Vol.02 2014.10.31
想像を絶する数十年間の孤独、沈黙
ハンセン病の患者は、多くの場合、村や町などの共同体から追放され、島や川の中州などに作られた療養所で隔離されました。先進国では現在、そのようなことはなくなりつつありますが(といってもスティグマや差別がなくなったわけではありません)、世界を見れば、一人で孤独と飢えに耐えながら生きるハンセン病患者は、まだまだ数多く存在しています。残念ながら、これが私たちの世界をとりまく現実なのです。
2014年春、訪れたインドネシアでも、私はそのような〈共同体から追放された人〉に会いました。パプア州ビアク島という、島を訪ねたときのことです。彼の名前はアビア・ルンビアックさんといい、村から遠く離れた、物置小屋のような場所で暮らしていました。
アビアさんが住んでいる小屋は、雨風はどうにか凌ぐことができるものの、壁にはところどころ穴が開いており、マラリアを媒介する蚊の侵入を防ぐことも、まったくできないという状態。小屋の広さは3平方メートルほどで、アビアさんは、その小屋の土間に、粗末な寝床を作って、1人で暮らしていました。
生活に必要な設備は何ひとつなく、彼の命を保っているのは、義姉が届けてくれる、わずかな食事だけ。その食事も毎日届けられるわけではなく、空腹のまま眠ることも、しばしばあるということでした。
ハンセン病を発症する15歳まで、漁師として働いていたそうですが、村から追放された現在は、漁師だった頃に使っていた木製の櫂を松葉杖がわりにして、小屋のまわりを歩くくらいしか、することがないと言っていました。残りの時間は、小屋の中に座っているだけ。「一日がとても長く感じられる」と、アビアさんは話してくれましたが、無理もないと思います。ときおり小屋のそばを通りかかる村人も、アビアさんとは目を合わせず、完璧に無視をして通り過ぎていきます。
私は、そんなアビアさんをどうしても放っておくことができず、夕食を一緒に食べましょうと約束しました。その日の夜、食事と飲み物をもって再び小屋を訪ね、「約束どおり来ましたよ」と話しかけたときの、淋しそうな笑顔が忘れられません。あらためて尋ねてみると、最後に他の人と一緒に食事をしたのが、いつのことだったか、まったく覚えていないということでした。それほど長い間、共同体から孤立し、孤独な生活を続けてきたのです。
私は、その年月の長さを思い、あらためて沈黙せざるを得ませんでした。村からの追放と激しい差別。そして、数十年におよぶ孤独な生活。アビアさんの表情とまなざしに宿る深い哀しみに胸を突かれました。それと同時に、その表情は、厳しい修行に耐えた仏教僧のようだとも思えたものです。
ハンセン病患者がいわれなき差別を受け、共同体から追放されるという問題は、今もなお、世界各地で起きています。私は、そのような生活を強いられている人に会うたびに、ハンマーで殴られたようなショックを受け、自分の非力さを痛感しています。
だからといって、打ちのめされているだけでは、何も変わらない。私たちにできるのは、ファイティング・スピリットを失わず、ハンセン病制圧、差別をなくしていくための、闘いをつづけていくことだけなのです。