People / ハンセン病に向き合う人びと
熊本の「菊池恵楓園」で出会った人びとのライフストーリーを、
ラジオ、テレビ、さらに著作を通して丹念に紹介してきた井上佳子さん。
水俣病や日本の戦争を扱う骨太のドキュメンタリー作品においても、ジャーナリストとしての姿勢を真摯に問い続けてきました。
ひさしぶりに恵楓園を訪れた井上さんに、ハンセン病取材当時の様子や、
その後の仕事を通して考えてきたことなどをうかがいました。
Profile
井上佳子氏
(いのうえ けいこ)
1960年、熊本県生まれ。RKK熊本放送テレビ制作部チーフディレクター。アナウンサー、報道記者を経て、1994年からラジオ制 作部ディレクター。「らい予防法」廃止前後のハンセン病療養所、菊池恵楓園を取材した「出口のない街-ハンセン病・その証言」で1996年度日本民間放送連盟賞優秀賞受賞。その後の5年間の取材記録をまとめた『孤高の桜』(葦書房)で2000年、第19回潮賞(ノンフィクション部門)受賞。2006年は『壁のない風景』を上梓。そのほか著書に三池炭鉱をテーマにした『三池炭鉱・月の記憶』がある。
約60ヘクタールの広大な敷地をもつ菊池恵楓園の正門
そうです。それまで、ハンセン病についてとくに関心があったわけではなく、ただ、「らい予防法」が廃止されるらしい、とりあえず話を聞いてみよう、というくらいのつもりで園長さんに会いに行ったのが最初です。ハンセン病についても、ごく基本的なことは下調べして行きましたが、ほとんど何もわかっていない状態でした。
とにかく「敷地が広いなあ」ということ。そのなかに、銭湯ではないんですがお風呂に入れるところがあり、床屋もあるし、お店もある。教会があって、さらにいろんな宗教施設がある。まるでひとつの町のように、何でもあるということにも驚きましたね。もちろん恵楓園の存在は以前から知ってはいましたが、熊本市内にある自分の会社(RKK熊本放送)から車で30分もかからないところに、こういうところがあったのかと、すごく驚きました。
いまは入所者は300人余りですが、そのころは800人を超す人たちが暮らしていました。自治会など、今とくらべてもっと活気がありましたよ。
恵楓園入所者の遠藤邦江さんと、井上さんの子どもたち(2003年)。
遠藤邦江さんと、遠藤さんがかわいがっている「太郎ちゃん」(2003年)。本サイトの遠藤さんへのインタビューもご覧ください。
当時、私はラジオ番組のディレクターの駆け出しで、初めて番組をつくることになったんです。そのために、1週間に1回、入所者の方たちに1時間のインタビューをし、それを15分の番組にして放送しました。それが半年くらい続いたのかな。2週にわたって取り上げた人もいましたが、最終的に30人くらいに話を聞きました。
あのころはまだ、メディアに入所者が出るということはかなり珍しかったと思います。
苦労はまったくなかったです。自治会がとても協力的で、人選までやってくれましたから。もちろん、ここにいる皆さんはからだに後遺症があるし、いろんなつらい経験をされてきている。「取材できるんだろうか」と不安に思ったこともありました。でも一度話をして、番組の意図をわかってもらえると、ちゃんと応じてくれた。拒否されたことはないし、どんな質問に対しても答えてくれましたよ。
皆さん、すごく、細かいことまでよく憶えてらっしゃるんです。昭和何年、何月何日にこんなことがあったということを、すらすらと話される。それと、なにか、あたたかさというか、やさしさというか、どなたに会っても包容力を感じるんです。最初のうちは、ともかくそのことに感動しましたね。なぜこんなにやさしくしてくれるのだろう、歓迎してくれるのだろうと不思議だった。私はまだ30代半ばでしたから、入所者は皆さん、自分の親かそれ以上の世代でしょう。話を聞いていると、だんだん肉親たちの面影に重なっていくんですよ。
でも、いま思うと、ラジオだからこそそういう取材が成立したのかもしれません。もしテレビだったら、あの頃は出てくれる人も少なかったし、番組にはできなかったかもしれない。
愛生園のある岡山は、早くから「橋のない島」といった番組をつくっていたと記憶しています。熊本では、「らい予防法」の廃止に向けて、新聞、ラジオ、テレビが一斉にキャンペーンを張ったという印象でした。国家賠償請求訴訟が大きく取りあげられるようになってからは、隔離政策を検証するテレビ番組がずいぶんつくられましたね。
その後も、ハンセン病のマスコミ報道のあり方を検証した番組をつくりました。最初が恵楓園の入所者の遠藤邦江さんを取り上げた「太郎への手紙」、そのあとが「空白-述懐・ハンセン病報道」という番組です。
法律がなくなっても何も変わらなかった。それが正直な感想ですし、私自身、一番驚いたことでした。
取材をし始めたころは漠然と、もし「らい予防法」が廃止されれば大きく物事が変わるだろう、諸悪の根源である法律がなくなれば、皆さんは療養所を出てそれぞれの家族の元に帰るのだろうとごく単純に考えていた。でも実際は、隔離政策がなくなっても、誰も療養所から出ていかなかった。それまでいろんな話を聞いて、家族や故郷とどういう関係になっているかという話も聞いていたにもかかわらず、「家に帰れない」ということを実感としてわかっていなかったんです。
入所者に対して「なぜ出ていかないのか」というぶしつけな質問もしました。「だって帰るところもない。仕事もないでしょう」と言われました。人間の居場所というのは、そこに暮らしながら築いていくものですよね。それができなかった人たちは、たとえ肉親がいて家が残っていても、居場所を失ったままなんです。
それに、「らい予防法」がなくなっただけでは、長いあいだ社会のなかに醸成されてきた差別観が消えるはずがない。そういうことにもやっと気が付きました。熊本では2007年に黒川温泉の事件がありましたね(註)。あの時代になっても、ハンセン病に対する理解はまったく進んでなかったわけです。
註)黒川温泉事件:2003年、熊本県黒川温泉のホテルが菊池恵楓園入所者の宿泊受け入れを拒否。その後、ホテルは廃業となり、一方で恵楓園自治会やハンセン病団体に匿名の誹謗中傷の電話や手紙が殺到するなど、一連の騒動が続いた。
著書『孤高の桜』(2000年)と『壁のない風景』(2006年)
なくなったとはいえないと思います。差別意識というのは、人間の本質ではないでしょうか。そういう意識をもっていることを自分で認識できるかどうか。その違いだけじゃないかと思うんですね。残念ながら、それを自覚できる人が、それほど多くないのかもしれません。
恵楓園の最初の取材のとき、自治会でお茶を出してくれたんです。でも私は、なかなか飲めなかった。口をつけましたが、あきらかに抵抗感があった。そのころ私には3歳になる子どもがいたんですが、恵楓園で取材をしたあとは、家に帰ってからまず手をよく洗ったものでした。子どものことを思うとそうせずにはいられない不安があったんですね。
「差別について考えましょう」という放送をしながら、まるで本音と建前を使い分けるようなことをしていた。そのことが、私のなかに傷のように残っています。これこそ差別の本質じゃないか、ハンセン病に対する差別がずっと続いてきた原因はまさにこういうところにあるんじゃないか。
朝日新聞の三宅一志さんという記者が『差別者のボクに捧げる!』という本を書いています。三宅さんに会って話も聞いたのですが、こんなことがあったそうです。三宅さんはある入所者から、「記者さん、そんなに一生懸命取材してくれてうれしいけれども、もし私に妹がいたとして、あなたと結婚してくれと言ったらどうしますか」と問われたんです。三宅さんはつい「できます」と答えてしまった。なぜそんなことを言えたかというと、実際には「妹」がいなかったから。もしいたら、「できます」なんて答えられなかっただろうと三宅さんは言ってました。
それを聞いたとき、「ああ、私もそうだ」と思ったんです。口ではなんとでも言えるけど、それができない自分を知っている。であれば、ジャーナリストとして、そういう差別意識をもつ自分のことも、きちんと表現しなければならないんじゃないか。そんなふうに考えたんですね。
でも番組ではなかなかそういうことまでは表現しきれない。「私」としてそれをやるには、表現の方法を変えるしかない。だから、『孤高の桜』を書いたんです。
マスコミはどうしても回復者といえば「違う人たち」という目で扱ってしまいがちなんですね。苦しい人生を送ってきた被害者というくくりで見てしまう。でも実際に取材していくと、決してそういうことばかりではなかったということを聞かされるわけです。結婚のときはみんなで「ゼンザイ」をつくってささやかだけどお祝いしたとか、みんなで旅行に行ったときのこととか、人生が輝いていたときの話もずいぶんしてくれるんです。
もちろん私たちとはかなり状況は違っていたでしょう。療養所では断種や堕胎も行われたし、子どもを奪われ殺された人たちはそのことを決して忘れていません。それでも、隔離政策が続く厚い壁の内側で、私たちと同じように時間が流れ、人間らしい暮らしが営まれていたこと。それほどまでに人間は強いし、どんな状況でもやさしさを忘れずに生きていけるんだということ。それをこそ私はぜひ伝えたかったんです。
どんなテーマでも、自分がどういう立ち位置にいるか、その危うさにきちんと向き合いたいと思ってきました。ハンセン病と出会えたからこそ、そういうふうになれたんです。自分の差別観や危うさを自覚できないのなら、この問題を取材する権利はないということを、ハンセン病が教えてくれた。
たとえば、戦争を扱うときも、もしあの時代に自分が生きていたらどうだったかということをいつも考えます。戦争に熱狂していたかもしれない。マスコミに踊らされて「日本は勝った」と喜んでいたかもしれない。おそらくそうしていたと思うんですね。
「ゼロの進軍」で紹介された、吉岡義一さんの絵入りの手記。吉岡さんは「大陸打通作戦」に従軍していた。
取材するテーマや相手を完全に対象化してしまって、そこまで入ろうとしない取材のやり方ももちろんあります。でもそれでは、「被害者」対「加害者」という描き方になりすぎる。残念ながら、いまの日本の報道にはこういうことがはびこっています。でも私はそんなふうにはしたくない。
人間ってもっと複雑なものですよね。いい面もあるけど悪い面もある。誰だってひとつの顔じゃない、いくつもの顔を持っている。そういうことが丹念に取材をしていくうちにどんどん見えてくる。人間はみんな同じなんだ、同じように差別観を持っているし、同じように輝きももっている。まずそういうところに立って物事を見ないとだめだろう、メディアが一方的に「かわいそうな人たち」とか「勇気がある人たち」という扱いをしてはいけないだろうと思うんですよ。
最近つくった「ゼロの進軍」という番組では、戦争末期に日本が行った「大陸打通作戦」を取り上げました。51万人もの兵士が3400キロにも及ぶ中国進攻をしたもので、食糧の補給はなく、すべて現地調達で賄うという無謀な作戦でした。この作戦のために、いかに多くの民間中国人が、食べ物を奪われ家を焼き払われ、無残に殺されていったかということを、実際に行軍に参加していた方たちに証言してもらったんです。
この番組はRKK(熊本放送)で放映後、TBSの「報道の魂」でも紹介されました。もちろん、「中国人を殺した」という体験をはっきり語る人たちが出てきますし、日本が中国に対して行った明白な加害という事実を扱っています。でも、そんななかでも中国人と日本人の人間としての心の交わりがあった。私はこのことも忘れたくない。私の表現したかったことはむしろこのことなんです。
井上さんが取材している、乗富秀人さん。乗富さんは、手話をテーマにした「デフアート」を描きつづける画家。
そうしたいですね。いまはノモンハン事件について、いろいろ調べています。来年早々には番組のかたちにしたいと思っています。
もうひとつ、手話の取材もしているんです。じつは手話というのは排斥されてきた歴史があるんですよ。明治時代に電話を発明したグラハム・ベルが、「聾者は異端なんだから、多数派に合わせるべきだ」と手話教育に反対をしていましたが、日本の学校教育でも手話を禁止して口話法(読唇と発声の訓練によって健聴者のように話す方法)を強制してきた歴史が長かったんです。2011年にようやく障害者基本法で手話が言語として認められましたが、まだ日本では手話を公的言語として認めるまでには至っていません。
そういうこともあって、いま聾者の三人家族をずっと取材しています。それが、すばらしい家族なんです。手話は眼と眼を合わせないと、つまり手を見るために相手と向き合わないと会話できない。私たちは、ついつい顔も見ないで誰かと会話したり、背中越しに返事をするなんてしょっちゅうですよね。でも、彼らは絶対にそういうことはしない。だからコミュニケーションがものすごく濃密なんです。私たちが失ってしまったものをたくさんもっている。そのことにすごく感動しました。このテーマもまだまだこれから深めていきたいですね。
取材・編集:太田香保 / 写真:近藤さくら