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THINK NOW ハンセン病 / グローバル・アピール 2015 TOKYO イベントレポート

黒崎彰写真展『道輔さん』

2015年3月3日〜3月8日の6日間、東中野にあるSpace & cafeポレポレ坐で「道輔さん」と題した写真展が開催されました。「道輔さん」とは国立療養所多磨全生園でハンセン病図書館員を長年勤めた山下道輔さんのこと。2002年から13年にわたり全生園と道輔さんの写真を撮り続けた黒崎彰さんに、今回の写真展に込めた想いなどを聞きました。

日時
2015年3月3日~8日
場所
Space&Caféポレポレ坐(東京都)
主催
黒崎 彰

図書館員として資料と向き合い続けた40年。
道輔さんの笑顔が忘れられない。

黒崎さんが全生園の写真を撮ろうと思うようになったきっかけは何だったのでしょう。

北條民雄の小説『いのちの初夜』を読んだことです。北條民雄が暮らした多磨全生園に行ってみようと思ったんですが、ハンセン病のことについて何も知らない自分にとっては、相当決心がいることでした。それで最初は全生園のことを知っている友人に案内してもらったんです。

全生園の園内には教会やグラウンド、広い園内に並ぶ廃屋など、いろんな風景があるというのを知ったのは、そのときでした。北條民雄が暮らした秩父舎の前には、『いのちの初夜』にも描かれた楓も、今は大木となって残っていました。それを見たときに、ここの風景を写真に撮って残すべきなんじゃないかと強く思ったんですね。それで誰に言うわけでもなく、通い始めました。

道輔さんとの出会いは、どんな感じでしたか。

2002年から週に一回くらいのペースで全生園に通い、風景や建物などを撮っていました。道輔さんはハンセン病図書館員だったので、毎日午前と午後、自分の部屋から自転車に乗って図書館まで通っていた。すると、なんだかしょっちゅう三脚立てて写真撮っている人、つまり僕のことを見かけるわけです(笑)。それで秋も深まった寒い日に「自分はそこの図書館の者だけど、今日は寒いから、お茶でも飲んであったまっていきなさい」と、声をかけてくれた。それが道輔さんと知り合ったきっかけです。

道輔さんは僕にハンセン病図書館の資料を色々と見せてくれました。そこには全国の国立療養所から集められた資料、ハンセン病に関する書籍、ハンセン病図書館を利用した研究者、学生が書いた論文や書籍など、あらゆる貴重な資料がありました。こうして僕もハンセン病のことをいろいろ知るようになった。

道輔さんは、ハンセン病図書館でどんな仕事をされていたんですか。

ハンセン病図書館ができたのは、多磨全生園が60周年を迎えた1969年です。そのとき道輔さんは「命がけでやるから、自分に手伝わせてください」と自分から手をあげたんだ、と言っていました。最初にやったのは、全国の療養所で発行していた機関誌を全部集めることだったそうです。そこには入所者の作品などと一緒に、当時の入所者の暮らしぶりなどが書かれていたんですね。一部しかない資料は、三日三晩かけて書き写したとも言っていました。まだコピーなどない時代ですから、そうする他なかった。そうやって作られた資料は、2001年の国家賠償請求訴訟でも大きな役割を果たしました。

写真を撮り始めてすぐにわかったことですが、道輔さんはものすごい達筆なんですね。手が不自由なはずなのに、なぜあんなにきれいな字が書けるのか、とても不思議に思った。きっと大量の資料を書き写していくうちに、ああいった字が書けるようになっていったんじゃないないでしょうか。道輔さんは努力の人でしたから。

道輔さんの人物写真は、すべてモノクローム(白黒写真)で展示されていましたね。

全生園に通い始めた頃はモノクロフィルムで撮っていましたが、途中から撮影はデジタルカメラに替えています。それでもあえてモノクロにしたのは、モノクロ写真というのは、「じっくり足を止めて、読み込まないとわからない」ものだからです。道輔さんの写真をこういう形で見てもらうなら、やはりしっかり向き合って、そこに何があるか見てほしい、できればその背後にあるものも読み取ってほしいと思いました。

道輔さんと13年にわたってお付き合いして、黒崎さんはどのように変わりましたか。

道輔さんから学んだことはたくさんありますが、一番は「ものごとは、とにかく毎日の繰り返しである」と教えてもらったことです。道輔さんは朝から晩まで、資料集めとその整理を、40年間休まずやり続けた人でした。その経験から、独自の図書館学も編み出したんだと教えてくれました。全国の療養所からは「全生(園)に山下あり」と言われていたそうですが、あの姿を見ていると、そうだろうなと思います。

普段話していても、哲学者みたいなことをさらっと言うんですよ。「あんた、いつも壁にぶつかってるみたいだけど、壁の横をするっとよけていくっていう抜け方もあるんだよ。たまにはそんなやり方でもいいんだよ」そんなこともよく話してくれました。

道輔さんと2人でよく旅にも行きました。旅に出たときの道輔さんは普段とは違って、よく笑うんです。また、それがとってもいい笑顔なんですね。今回の写真展では、そんな道輔さんの笑顔を会場奥にまとめて展示しましたが、長い付き合いのある人も、道輔さんって、こんなに笑う人だったのか」と驚いていましたよ。図書館で働いているときは、黙々と作業している姿しか人に見せていませんでしたからね。

道輔さんと黒崎さんがいい関係を作れたのは、なぜだったのでしょう。

性格が合ったというのが、大きかったんじゃないでしょうか。道輔さんは谺雄二〈こだま・ゆうじ〉さん(詩人。2014年5月11日逝去)と親友同士だったんですが、道輔さん、谺さん、僕の3人でもよくお酒を飲みました。道輔さんの部屋でお酒を飲んで、そのまま泊まるなんていうこともたびたびあった(笑)。谺さんは2014年5月に亡くなられましたが、谺さんからも、じつに多くのことを教えてもらいました。

道輔さんは2014年10月に85歳で亡くなりましたが、道輔さんのことを、どのように語り継いでいったらいいと思われますか。

道輔さんは、自分から表に出たいと思うような人ではありませんでした。話をするときも決して「自分が」とは言わないんです。常に控えめに語る人でした。僕自身、そんな道輔さんの影響をものすごく受けたと思っています。

道輔さんはハンセン病に関わる問題をどう語り継いでいったらいいか、集めた貴重な資料をどう活かしていったらいいか、ずっと考え続けていました。最後の入院となってからも、訪ねてきた国立ハンセン病資料館の学芸員の方たちに「こうしたら、もっとわかってもらえるのではないか」という自分の意見を切々と語り続けていた。

僕にはハンセン病の啓発活動をしなければ、というような意識は、まったくありませんでした。ただ13年前に全生園で道輔さんという人と出会って、彼のことを好きになった。一緒に旅をして、お酒を飲んで、たくさん笑った。その道輔さんの姿や言葉を通じて、何かを伝えたいと思っているんです。どのような形になるかは、まだわかりませんが、僕なりのやり方で語り継いでいけたらと思っています。

プロフィール

黒崎 彰(くろさき・あきら)

新潟県小千谷市生まれ。コマーシャル、雑誌などで人物撮影を中心に活動。日本写真家協会会員。

黒崎彰フォトギャラリー
http://aramusya.kuron.jp/

2015年4月29日(水)〜5月10日(日)

国立ハンセン病資料館1Fギャラリーにて『道助さん』追悼展が開催されます。
http://www.hansen-dis.jp