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People / ハンセン病に向き合う人びと

伊波 敏男(作家) vol.1

砲弾が飛び交う沖縄の戦禍を家族とともに生き延びながら、
ハンセン病をもらいうけてしまった少年が、進学したいという一途な思いを育み、
ついに療養所からの脱走を決意した。
回復者であることを包み隠さず、社会復帰を果たし、現在は長野県上田市に暮らしながら、
『花に逢はん』『ハンセン病を生きて』などの著書を精力的に発表しつづける伊波敏男さんのライフストーリーをうかがいました。

Profile

伊波 敏男氏
(いは としお)

1943(昭和18)年、沖縄県生まれ。作家。人権教育研究家。14歳からハンセン病療養所での医療を経て全快。その後、東京の中央労働学院で学び、社会福祉法人東京コロニーに就職。元東京コロニーおよび社団法人ゼンコロ常務理事。97年、自らの半生記『花に逢はん』(NHK出版)を上梓、同年、第8回沖縄タイムス出版文化賞を受賞。ついで『夏椿、そして』(NHK出版)を著し、ハンセン病文学を問い続ける。2004年より信州沖縄塾を開塾し、塾長をつとめる。2003年、ハンセン病国賠訴訟の賠償金をもとに、地域医療を志すアジアの若者を育てる奨学金制度「伊波基金」を設立。著書に『ハンセン病を生きて』(岩波ジュニア新書)、『ゆうなの花と季と』『島惑ひ―琉球沖縄のこと』『父の三線と杏子の花』(以上人文書館)。

もし沖縄に生まれていなければ、
病気の発見はもっと早かったかもしれない

伊波さんは沖縄生まれ、
それも、戦争まっただなかの沖縄で生を受けたんですね。

南大東島で生まれて、沖縄全島が爆撃にさらされた「10・10空襲」のときが1歳半でした。南大東島の実家は島内一番の家屋敷でしたので、駐留する日本軍の司令部として接収され、家族そろって沖縄本島に疎開してきた矢先に、アメリカによる空爆と地上戦に巻き込まれたんです。私はまだ乳飲み子でしたから記憶にはありませんが、砲弾や銃弾が飛び交うなか、家族で逃げまわったそうです。でも不思議ことに、家族のだれも被弾しなかった。祖父母を含めた10人全員が生き延びることができたんです。

でも、その後、家族のなかで伊波さんだけがハンセン病にかかってしまった。

だから、私にとって沖縄というのは、自分が生まれた場所ということ以上に、特異まれなハンセン病をわが身に抱えることで、人間とは何か、いのちとは何かということを考えるための根っこを突きつけられることになる「特別な故郷」であると言ったほうがいいのかもしれません。

病気の発見はどのように?

14歳のときに診断を受けてわかりました。それ以前から、からだの異変に気付いていました。右手の小指が曲がり、左足が下垂して、知覚が麻痺して痛みを感じない。ついには体中の神経に触るような痛みを感じるようになり、知覚麻痺のある足に大やけどを負って中学一年時を休学してしまったほどでした。父は「ハンセン病ではないか」という疑いをもっており、らい菌検査もしてもらいましたが、菌の検出がなかったものですから、最初に受けた診断で「小児神経炎」と誤診されてしまったんです。親心ですね。けっして特別なハンセン氏病(当時は氏がついていた)であって欲しくないと願っていたために、まちがった診断結果を固く信じ込んでこんでしまった。

父がお金をやりくりしてくれて、1本200B円(B円は米軍占領下で1948〜1958年まで使用された軍票。1B円=3日本円)もするような高価な注射を何度も打ってもらいました。琉球政府主席の給与が2万4000円という時代ですよ。もちろんアメリカ軍政下の沖縄には健康保険なんかありません。相当な出費だったと思います。おかげで痛みはだいぶんましになったんですが、ハンセン病による知覚麻痺はどんどん進んでしまった。

もし沖縄でなければ、おそらく私の病気はもっと早くに発見されていただろうと思います。戦争の影響で、沖縄の医療環境は壊滅していました。衛生状態も悪く、いろんな病気が蔓延していたけれども、医者の数がぜんぜん足りない。年に何十人という単位で本土から医者が招聘されてやってくるという状態でした。

私の病気も、本土から来たハンセン病の専門医によって、やっと発見されたわけです。その翌日には、父に連れられて沖縄愛楽園に行かされました。

愛楽園はどういうところでしたか。

  • 自給自足の食糧生産 1945(昭和20)年 沖縄愛楽園(沖縄県公文書館所蔵)(*)

最初にびっくりしたのは、名前を変えるように言われたことです。療養所の入口で「関口進」と書かれた紙きれを渡されて、「今日からこれが君の名前だ」とね。ご存じのように、ハンセン病療養所では、親類縁者に害が及ばないように、偽名に変えさせられることがありました。療養所に入ったとたん、伊波敏男という存在そのものが消されてしまった。まずそれがショックでした。

それからすぐに、少年少女舎の一部屋6~7人ずつの共同生活を送ることになります。当時の記録によると愛楽園の入所者は946名いたようです。そのうち子どもは56名。療養所では小・中の義務教育は受けられるようになっていたので、昼間は園内の学校に通い、学校が終わると、少年少女舎での生活です。上級生たちは下級生たちの生活の世話をさせられるんです。私も入園したすぐ翌日に、幼い“弟”が割り当てられました。

夜9時には消灯で、真っ暗になる。そうすると、寝かしつけようとする子どもたちがしくしくと泣き始めるんです。なんてつらいところに来たんだろうと思いましたね。

炎天下、瓦礫のなかで患者の遺体解剖 1945(昭和20)年 沖縄愛楽園(沖縄県公文書館所蔵)(*)

もっと本を読みたい。もっと勉強したい。
川端康成との出会いと、進学の夢

少年少女舎には何歳くらいまでいたんですか。

  • 日本復帰記念のハーリー(爬竜船競漕) 1972(昭和47)年 沖縄愛楽園(*)

中学を卒業すると、大人たちのいる一般舎に行かなければいけない決まりでした。それがものすごくいやだった。大人舎には朝から酒を飲んで大声をあげて騒いでいるような青年たちもいる。園のほかに行き場がない、やることもない。だから自堕落になってしまうのはしょうがないんですが、自分も一生、あのなかで暮らしていくのかと思うとものすごく不安になった。とても怖かった。

ちょうどそのころ、長島の邑久高等学校(1955年に愛生園内につくられた分校の新良田教室)で学んでいる高校生が愛楽園に来て、話をしてくれたんですね。自分たちが学べる高校があるということをそのとき初めて知った。それから熱に浮かされたように、高校に進学したい、新良田教室に行きたいと思い詰めるようになったのです。

ちょうどそのころ、もうひとつ、大きな出来事がありました。作家の川端康成さんが愛楽園に来られて、私と話をしてくれたんです。1958年のことです。川端さんは文化講演のために沖縄に招かれたんですが、主催者側に「講演をするついでに、ハンセン病療養所にいる子どもたちにぜひ会いたい」というリクエストを出されたんですね。

沖縄では「ハンセン病療養所は人間が足を踏み入れるところじゃない」なんて考える人が、まだまだ多かった時代です。川端さんのリクエストには主催者たちも頭を抱えてしまったらしい。苦肉の策で、「ひとりだけ子どもを選びますから、その子とだけ会ってください」ということになり、関口進少年、つまり私が選ばれたんです。川端さんに届けられた療養所の子どもたちの作文を読んで、川端さんが「この子に会いたい」と、指名したのだそうです。

川端康成さんは、どんな感じでしたか。

  • 住舎を訪れた川端康成 1958(昭和33)年 沖縄愛楽園(*)

国語の教科書に『伊豆の踊子』が載っていたんですが、その最初のページに出ている顔写真のまんまだなあと(笑)。痩せすぎで、エラが張って、眼だけが大きくギョロッとして。

じつは、川端さんに会うところまでが、大変だったんです。挨拶の仕方から、質問への答え方から、口うるさく言われて練習させられて、「進君は目つきが悪い。いつも大人をにらみつけている。もっと優しい眼をしなさい」とか指導されていました。(笑)。

そうしていざ川端さんと対面するために入室しようとしたとき、入り口ですっかり足がすくんでしまいました。その部屋には、白い予防服を着てゴム手袋をして黒い長靴を履いた大人たちが30人近くもずらっと並んでいた。それはいつも見慣れている光景だから気にならなかったんですが、驚いたことに川端さんだけがワイシャツ姿で、袖をまくりあげた格好で、ニコニコしながらそこに置かれた椅子に座っていたんです。それを見て、すっかり怖気づいてしまった。

校長先生に背中を押されて、しかたなく川端さんのすぐ前に置かれたパイプ椅子に座ったら、「関口君だね」と言って、いきなり手を握ろうとしました。私はとっさに両手を背中の後ろに隠してしまった。川端さんはちょっと悲しそうな顔をして、自分の椅子を引き寄せて、私の太ももを挟み込みました。川端さんが話すと、ツバが顔にかかってしまうくらいの近さでしたよ(笑)。そのままいろんな話をしました。

そのころにはもう、川端さんの尽力で、
北條民雄の『いのちの初夜』が世に出ていたんですよね。

  • 愛楽園の資料館「交流会館」には、川端康成寄贈の本がいまも残されている。

その話も出ました。「『いのちの初夜』は読みましたか」と聞かれました。読んでいたけども、正直言って中学生の私にとって難しかった。だから「よくわかりませんでした」と答えたんですが、川端さんがまた悲しそうな顔をされたので「あ、また余計なことを…」とあわてて、「でも、先生と北條さんとの往復書簡の中で覚えているところがあります」と言いました。「へー、どっどっどこ?」とせきこむように聞かれたので、「僕には何よりも生きるか死ぬか、文学するよりもそれが根本問題だったのです。人間が信じられるならば、耐えていくこともできると思います」という手紙の一部をすらすらと諳んじて見せました。そのころは暗記力はまだ健在だったようですねえ(笑)。

すると、川端さんの大きな目の玉から、シャボン玉みたいに涙がこぼれてきた。私の太ももをパンパンと叩いて、「進君! 関口君! 君は北條民雄の悲しさ、『いのちの初夜』が、わかってますよ」。

そこで時間切れになりました。川端さんは私の手を握りなおして、こんなことを言ってくれたんです。「進くん。自分の中にたくさん蓄えなさい。そして書きなさい」。この言葉が私の心にいちばん響きましたね。その後もずっと残りました。

白い服の人たちと部屋を出て行きかけた川端さんが、最後にもう一度、私に向かって、「進くん! 何か欲しいものはありますか」と聞いてくれました。すかさず「本が欲しいです」と答えたら、大きくうなずいていました。

それからしばらくして、療養所に木枠の箱がたくさん届いた。開けてみたらどの箱にも児童図書が詰まっていた。それを片っ端から読みました。本の中には夢がいっぱいあった。本がいろんな世界に連れて行ってくれた。そんなこともあって、もっと本を読みたい、もっといろんなことを知りたい、もっと勉強したいという思いが私のなかでどんどん大きくなっていったんですね。

愛楽園を脱走した夜。
父の覚悟に支えられてヤマトへ。

それで、沖縄を出て、長島の高校に行くことに?
いまとは違って簡単なことではなかったのでしょう。

  • 屋我地島の北端にある愛楽園から臨む古宇利島(写真右)。2005年に大橋が架かった古宇利島はいまでは人気の観光スポットとなっている。

沖縄からヤマトに行くにはパスポートが必要な時代でしたからね。しかも、出入国管理令で、らい病患者の出入国は禁止されていたのです。でもどうしてもヤマトに行きたい。とうとう、母を通じて父を説得してもらいました。「ヤマトに行って勉強したい。だからここから逃がしてほしい。パスポートが欲しい」と。すると、ただの一度も手紙なんかくれたことのない父から封書が届きました。二重封筒にたった1枚便せんが入っていた。1行目に「他言無用」とあって、2行目に「1960年3月6日夜7時半」、3行目に「懐中電灯3回連続点灯」、4行目には「一切の荷物を持つな」とありました。左下には愛楽園の島の地図が描いてあって、隔離されていた屋我地島の対岸の運天港に向かい合う西海岸に赤丸がついている。これが愛楽園を脱走するための手筈なのだということをようやく理解しました。

父は「他言無用」と書いていたけど、お世話になってきた親代わりの寮の“お父さん”にだけは伝えました。「そうか、行くのか。君が成功すれば、次々と後を行かせるからね。頑張ってきなさい」と言ってくれました。

いよいよその夜、父の指示通りに海岸に行き、暗い海を見まわしていたら、点灯する光が見えて、サバニというカヌーみたいな小さな舟で父が迎えにきました。そのまま愛楽園から逃走しました。対岸に着き、そこから30分ほど山道を行くと、ヘッドライトを消したタクシーが待っていた。沖縄に二十数台しかタクシーがない時代です。その1台を父が手配してくれたんですね。しばらく山道を走りましたが、私は後部座席に隠れるように乗っていました。

いまの嘉手納基地の近くまで走り、Uターンして、そこから宜野座の村はずれまで来たところでタクシーが止まりました。父が「敏男、おふくろがつくってくれたから食べろ」と言って、握り飯を出してくれました。ほうばっていると、それまで無言だった運転手がハンドルに伏して忍び泣きをしながら、「この子がかわいそうだよ。せめて家族に会わせてやってくれよ」と言うんです。父は、私が逃走したことが明るみになるまえに、そのまま早朝に那覇港から出る船に乗せるつもりでいたんですね。でも運転手が泣きながらそんなことを言うので、父も折れて、予定を変更して家に戻ることになった。愛楽園に連れて行かれてから3年ぶりでした。

すでに夜中の12時を過ぎていました。朝6時には港に行くから「仮眠しなさい」と、父から申し渡されましたが、4人いる怖い姉たちが寝かせてくれなかった。「敏男は手に後遺症があるから、検疫官の前では、縦折にしたオーバーコートで両手を包み込んで通過しなさい」と言って、ファッションショーみたいに何度も手を隠して歩く練習をさせられました。仮眠どころじゃなかった。

8時の出航に会わせて父と港に行くと、すでに船が岸壁に横付けされていました。岸壁から1メートル30センチぐらいの幅で、乗船口までロープが張られていて、切符のチェックを受けた人は、一人ずつロープの中を通される。その先には白衣を着た検疫官が二人、少し間隔を空けて座り、通過者をなめるようにチェックしていました。

父が検疫官の前を通過するのを見届けてから、姉たちに練習させられたとおりに、手をオーバーで隠して、胸を反らして検疫官たちの前を歩きました。ドキドキして冷や汗がでました。そこを無事に通過すると、今度はアメリカの民政官が待っていて、パスポートのチェックです。今度も父が先に行き、自分の番が来ました。

民政官が私のパスポートと顔を見比べながら1ページずつめくっていく。と、突然「ストップ!」と言われ、いきなり英語でペラペラと何か言われたんです。何を言われているのかさっぱりわからない。一生懸命片言で「エクスキューズミー、プリーズ、ワンスモア」というと、「ユアサイン、プリーズ」と言って、パスポートのサインの欄を指さしました。なんと、署名を書くところが空欄になっていたんです。父も逃走の段取りに忙しく、父子同伴で入手した私のパスポートに、名前を書かせるのを忘れていたのでしょう。

手を決して見せてはいけないと言われていたのに、つい慌ててしまい、民政官が差し出した万年筆を受け取って、彼の見ている目の前で名前を書きました。

「もうダメだ。これで失敗した」と思いながら、民政官の顔をうかがいました。彼は私のほうを見下ろしていましたが、眼と眼が合うと、突然ものすごく大きなウィンクをしてくれた。そして、「グットラック!」と言って、パスポートにバンとスタンプを押してくれたんです。いま思うと、彼はきっと何事かを察したのではないかと思うんですね。でも見逃してくれた。おかげで、沖縄から逃出することができたんです。

でも、あとからそのとき書いたパスポートのサインを見直してみると、伊波敏男の「男」が「夫」になっていた(笑)。よっぽど焦っていたんでしょうね。

無事に出航してからはどんな気分でしたか。

  • 沖縄からの渡航時、アメリカ人民政官に指摘され、慌ててサインしたせいで名前を書き間違えた

気が気ではなかったです。というのも、船の中では父が私に毛布をかぶせて、いっさい人目に触れないようにさせたんですね。トイレに行くときもずっと私の右腕をつかんで離そうとしない。

だいぶん後になってから母から聞いたんですが、あのとき父は、もし船のなかで私の病気がばれてしまったときは、私を抱えて海に飛び込むつもりだったそうです。

その話をしながら、母が、逃走の2週間前に撮ったという写真も見せてくれました。父と二人、これが最後の写真になるかもしれないと、正装して写真館で撮ったものでした。「もし連絡が途絶えたときは、二人を探さないでくれ」と言って、財産の処分方法まで母に指示していたそうです。命懸けで私を沖縄から連れ出してくれたんですね。

私が愛楽園に入る前の日、こんなことがありました。父が仏壇の前に私を座らせて、三線(さんしん、沖縄三味線)を弾きながら、沖縄の古典民謡を歌ってくれたんです。子どもの私にはその音楽も歌詞もよくわからなかったけど、きっと大事な曲なんだと思って聞いていた。のちにそのときのわずかな歌詞の記憶を頼りに調べて、やっと「散山節」という歌だったことが判明しました。それは死者を回想するときの歌だった。本当は生きている人の前では歌ってはいけないものだったんですよ。あのときすでに父は何かを覚悟していたのかもしれません。

(つづく)

*『ハンセン病療養所 隔離の90年』(全国ハンセン病療養所入所者協議会(編) 解放出版社 1999年)より引用

取材・編集:太田香保 / 写真:川本聖哉