Vol.07 2015.12.21
ハンセン病の薬(1)――特効薬の開発と無償配布
古くから「不治の病」として恐れられたハンセン病が、「確実に治る病気」になったのは、1980年代のことでした。3種類の薬を組み合わせて服用するMDT(多剤併用療法)が確立したのです。まさに、エポックメイキングな出来事でした。さらに、治療効果の研究が進んだ1990年代後半以降は、服用後、半年から1年で完治するようになりました。
もちろんそれ以前にも、さまざまな治療法が試されてきました。1940年代初頭まで主流だったのは、ダイフウシという木の種子から取った「大風子油」の注射です。この注射はとても痛いうえに、あまり効き目がなかったようです。
1943年にアメリカで、後のMDTにつながる大きな発見がありました。結核治療のために研究されていた新薬「プロミン」が、ハンセン病にも効果があることがわかったのです。結核のもとになる結核菌と、ハンセン病を引き起こす「らい菌」は、同じ属に分類される細菌です。これに目をつけたアメリカの国立ハンセン病療養所の医師が、希望する患者に投与したところ劇的な成果を上げました。このエピソードは世界中の注目を集め、療養所の名前を取って「カーヴィルの奇跡」と呼ばれたほどです。
同じ頃、日本でも東京帝国大学医学部教授だった故・石館守三博士が、独自にプロミンの合成に成功しました。1950年代になると、注射剤のプロミンを飲み薬にした「ダプソン」が開発されて、多くの国で使われるようになりました。
ところが、ダプソンは何年も飲み続ける必要があったことから、次第にらい菌が耐性を持ち、薬が効かなくなる患者さんも現れました。WHOの薬剤治療研究グループは、耐性菌の発現を防ぐために、2種類以上の治療薬を併用する治療法を研究し、MDTの使用を提案しました。石館先生と私の父・笹川良一が中心となって発足した笹川記念保健協力財団の医師であった湯浅洋先生も、このグループのメンバーでした。
MDTの有効性を確信したWHOは、これをハンセン病の「標準的治療法」として推奨するとともに、1991年の総会で「2000年までにハンセン病の患者数を人口1万人あたり1人未満にする」という目標を採択しました。数値目標を示したのは、それまでにない画期的なアプローチでした。
3年後の1994年、日本財団の理事長であった私は、MDTを世界中の患者へ無償で配付するための資金として、WHOに対し5年間で5000万ドルを提供することを申し出ました。目標を達成するには、関係者の誰もが「これなら大丈夫だ」と確信できる決め手が必要だと思ったからです。金額は必要な薬の量から算出したものですが、多額の資金が投入されたことで、ハンセン病対策が一気に活気づき、大きく前進したことは間違いありません。この活動は、2000年以降はスイスの製薬会社ノバルティスに引き継がれ、現在も続いています。
こうして「ハンセン病には特効薬があり、しかも無料で配付される」という状況が実現しました。しかし、いくら薬がタダでも、それが患者さんの元へ届き、きちんと治療が行われるかどうかは、地域の特性や文化、慣習などに大きく左右されます。ハンセン病患者が多いのは、制度や体制が先進国のようには整っていない発展途上国なのでなおさらです。だからこそ、現地へ赴き、この目で実情を確かめる必要がある――。私が2001年に「ハンセン病制圧大使」に任命されて以来、年間150日も海外へ出かけ、患者さんとじかに接しているのもこのためです。次回から、私が見た世界の実例を紹介していきます。