ハンセン病制圧活動サイト Global Campaign for Leprosy Elimination

People / ハンセン病に向き合う人びと

伊波 敏男(作家) vol.2

沖縄愛楽園から命懸けの脱走を経て、人びととの稀有な出会いに支えられながら、
ついに人前に晒すことができなかった両手をポケットから出し、
傷だらけになりながらも社会に対して声をあげつづけた伊波敏男さん。
長野の子どもたちとの交流や、フィリピンの地域医療を支える奨学金を通して、
伊波さんは若者たちに何を託そうとしているのか。
ライフストーリーをうかがうロングインタビューの後半をお届けします。

Profile

伊波 敏男氏
(いは としお)

1943(昭和18)年、沖縄県生まれ。作家。人権教育研究家。14歳からハンセン病療養所での医療を経て全快。その後、東京の中央労働学院で学び、社会福祉法人東京コロニーに就職。元東京コロニーおよび社団法人ゼンコロ常務理事。97年、自らの半生記『花に逢はん』(NHK出版)を上梓、同年、第8回沖縄タイムス出版文化賞を受賞。ついで『夏椿、そして』(NHK出版)を著し、ハンセン病文学を問い続ける。2004年より信州沖縄塾を開塾し、塾長をつとめる。2003年、ハンセン病国賠訴訟の賠償金をもとに、地域医療を志すアジアの若者を育てる奨学金制度「伊波基金」を設立。著書に『ハンセン病を生きて』(岩波ジュニア新書)、『ゆうなの花と季と』『島惑ひ―琉球沖縄のこと』『父の三線と杏子の花』(以上人文書館)。

50パーセントの成功率に賭けて、
12回もの手術に耐えた

沖縄愛楽園から脱走し、
長島愛生園に行くまではどういうことがありましたか。

まず鹿児島の星塚敬愛園に行きました。じつは長島の高校に入るための入学試験は1月にすでに終わってしまっていた。私が沖縄を出たときは3月でしたからね。そこで翌年まで敬愛園で待機し、受験することになったんです。

敬愛園に岡山から試験官がきて、その監視下で何人かの生徒といっしょに試験を受けました。入試には療養所内の小中学校校長が立会人をされてましたが、試験終了後の講評で、私は理科を1問だけまちがえていたけど他の教科は満点だったと教えてくれました。ところが、のちに届いた合格者名簿に私の名前がなかった。これには校長がびっくりして、岡山県教育委員会に連絡してくれたんですが、さっぱり事情がわからない。

じつはひとつだけ思い当たることがありました。受験者は療養所医師による健康状況所見書の提出が義務付けられていたんですが、私の所見書には、「両手指機能全廃、両手首、左足首下垂、学校生活、寮生活で特別な配慮を要す」と書かれていました。きっとこれが不合格の原因だと思いあたった。そこで、すぐに岡山教育委員会に抗議文を提出したんです。

「私は人より早く走れませんし、高く飛ぶこともできません。しかし自分のことはしっかりできます。私のような生徒こそ、邑久高等学校の創立趣旨からして、この高等学校で学ばせるべき生徒ではないのでしょうか」といった内容でした。しばらくしたら合格通知が届きました。30人定員のところに31番目の合格者となった。たかだか子どもの書いた抗議文をちゃんと取り上げてくれる教育者たちがいらっしゃったのですね。

こうして、1961年に長島愛生園に移り、邑久高等学校「新良田教室」の生徒になりました。回り道をしたおかげで、私は18歳になっていました。

長島での高校生活はどうでしたか。

当時の新良田教室には、男子80人、女子35人がいました。授業開始は9時20分と遅く、これは生徒たちが午前中に治療を受けられるようにするためです。1日の授業は四時限まで。比較的余裕のあるカリキュラムで、放課後はいろんなクラブ活動に参加することができました。

1年生の定期健診のときに、若い整形外科医と出会いました。橋爪長三先生といって、診察しながらいろんなことを聞かれました。その後、医学の専門書を抱えて、寮にまで訪ねてきた。私にわかるように絵を書きながら形成外科手術のやり方を説明してくれるんですね。毎晩のように、診察を終えたあとそうやって私に会いにくるので、舎監からは「おい、伊波君の恋人がやってきたぞ」と冷やかされるほどでした(笑)。

橋爪先生は、手術をすれば私の手の機能が回復するということをさかんに説得してくれるんですが、「橋爪先生はすぐに手術したがるから気をつけろ」という療養所内の噂話も耳にしていたので、なかなか応じなかった。でも、「惜しいよな。この手術をやればボールも投げられるようになるし、走れるようにもなるんだけどな」なんて言われて、だんだん気持ちが揺れ動いてきたんですね。

「手術の成功の確率はどれくらいですか」と聞くと、先生は「私のなかでは理論的には明確ですが、初めての執刀なので50パーセントと答えるべきでしょう」。ずいぶん正直な答えだと思いました。でも、その答えを聞いて橋爪先生を信用してもいいと決心がついた。すべてをこの若い医師に任せてみようと思ったんです。

それから、5年のあいだに12回もの形成外科手術を受けました。手術をすると40度くらいの熱が出て、抗生物質とリンゲル液が投薬されると熱が下がり、三週間後に抜糸、そしてリハビリとの格闘がはじまる。そしてまた手術。その繰り返しです。同級生からは「ギブスの似合う伊波」と呼ばれていましたね(笑)。

どんな手術だったんですか。

たとえば、手首と手指の手術のときは、足のアキレス腱の横に歩行に必要ない腱があるのを抜いて、分割して手に移植するんです。右足から取った腱を見せてもらうと、ちょうど薄黄色の干瓢(かんぴょう)みたいでしたよ。

私は自分の手術をすべてこの目で見たんです。初めての手術のとき、橋爪先生から「手術の様子を見ますか。ちょっと勇気が必要ですよ」と言われました。年頃でしたし、まわりに若い看護婦たちもいるし、ついいきがって「見せてください」と答えたんです。それで部分麻酔だけして、手術の経過をすべて見せてもらいました。自分のからだのしくみや、腱の移植の方法などをすべて見て理解できたおかげで、そのあとのリハビリもうまくできたように思います。

ただ、いまだにテレビで手術のシーンが出てくると落ち着きませんね。怖くてつい目を反らしちゃう。あのとき、いやというほど見せられたから(笑)。

いまでも私の手は、圧迫力は感じますが、知覚による触感はぜんぜんないんですよ。でもこうやって、手首を自由に動かして、たいていのことはできます。手術とリハビリによってここまでできるようになった。橋爪先生は、「頭の中で手が動くことをイメージして、体に命令しなさい」と教えてくれました。最初はなかなかうまくいかなかった。5時間くらいいろいろ試行錯誤しつづけて、やっとピクッと手を動かせるようになり、それからさらに2時間、先生といっしょに格闘し、ようやく脳のなかの命令系統を探り当てたんです。一度それを獲得すると、だんだん上手に動かせるようになりました。

私の障がい度は、在校生たちのなかでも一番重いものでした。それが、先生が言っていたとおり、ボールを投げられるようにもなった。ついに社会復帰ができるほどに機能を回復することができたんです。

ようやくポケットから両手を出して、
社会復帰、そして「ある結婚」

手術を重ねるうちに、高校卒業後の夢も
社会復帰の夢ももてるようになったんですか。

高校を出てから大学に行ったり、社会復帰したりする人たちを見ていましたからね。それと授業でマキシム・ゴーリキーというソビエトの作家の『クリム・サムギンの生涯』や『私の大学』という作品を読んで、すごく影響を受けたんです。ある青年が社会とのかかわりの中で、学び方や生き方を身に付けていくという話です。だから高校を出てから、もう少し勉強を続けたいと思っていました。

でも普通の大学に行くような経済的余裕がない。だから中央労働学院に進みました。そこは2年間の夜間の専門学校のようなところで、私には障害福祉年金が26,000円あり、これに生活給付金2万円弱を足すと、何とか学費と通学費はまかなえるだろうと考えた。また、多磨全生園の成田稔先生から、「手術の要あり」の診断書を書くから、多磨全生園への転園手続きをするように、というありがたい提案もいただきました。そこから学校へも通えるし、何よりも生活費がかからないと言ってくれました。

全生園に籍を置きながら、学校に通っていたのですか。
そんなことが可能だったんですか。

公的には認められていないことでしたが、黙認してもらいました。全生園は患者逃亡の防止のためにヒイラギの垣根で囲われていたんですが、一カ所、今の国立ハンセン病資料館辺りに、小さな裏口然としたところがありましてね。そこから出入りして、バスと電車を乗り継いで、港区麻布にある中央労働学院に週5日通いました。

でも、電車に乗って、街を歩くのはとても怖かったです。みんな私を見ているような感じがした。そのうちささやく声まで聞こえてくるんですよ。「あれは療養所に入っている人だよ」という声が。そこまで精神的に追い詰められていたんですね。だから外に出るときは、両手をずっとポケットに入れてひた隠しにしていました。人の目に晒したくないから。

講義中も、ノートをとる手を見られないよう、いつも一番前の真ん中の席に座りました。そうすれば手は教授にしか見られないですむ。授業が終わるといつも逃げるように教室を後にし、誰とも付き合わないようにしていました。

そんな私を変えたのが、労働学院で出会った山口という青年との出会いでした。彼が、誰とも打ち解けようとしない私をなぜか気にかけてくれた。そしてあるとき、熊本出身の元不良の番長で、他校のボスと喧嘩して大けがさせてしまい少年院にいたこと、その後、保護観察を受けながら東京の定時制高校を卒業し、いまに至っているという話をしてくれたんです。懸命に自分のことを話している彼の額には汗が光っていました。その話しに誘い出されるように、私はいきなり、後遺症に痛めつけられた両手を突き出しながら、ハンセン病のことを打ち明けたんです。

彼はハンセン病のことはあまりよく知らないようでしたが、「病気のことと君の人間性にはなんの関係もないだろう」と言ってくれた。それを聞いたときカラダに電気が走りました。その一言で、私の両手がポケットから出せるようになったんです。

要所要所で、大きな影響を与える人たちとの出会いがあったんですね。
そのあと伊波さんが就職した東京コロニーというのはどういうところですか。

社会事業授産施設といって、一般企業で雇用されるのがむずかしい人たちに職業訓練をし、社会的自立ができるよう支援をする社会福祉施設です。もともと結核の回復者のためにつくられた施設でした。そこで印刷工として働くことになったんです。

ハンセン病回復者の受け入れは初めてということもあり、最初は大変でした。私の受け入れに反対する人も多く、ずいぶん議論があったようです。仕事をするようになってからも見えないところでいろんな差別がありました。私が来てから、入所者が寮のお風呂に誰も入りたがらなくなって外の銭湯に行くようになってしまったとか、食堂では私が使う食器にだけこっそり目印がつけられていたということもあった。

私のために尽力してくれた常務理事の調一興さんは、東京コロニーの現場にそういう差別があることを知り、「全従業員を集めて厳しく注意をする」と言ってくれましたが、私は「しばらく待ってほしい」とお願いしました。コロニーの皆さんはいま、自分の身に付いてしまった差別意識を、1枚1枚脱いでいるところです。組織のトップであるあなたがあるべき道理を説き、過ちを指摘すれば、だれも反論できません。でも、これまで身に付けた社会認識を無理に脱がせようとしてはだめだと思います。自分自身で到達する納得こそが必要です。もう少し待ってあげてほしい。そんなふうに調さんに言いました。

あるとき、仕事が終わったとき、みんなでビール1本をお猪口で回し飲みするところへ声をかけてもらいました。給料が安かったのでそうやって1本のビールをみんなで分けあっていたんです。「ああ、ようやく空気が変わり始めたな」と思いましたね。

社会復帰してからもハンセン病回復者であることを隠しとおす人が多かったと思いますが、
伊波さんは最初から隠そうとしなかったんですか。

隠さないで生きていこうと思っていました。それにはひとつ理由がありました。

入試に合格して何人かの生徒とともに、熊本から岡山に送られたときのことです。私たちは郵便貨物列車に乗せられていました。車両には「伝染病患者輸送中につき入室を禁ず」と張り紙があり、いつも監視が付いていた。私はその車中で、1954年の「MTL(キリスト教救らい協会)国際会議」の報告書と、1956年の「ローマ会議」の報告書を読んだのです。そこには、「ハンセン病はすでに治る病気であり、隔離収容は是正されるべき」ということが書かれていた。天地がひっくり返るような衝撃を受けました。いままさに、人間以下の扱いを受けながら、ぼくたちは岡山に移送されている。いままではそれが当然のことのように思わされてきた。でもこれはまちがっている。日本はまちがったことをしているということをはっきりと理解したんです。

もうひとつ理由がありました。長島で私が何回も受けた手術に立ち会っていたある看護婦のことが好きになってしまったんです。職業上の献身的なサポートを個人的な好意だと思いちがいをしてしまって、彼女も私と同じ年に東京の高等看護学校に進学すると聞いて、ラブレターを送ったんです。そうしたらこともあろうにみんながいる前で突き返された。

「あなたはハンセン病療養所で療養の身です。私はあなたより年下だけど自分の生活は自分で責任を持っています。そんな私とあなたが、どうして人生や夢を語りあえるのでしょうか」と強烈なことを言われた。それで頭に来ちゃった(笑)。おかげで、「ようし、絶対に社会復帰してやろう」と、ますます火がついた。

その看護婦さんが、のちに奥さんになられた方ですか。

そうです。東京コロニーで最初の給料をもらったらすぐに会いに行きました。「自分の力で働いて稼いだ給料だ。これで条件はクリアした。付き合ってくれ」とね(笑)。彼女は、「回復者であることを隠さない」という私の生き方を理解してくれました。共に頑張ろうと誓いあって、二人の生活がはじまりました。

所帯をもった直後、NHKから私たちを取材させてほしいという話が来ました。回復者であることを隠したがる人が多いなか、私のように公言する人は珍しかったんですね。新婚間もない家庭にテレビカメラが入って妻とともに密着取材を受けました。

「人間列島」というドキュメンタリー枠の「ある結婚」という番組で、1972年の11月に放映されることになっていました。ところが、当日になって、突然、放映が中止されてしまったんです。元ハンセン病患者が出演する番組ということでNHKでも力を入れて、繰り返し番組宣伝を流していたんですが、回復者であることを伏せて社会に出ている人たちがそれを見てびっくりして、「過去の病歴を隠して生きている私たちを殺すのですか」と、局に抗議が殺到していたらしい。ハンセン病の問題を社会に知ってもらいたいという思いで、夫婦のプライバシーまでをテレビカメラの前でオープンにしたのに、そのような騒動が水面下で起っていたことは私たちにはまったく知らされていませんでした。

私は断固として抗議し、放映を求めつづけました。結局、3月31になって、予告もなく、突然番組が放映されたのです。

1972年当時にそんな番組があったんですか。
反響はかなり大きかったでしょう。

私たち夫婦が入っているアパートが大騒ぎになりました。大家さんに対して「あの夫婦を追い出せ」という話もあった。大家さんが頑として「私にはあのご夫婦が住んでいることに何の不都合もない。嫌ならあなたたちが出て行ってください」と言ってくれたんですが、それから間もなく、抗議者たちがアパートを引き払ったことを大家さんから知らされました。

その後、多磨全生園隣接地に、職員用の2LDKアパートが新築され、6所帯の利用希望者が公募されました。民間アパートに比べ家賃が4割も安かったこともあり、応募者が多く抽選となったんですが、運よく私たち夫婦が当選した。ところが、当選結果が職員掲示板に張り出されると、他の当選者たち5所帯が全員キャンセルしてしまったんです。繰り上げ補欠組の5所帯も間もなく辞退しました。それから半年近く、私たち家族だけが6所帯用新築アパートに入居していました。いつまでも空室にしておくわけにはいかず、民間不動産会社に委託されてやっと部屋が埋まりました。3年前、その「柊荘」をこの目で確認したくて訪ねましたが、築40年ながら、まだ利用されていましたよ。

妻はそれらの騒動に対しても、いやがらせに対しても気丈に振る舞い、耐えていましたが、さすがに子どもたちに向けられた攻撃によって、精神的に追い込まれていったようです。子どもを預けようとした保育園でも入園拒否問題が起こり、共に偏見と闘うという二人の約束が、次第に揺らぎはじめました。それでも私は、社会と闘う勇士のように振る舞い、「ハンセン病問題」を声高に訴えつづけていましたが、その反動が療養所の現場で働く元妻に向けられていたんですね。

ようやく子どもは保育園に受け入れてもらいましたが、私は、それから四十数年後に元保育園関係者からの証言で初めて、その裏に隠されていた事実を知りました。妻は「子どもの送り迎えを、いっさい父親にはさせない。保育園には立ち入ない。準・深夜勤務時は、第三者が子どもの送り迎えをする」という誓約をさせられていたんです。妻はこのことをひとりで胸にしまいこみ、私に話すことはなかった。この事実を初めて知らされたときは、あまりに重い無念さに怒りのやり場がなかったですね。

ハンセン病の患者や回復者と接する機会の多い職員のあいだで
そのような厳しい差別があったということには驚きました。
奥様も家族を守るために一人で闘っていたのですね。

  • 伊波さんの自宅の庭に飾られている沖縄の陶製のシーサー

でもついに耐え切れなくなったのでしょう。だんだん私に「子どもたちが自分の意思で判断ができるようになるまでは、ハンセン病のことは口にしないで、ただ手足が不自由なお父さんでいてほしい」と毎日のように言うようになりました。「もしそれがいやなら、誰も知らない別の町で、家族4人で新しい生活をはじめましょう」とも言われました。

社会を変えると意気込んでいる私には、それは偏見との闘いからの逃げとしか写らなかった。妻の心変わりをなじりました。息子が8歳、娘が5歳のとき、とうとう夫婦関係が壊れてしまい、妻から離婚届を突きつけられました。条件は、二人の親権を妻に譲ること。また、「私たちの行方を捜さない」ことを約束させられ、署名を求められました。

幼い子どもたちは、そんな夫婦の事情はなにも理解できなかったと思います。とくに息子が「ぼく、お父さんといっしょに暮らす」と言い張って困らされました。「だって、ぼくがいなくなったら、お父さんのシャツのボタンは誰がかけてくれるの」と泣きながら言われた。障がいのある手で服のボタンをかけるのが大変だったのを、いつも息子がやってくれていたんです。私は「10年たったらまたお父ちゃんに会えるよ」と言いました。そんなアテは何もなかったのですが、言い聞かすために嘘を言ったんです。

それから子どもたちには会うことはなかったのですが、ちょうど10年たった息子の誕生日の夜、電話がかかってきましてね。いきなり男の声で「約束守れよ」と言われた。最初は誰なのか、何のことなのかわからなかったんですが、「ぼくの名前を元にもどせ」と言われて、息子だと気が付きました。その後、息子に会い、やがて娘とも会えるようになりました。

こんなことを経験してから、ハンセン病は、病んだ個人の問題ではない。家族全員が巻き込まれていく問題なのだということを痛感しました。

社会構成の基礎単位はなんといっても「家族」です。これまでの自分自身の歩みを振り返ったとき、家族を守ることのできない社会との闘いに、果たして正当性が与えられるものなのかと、何度も自問自答しました。いまも答えの見つからないまま、悔恨をひきずっているんですよ。

次世代の子どもたちのために、
伝えていきたいこと。

ハンセン病国家賠償訴訟の賠償金をもとに、伊波基金を立ち上げましたね。
それはどのようないきさつだったのですか。

私は裁判のとき原告には加わっていませんでした。すでに「国の法律や制度は間違っている」と、30年前にカミングアウト告知とともに自分なりの判決を下していましたので、原告団に加わるようにという説得をずいぶん受けましたが、「私は私のやり方で訴えていきます」と言って、参加しなかった。でもそのあと、1200万円もの賠償金が入ってくることになり、どうしたものかと考えていた。

ちょうどそのころ、WHOの西大西洋地域事務所で感染症担当医務官として働くスマナ・バルアさんとお会いし、フィリピン国立大学レイテ分校の保健・医学修学システムの話を聞いたんです。健康相談員にはじまり、助産婦、看護師、医師というふうに、段階的に10年間にわたって地域の医療活動をして医師になるという制度です。でも、せっかくの制度なのに、貧しくて生活費も工面できない、この素晴らしい階段式修学システムにチャレンジするチャンスを生かせることができていない子どもが多いとバルアさんが嘆いていた。

私自身、戦争によって地域医療が壊滅した沖縄に生まれたせいで、ハンセン病の発見が遅れ、重い障がいを持ってしまったという体験をしていますので、地域医療の重要性は身に染みてわかっていました。そこで「そうだ、この賠償金を、フィリピン大学レイテ分校の学生たちの奨学金に使うようにしよう」と考えたのです。いままで17人に奨学金を出し、うち7人は助産婦コース、9人が看護師コース、一人は医師コースにまで進んでくれました。

3年前に、フィリピン大学レイテ分校の卒業式でスピーチを頼まれたので、行ってきました。年齢のことを思うとこれが最後かもしれないし、奨学生たちが地域でどういう活動をしているかをこの目で見たかったんです。それに私にとって、彼らはフィリピンの息子たち、娘たちですからね。

長野県の小学生や中学生との交流もずっと続けていらっしゃるそうですね。
子どもたちにはどんな話をされているんですか。

  • 授業を聞いた長野の小学生から送られた文集は、伊波さんの「宝物」

いつも伝えていることは、「国もまちがうことがあるんだよ」ということです。それから、「そういう国の過ちを見落とさないよう、社会の出来事に関心を持ち続けなければならない」ということ、「自分の周りで起こっていることに無関心にならない。いじめのようなことを、見て見ぬふりをしてはいけない」ということです。もうひとつ、できれば各地の療養所に暮らす長野出身の方々に「ふるさと」を届けてあげてほしいということも伝えています。これは実際に子どもたちが約束を守って、手紙を送ったりしていろんな交流を続けてくれています。

ポーランドの社会学者ブルーノ・ヤセンスキーがこんなことを言っています。

「敵を恐れることはない。敵はせいぜいきみを殺すだけだ。友を恐れることはない。友はせいぜい君を裏切るだけだ。無関心の人びとを恐れよ。彼らは殺しも裏切りもしない。だが、無関心な人々の同意があればこそ、地球上には裏切りと殺戮が存在するのだ」。

沖縄で生まれ、ハンセン病を背負って生きてきた私が、いま一番子どもたちに、世の中に伝えていきたいことは、「無関心こそが、社会の偏見や差別の発生源である」ということです。ヤセンスキーの警句から発せられている意味を、私はこれからも携えていきたいと思います。

取材・編集:太田香保 / 写真:川本聖哉