立ちならび、そのうちの16棟が患者の住まいに当てられた。各階には14の個室と応接室、台所、表玄関、裏玄関があり、患者は好みに合わせて自室を飾り、家具を置くことができた。1階も2階も網戸張りの耐火廊下で結ばれていた。2つの建物群の間に食堂と厨房があり、そことも廊下でつながっていた。作業療法と患者が営む商売のために、2棟の建物が当てられた。治療棟をはさんで食堂の反対側には、私たち自慢の立派な新しいレクリエーション・センターがあり、そこからは樫の樹の森や患者用ゴルフコースが見わたせた。―中略―内部には、建物の長さいっぱいに広がる巨大なダンスホールと、豪華な劇場があった。劇場の座席はクッション付きで背もたれの調節ができた。読書室を兼ねた図書館、ラウンジ、日当たりのよい新しい売店などは、私たちが楽しく時間を過ごせる場所になった。」(スタンレー・スタイン)
コテージとよばれた個人所有の住居 「The Star」(1960年)より
1941年新築されたハウス(居住棟)群 「The Star」より
1941年に新築されたレクリエーション・センター。「National Hansen's Disease Museum, Carville, Louisiana, US」
かつてこの地がプランテーション農場だった時代の屋敷が残され、1999年の閉鎖まで、ジリス・ロング・ハンセン病センターの事務所として使われていた。建築は1857年頃「Known simply to the rest of the world as CARVILLE... 100YEARS」ポストカードより
1953年から3年間のゴードン所長の時代、カーヴィルを「療養所」ではなく「病院」として運営する方針がとられ、軽症者の退所、個人所有のコテージの撤去、夫婦舎も台所は付けない、食堂を使用するなど規制が強化され、入所者たちと激しく対立した。人々が最も激しく抵抗したのは、独立家屋に住むことがもたらす自由が脅かされることで、特に台所(キッチン)が象徴する自由と解放感を守ることであった。
ゴードン所長は3年で異動になった。後任の所長は直ちに方針を転換し、「誰一人意に反して退所させられることはない。誰一人意に反して療養所にとどめられることはない」と宣言した。1960年には、ゴードン所長時代に撤去が決まっていた個人所有のコテージに替わる戸建て住宅と夫婦用アパートが完成して22組の夫婦に提供された。いずれも「作り付けの電子レンジやオーブンが付いた近代的な台所つきで、郊外住宅地の本物の家庭を彷彿とさせる」とスター誌が報じた。新築されたハウスの中の夫婦部屋にも台所が付けられた。しかし実際には住宅もアパートももはや個人の所有ではないので、最終的には「医学的」な判断で、居住の形態が決められる、ということを受け入れざるを得なかった。
http://www.louisianadigitallibrary.org/cdm/compoundobject/collection/p15140coll52/id/4361/rec/31
男女の接触が厳しく制限されていた時代でも妊娠出産は避けられないのが現実であった。療養所内での結婚が認められるようになった1952年以降、出産は療養所内ではなく、ニューオリンズの公衆衛生病院の隔離病室で行われた。新生児は直ちに母親からはなされ、親戚等に養育を依頼するかまたは養子に出す以外になかった。療養所内には患者でない限り20才未満の人が滞在することは許されていなかった。
療養所生活の中での「自由」の象徴であったキッチン 「The Star」(1960年)より
療養所のなかの湖畔でピクニック(1950年)「Known simply to the rest of the world as CARVILLE... 100YEARS」より
1980年代、財政再建の中で連邦政府直轄の病院を閉鎖する方針が検討されカーヴィルもその対象となった。ルイジアナ州選出の国会議員Gillis W. Longの尽力で、カーヴィルは特例的に存続が認めら、これを記念して1986年、カーヴィル療養所は正式名称を「ジリス・ロング・ハンセン病センター(Gilles W. Long Hansen’s Disease Center)」に改称した。(当時の入所者は約200名―80才以上23名、70才台46名、60才台46名)。国営のセンターとしての存続は認められたものの、財政的見地から縮小や転用(刑務所を含む)はその後も繰り返し検討され、試みられた。しかし1992年、カーヴィルが国の歴史的史跡に認定された結果、縮小や閉鎖を視野に入れた施設の変更には大きな制約が加わり、1984年、カーヴィルは療養所開設100周年を祝った。
ロバート・コールマン・キャンプが、プランテーション用の土地として取得。
「インディアン・キャンプ」の名称でサトウキビプランテーション事業開始。
ルイジアナ州立「Leper Home(らい者の家)」開所(11月末患者入所)。
ジョン・アーリー(米西戦争の退役軍人で患者)が国立療養所の必要性を議会に提言。
連邦議会上院で国立療養所法案成立(第4086号)。
「合衆国第66海軍病院」となる(連邦政府公衆衛生局管轄)。愛徳修道会の修道女に看護と介護を委託した。入所者90人。翌年425人用に拡張。
療養所内刑務所開設(患者間の殺人事件が発生した結果)。1954年6月閉鎖。
3月1日スタンレー・スタイン(本名 シドニー・レヴィソン)収容。
5月16日「66スター紙」発刊(1934年発行中断)。
デニー院長転勤、ハッセルティン院長着任(5年間)。男女の同居禁止。
入所者用の電話が初めてひかれた。
ガイ・ヘンリー・ファジェイ医師(Guy Henry Faget)着任。
3月10日 プロミン治験開始 被験者6人。
9月 スター紙復刊。
入所者による「社会的向上と社会復帰のための患者合同委員会」発足。
10月 第2回汎アメリカらい会議でプロミンの成果発表。
ルイジアナ州は入所者に選挙権を与えることを決定。
医師の判断で、年2回、各1か月の外泊を許可。
大風子油治療を廃止。
ファジェイ医師、プロミン治療によりアメリカ医学会賞受賞。
「連邦らい諮問委員会」外来診療所設置を勧告、ルイジアナ州で試験的に実施。「早期発見・早期治療」へ。
療養所内郵便局開設。
初の「条件付き退院」者がでた。12回連続無菌の制限をはずす。
外壁上の有刺鉄線撤去。
療養所内学校開校。幹線道路からカーヴィルまでの24キロ道路舗装が完了。
ハンセン病がルイジアナ州法の検疫伝染病(ペストやコレラ)のリストから削除された。
療養所内婚姻許可。
ゴードン(Eddie Gordon)第5代所長の方針―「療養所」から「病院」へ。退所推奨、所内就業制限、個人所有家屋(コテージ)撤去など、入所者との対立激化(1956年ゴードン所長転任)。
ジョンウィック(Edgar Johnwick)第6代所長。入所者の終生在住保証。夫婦用家屋の建設。発送郵便物の消毒廃止。
夫婦用戸建て住宅、夫婦用アパート建設。
年間11,979名の来訪者があった。
リハビリテーション外科研究開始(Dr. Paul W. Brand)。
サリドマイドの果たす役割を定義(Dr. Robert C. Hastings)。
薬剤耐性の研究 (Dr. Robert R. Jacobson)。
実験動物アルマジロモデル(Dr. W.F. Kirchheimer)。
外来診療のための全国11カ所の地域ハンセン病診療所開設。
公衆衛生業務監査。ハンセン病対策の再評価。
ハンセン病対策にかかわる諸法令の改正。
GWLHDC(Gillis W. Long Hansen’s Disease (Leprosy) Center)と名称変更。
療養所の閉鎖に向けての歩みが始まる。
研究部門はルイジアナ州立大学へ移転。
連邦国立公園局の国定史跡地域に認定された。
カーヴィル100年祭。過去の資料の収集開始。
ハンセン病博物館開設準備開始。
ハンセン病センターをバトン・ルージュ市のサミット病院に移転。
8月1日 カーヴィル療養所はルイジアナ州に移管された。
6月 カーヴィル資料館正式開館。
プロミン治療――「カーヴィルの奇蹟」
1941年、第三代所長のガイ・ファジェイ(後述)が導入したプロミン(抗菌剤サルフォン誘導体)は、それまでの大風子油の治療とは全く違った著しい効果でハンセン病の歴史を塗り替えた。カーヴィルでは1941年から6年間で357人がプロミン及び他のサルフォン剤の治療を受け、そのうち45人が療養所から退所した。当時は12カ月連続で菌検査がマイナスになることが退所許可の条件であったことを考えると、プロミンの成果は極めて大きなインパクトであった。その結果、1947年の秋、カーヴィルは大風子油の治療を公式に廃止した。
プロミン治療の他、1960年代のポール・ブランドによる形成外科医療とリハビリテーションの導入、ロバート・ヘイスティングスによるサリドマイドの役割の研究、ロバート・ジェイコブソンによる薬剤耐性の研究、カーチハイマ―のアルマジロによる菌培養モデルの開発など、カーヴィルは数多くの成果を残して世界のハンセン病研究をリードした。
ちなみに日本では、太平洋戦争中の1943年、プロミンの情報をドイツ語の医学情報誌から入手した東大医学部(薬学)石館守三教授が合成に成功。1946年に長島愛生園と多磨全生園の数名の患者に投与したのが最初であった。その劇的な効果は入所患者によるプロミン要求運動を生み、1949年のプロミン予算化につながった
「The Star」(1947年)の化学療法特集より
スタンレー・スタイン(後述)の名と共に世界のハンセン病の歴史に名を刻んだ「スター」は、前後2回に分けて刊行されている。第一次「スター」は1931年5月16日、入所後わずか2カ月半のスタインが中心となって発行した園内情報紙「シックスティ・シックス(66)スター」であった。隔離収容された当事者が、壁の中から「有刺鉄線を超えて」発信するという大胆なこころみは、療養所の内外から大いに注目された。1933年には早くも「Leper (レパー)」という差別用語を追放しようという主張を展開している。しかし、宗教活動への過激な批判なども災いして支持者を失い、1934年には廃刊に追い込まれた。
編集者スタンレー・スタインの視力低下などもありブランクが続いたが、7年後の1941年9月、療養所の大規模建て替え問題をめぐる当局と患者自治会の折衝が活発であった時期、スタンレーは「意欲こそ、ハンセン菌の特効薬である」と、「スター」誌を復刊し内外に発信する決意を固めた。
復刊第一号は、「ハンセン病の真実の光を」をテーマに、300部を謄写版印刷。3年後には活版印刷へ。さらにライノタイプと高速宛名印刷機を導入して部数を増やし、読者は全世界に広がった。1963年の時点で発行部数14,000部、世界の68か国に送るまでになっていた。
「スター」誌は、世界の注目を集めたカーヴィルのプロミン治療をはじめとする医療をめぐる問題の他に、所内生活の向上と患者の権利擁護にかかわるテーマ(強制隔離州法の廃止、公共交通機関の乗車禁止の撤廃、既婚者用住居の要求、選挙権の獲得、条件付き退院の制度、年2回1カ月の外泊許可等)も取り上げ、さらに「おぞましい用語」であるLeperの使用禁止と、Leperを連想させる「Leprosy(らい)」という病名自体を「Hansen’s disease (ハンセン病)」に改めることも提唱。とくに聖職者、聖書協会、百科事典、映画界、メディア等に働きかけた。
「スター」誌のメッセージは、遠くギリシャのスピナロンガ島療養所の閉鎖につながり、エチオピア皇帝の眼に触れて同国のサルフォン剤治療導入につながるなど、世界に波紋を呼び起こした。また、オーストラリアや中国で、「スター」の名を冠した当事者による発信があったことも知られている。「ハンセン病に対する人々の古い考えを変える起爆剤ではないかもしれないが、少なくとも触媒の役は果たしてきた」とスタンレー・スタインは控えめな言葉を残しているが、「真実の光は、有刺鉄線を超えて」広がっていったことは間違いない。
初代編集長スタンレー・スタインの死後、エマヌエル・ファリア、ウイリアム・キクチ、ホセ・ラミレスJr.など、カーヴィルの入所者・退所者が編集長を引き継ぎ、カーヴィル療養所開設100年(州立時代も含めて)に当たる1994年には、発行部数45,000部に達し、その後一時90,000部に達した時期もあったという(ウイリアム・キクチ)。
なお「スター」誌の1941年以降の分は全てオンラインで読むことが出来る。
http://cdm16313.contentdm.oclc.org/cdm/landingpage/collection/p15140coll52
(1941-2001)
http://www.fortyandeight.org/the-star/
(2001-2016)
ガイ・H・ファジェイ医師/Dr. Guy H. Faget (1891-1947) 第三代院長1940-1947
1941年に始まったプロミン治療の成功は、画期的な成果でカーヴィルの名を世界にとどろかせた。
ファジェイは1940年の着任早々36人の患者にジフテリア・トキソイドの治験を行って失敗していた。結核を専門としていた彼は、抗菌剤プロミンが結核菌には有効であるが副作用が多く、人には使えないことを知っていた。そこで結核菌以外の抗酸菌への投与に関心を抱いていたところ、セントルイスのワシントン大学で、らい感染ラットの治験で結節の縮小など有望な結果が出たことを知った。そこでハンセン病での治験を決意し、希望する患者をつのり、1941年3月10日、6人の患者に投与を開始した。毎日の健康状態診断、血球測定、尿検査など副作用に細心の注意をはらいながら進めたプロミン投与は、ゆっくりながら、今までにはなかった劇的な症状の改善や菌の陰性化など明らかな結果を生み出していった。
この結果に対して1947年、「医学の偉大な探求者ファジェイ医師に捧げる感謝と称賛」としてアメリカ医学界賞が授与されたが、その直前の1947年7月17日ファジェイは世を去っていた。ファジェイは、1958年の第7回国際らい学会(東京)、1994年のカーヴィル100年祭でも表彰されている。
※顔写真「National Hansen's Disease Museum, Carville, Louisiana, US」
スタンレー・スタイン/Stanley Stein 本名 シドニー・M・レヴィソン (1899-1967)
テキサス生まれの薬剤師、シドニー・レヴィソンは31才でカーヴィルに入所した。
「有刺鉄線のついた高いネットフェンス。門前の制服姿の監視人たち。この10年間頭の中から必死に追い払おうとしてきた恐ろしい瞬間がついに現実となったことを悟った。―中略―らいの治療を専門に行っているアメリカ本土唯一の施設、ルイジアナ州カーヴィルの第66アメリカ海軍病院に到着したのだ。1931年3月1日、日曜日の朝、私は自分の国にいながら、追放の身となったのである。」
「新しい名前はもう決めたの?」というシスター・ローラの問いかけに、なぜ自分の名前を捨てるほどの犠牲を払わねばならないかと強く自問しつつ、「それでは、スタンレー・スタインにします」と答えた時、患者番号745号スタンレー・スタインが生まれた。
社会が押しつける「匿名性という泥沼」の中に見えてきたあきらめと無関心。「生ける屍」という表現に近い、沈滞した患者たちの日常に疑問を持ち、「もう一度人間として生きる闘いを始めよう」「ここに生きることに運命を賭けよう」と決心したスタンレー・スタインは、36年に及んだカーヴィルでの年月を生き抜き、世界のハンセン病の歴史にその名を残した。その足跡は1963年に発行された自伝『Alone No Longer』(もはや一人ではない)に生き生きと綴られている。
ハンセン病に貢献した人々を顕彰するダミエンダットン賞は、1953、初回の受賞者にスタンレー・スタインを選んだ。(後年の受賞者にはケネディ大統領やマザーテレサの名前も見える)。
薬剤師であったスタンレー・スタインは、当然ながら治療法にも専門的な関心を持っており、自伝の中でもカーヴィルで行われた数多くの治験を詳しく報じている。治ることに人一倍意欲的であった彼は、数多くの治験に、自らボランティア患者として参加した。1941年のプロミン治療に際しても、「私はまた手をあげて参加した」と書いている。そして「カーヴィルの患者はモルモットになるのに慣れていた」と。彼の場合、副作用のためプロミンは数カ月で中止したが、後年ほぼ無菌状態となり退所も可能となったが、完全に失明したこともあって退所はあきらめた。
スタンレー・スタインの最大の功績は、なんといっても当事者が「有刺鉄線」の中から発信した「スター」誌の発刊である。1967年に世を去るまで編集長として編集を続けた「スター」誌は、入所者自治会や支援者をつなぐ場となって、園内生活の改善、偏見の排除、差別の糾弾、患者の権利と尊厳の回復につながる数多くの成果をあげた。同時に、世界のハンセン病関係者に病気と治療の情報を届けたばかりでなく、当事者の視点から問題提起を続け、患者の人間宣言を世界に発信し続けた。中でも、蔑視と排除の象徴である用語「LEPER(らい病やみに相当)」の追放と、この言葉を連想させる病名Leprosy(らい)自体をHansen’s disease(ハンセン病)に改める要求の口火を切り、繰り返し論戦を張って確実に変化を起こしていった。
彼の死後、スター誌は追悼号を発行し、カーヴィルの所長であったトラウトマン医師が国際らい学会誌(Internal Journal of Leprosy)に追悼文を書いている。
http://cdm16313.contentdm.oclc.org/cdm/compoundobject/collection/p15140coll52/id/9160
http://ila.ilsl.br/pdfs/v36n2a18.pdf (追悼文 Trautman)
http://www.hillcountryexplore.com/?p=4362
スター誌追悼号
http://cdm16313.contentdm.oclc.org/cdm/compoundobject/collection/p15140coll52/id/9160
※顔写真「National Hansen's Disease Museum, Carville, Louisiana, US」
ベティ・マーティン/Betty Martin 本名 エドウィナ・マイヤー(1909-2002)
ニューオリンズの裕福な家庭に5人兄弟姉妹の長女として生まれた彼女は、カトリックの学校に進み、バイオリンを習い、ニューオリンズの社交界にも出て、将来有望な医師の卵と婚約中であった。その18才のクリスマスの晩に、ハンセン病の検査の結果が届けられ、彼女の人生は暗転した。外国にいる叔母さんを訪ねて旅行すると友達には言い残して19才でカーヴィル療養所に入所し、エドウィナ・マイヤーはベティ・パーカーとなった。翌年には婚約も破棄され、退院の望みも打ち砕かれたが、次第に療養所内での生き方を模索し、所内学校の教師や検査技師としての場を見つけていった。
ほどなく、高校フットボールの人気選手で18才でカーヴィルに入所したハリー・マーティン(仮名)と出会い恋に落ち、1933年、そろって療養所から脱走(当時、園内での交際は難しく、結婚同居は認められていなかった)。双方の家族の理解を得て働き、4年後には結婚してハリーの父が建ててくれた家で幸せな生活を始めた。しかしこの生活は長くは続かなかった。一つには、過去を隠して生きることの心理的重圧から、今一つはハリーの病状の悪化により、1939年カーヴィルに戻った。2人は脱走の罰として監禁室で1ヵ月を過ごした後、コテージ地区(前出)の一戸建てに移った。前出のスタンレー・スタインはベティの印象を「とてもフランス的で、可愛くて、高慢ちき」だけど「彼女ほど美しい人に会ったことはない」と書いている。
1941年サルフォン剤が出現すると、ベティとハリーはともに治療を希望し、1947年にはそろって12ヵ月連続で菌陰性となり、同年4月正式に退園した。カーヴィルを退所した2人はアメリカ各地を移り住むことになる。ハリーは保険のセールスマンとして、ベティはカーヴィルでの人生を書き綴って。これが後の第一作『Miracle at Carville』 (『カーヴィルの奇蹟』邦訳)として1950年に出版されベストセラーとなった。この本は、新しい生活を求めて2人が旅立つ明るい調子で終わっているが、退所後の現実は全てがバラ色ではなかった。
退所した2人は南カリフォルニアに居を構えたが、自らの過去を隠して生きることの苦しみから逃れることはなかった。頻繁に各地を旅して歩いたのは、旅の中では過去を語る必要がなかったからだと近親者は考えている。この間の体験をベティは続編の『No One Must Know』 (「だれも知ってはならない」邦訳なし)に描いた。一方、定期的に治療に戻っていたカーヴィルは、何も隠すことのない心の許せる場所であった。ベティの再発が確認されたことで2人は1990年カーヴィルに戻り、以後再び社会復帰することはなかった。1996年ハリーが肺炎で死亡。2002年にベティが世を去った。
「私たちは一人ではない。秘密を共有する仲間だ。私たちみたいな人が何千人といる。訳あって秘密の世界を歩んでいることを、だれにも知られないように用心深く歩んでいかなければならない人々が。」(ベティ・マーティンの第二作「だれも知ってはならない」)
註: ベティ・マーティンの「Miracle at Carville」(1950年)は『カーヴィルの奇蹟』として1951年邦訳出版されている。尾高京子訳、文芸春秋新社。
※顔写真「National Hansen's Disease Museum, Carville, Louisiana, US」
ホセ・ラミレス・ジュニア Jose Ramirez Jr. (1948- )
ホセ・ラミレスJr.は、1968年、20才でカーヴィルに入所し、7年間を患者として過ごした。その間、療養所に在籍しながら外部の大学に通うという特例措置を認められ、新しい時代のカーヴィルを体験した世代の一人だ。同時に、先輩たちが切り拓いてきた道を、さらに広げる努力を惜しまなかった。
テキサス州南部、メキシコ国境の町ラレドで移民の両親のもとに生まれ育ったホセは、10代半ばからハンセン病の症状があらわれていたにも関わらず、診断にたどりついたのは高校卒業後、体調が悪化した19才の時だった。当時カーヴィル以外で有効な治療を受ける道もなく、療養所入所が唯一の選択肢だった。国境の町からカーヴィルまでは700キロ、18時間の車の旅。体調が悪いので救急車の手配を依頼したが、理由不明で救急車が手配されず、代りに提供されたのは霊柩車であった。「救急車は生きている人間用で、霊柩車は死者用だった」。ホセが講演をするときに決まって語る話だ。
ホセがカーヴィルに入所したのはスタンレー・スタイン(前出)がこの世を去った翌年。400人近い入所者の大半は終生をカーヴィルで過ごす選択をした人々であった。ホセはスタンレーの時代を引き継いで、療養所内に残る偏見と差別の残渣と闘った。カトリック信者としてミサで授かる聖体拝受のときに、患者側の列ではなく、職員の列に加わることによって、漫然と引き継がれていた差別の旧弊に無言の抗議をしたのもその一例であった。食堂でも同様に無言の抵抗で患者と職員の区分を切り崩した。後年、ホセは「沈黙が差別を温存する」ことを啓発のテーマの一つとしている。
ホセは、先輩スタンレー・スタインが提唱した「LEPER」という差別語の追放に心を注いだ。嫌悪すべき言葉であるLEPERを、自らが運動の中で繰り返すことを避けるため「L-WORD」という表現を工夫してつくりだし、「L-WORDは私の心に突き刺さる。L‐WORDを禁句にしよう」と訴え続けた。2011年英国のアニメーション映画「海賊船長」の中の「LEPER Boat(らい病船)」の侮蔑表現にいち早く抗議の声をあげたのもホセであった。
ホセは園内用の仮名を名乗ることもなく、7年間の入所期間をとおして家族との深いつながりを維持することが出来た。何よりも特記すべきことは、高校時代のガールフレンドのマグダレーナがハンセン病患者となったホセを支え続けたことである。マグダレーナは家族、とくに母親の強い反対があったにも関わらず、遠路カーヴィルにホセを見舞い、文通を欠かさずホセの闘病を支えた。退所後2人は結婚し、テキサス州ヒューストンで共に社会福祉関係の専門職に就いた。夫婦そろってカーヴィルに残る人々とのつながりを切ることなく、当事者として地元テキサスの新聞やテレビの取材にも堂々と体験を語り、社会の無知からくる偏見への闘いに、長男と長女も含む家族ぐるみで取り組んでいる。ホセ一家は世界の当事者たちの連帯にもつながり、日本財団の笹川陽平会長が主導する、国連やローマ法王庁を巻き込んだ世界的な啓発運動の有力なメンバーとなった。
2009年、ホセは、自らの人生を『Squint My Journey With Leprosy』(「ハンセン病との旅」)と題する自伝にまとめ出版した。これはボランティア翻訳グループ「ミネルバ」の手によって邦訳され、2009年から2015年の間、多磨全生園の機関誌「多磨」に連載された。
http://leprosy.jp/english/people/jose-ramirez-jr/
http://www.texasmonthly.com/articles/squint-my-journey-with-leprosy/
http://leprosyjourney.com/
カーヴィル療養所は、1894年に「ルイジアナLeper Home」として始まり、1999年Gillis W. Longハンセン病センターとして閉鎖されるまでに6回名称を変更しているが、つねにカーヴィルとして知られてきた。療養所閉鎖後20年近い今もなお、カーヴィルの名は白亜の建物群、大きく枝を拡げた樫の樹、緑の中に整然と並ぶ白い墓標とともに、そこに生きた人々の人生をその名にとどめている。
1997年11月、カーヴィルの将来を決定する法律が連邦議会で成立した。政治家、当事者、支援者等の協議の結果、閉鎖と移転を含めた最後の形がおおむね下記のような内容で合意された。
カーヴィル療養所の土地と建物はルイジアナ州政府に無償譲渡する。ルイジアナ州政府はカーヴィルの墓地の管理とカーヴィル博物館の維持運営を行う。最大の懸案であった入所者の処遇については、その時点の入所者に、①引き続きハンセン病センターに残る、②年間33,000ドルの給付金を受ける代わりにセンターを退所する、という二つの選択肢が与えられた。そして、センターに残留を希望する人のうち、敷地内の戸建て住宅に住み続けることを希望する場合はそれを認める。それ以外の場合は、バトン・ルージュのサミット病院内に移転するハンセン病センターに移る。いずれの場合も介護と医療は継続して与えられる。なお、給付金を受けて退所した人についての再入所は認められない、というものであった。
1999年8月、カーヴィル療養所の土地と建物はルイジアナ州に返還され、州警備隊の管理施設となり、ここにハンセン病療養所105年の歴史が閉じられた(この時点で年間33,000ドルの給付金を受けて退所した人は50名で、69名が残留した。翌2000年の時点で、旧療養所内の戸建て住居に残ったのは37名、サミット病院内のセンターに移ったのは24名。ベティ・マーティンもセンターに移った)。
これに先立つ1999年3月11日、療養所の裏にひろがる墓地で、IDEA(尊厳と経済的自立のための国際組織―ハンセン病患者・回復者の尊厳と権利の確立を訴えるアメリカのNGO)の主催でカーヴィルの終焉を心に刻む集会があった。集まったのはカーヴィル退所者、カラウパパ居住者、支援者たちで、その中にはホセ・ラミレスJr.や日本の回復者、森元美代治・美恵子さん夫妻の姿もあった。IDEAはこの集会を記念して3月11日を「IDEA 国際尊厳と尊敬の日」と定め、毎年、世界の各地でハンセン病患者・回復者の人権と尊厳を考え訴える集会を開いている。
カーヴィル療養所はその歴史を閉じたが、患者も医師もいなくなった療養所の一角に、小さなカーヴィル博物館が2000年に正式オープンした。訪問するにはアクセスの良くない場所にあるが、幸い建物も、当時を物語る物、記録、写真、創作も豊富に保存されている。世界のハンセン病の歴史に確実な足跡を残したその姿を現代のテクノロジーを生かして、バーチャルに広く発信していくことが望まれる。https://www.hrsa.gov/hansensdisease/museum/virtualtours.html
一方、カーヴィルの名と共に常に思い起こされる「スター」誌は、スタンレー・スタインの時代から21世紀の今日まで、途切れることなく当事者の手で編集され世界に届けられており、その創刊号からすべての号がデジタイズされてオンラインで読むことができる(URLは前出「スター」誌の項)。
日本のハンセン病療養所の機関誌とならんで、「鉄条網」や「壁」の中から一世紀近く続く当事者による発信は、人々の生きたあかしであり、貴重な「世界の記憶」として広く知られるべきものである。
今もカーヴィルに残されている墓地
カーヴィル博物館入口
カーヴィル博物館の展示
カーヴィル博物館の展示
参考資料: