People / ハンセン病に向き合う人びと
全国有数の温泉地として名高い草津。
ここが、古くからハンセン病の湯治場でもあり、患者による自治集落があったことを知る人は少ない。
さらに、この地につくられたハンセン病療養所「栗生楽泉園」のなかに、
「重監房」があったことは、戦後まで地元でもほとんど知られていなかった。
いったいなぜ、病気を療養する施設のなかに懲罰のための建物がつくられたのか。
重監房資料館の学芸員・北原誠さんに、その実体や真相について、話をうかがった。
Profile
北原 誠氏
(きたはら まこと)
重監房資料館学芸員。1955年長野県松本市で生まれる。九州学院大学で航空工学を学び、溶接加工会社や樹脂成形機械製造会社を経て国立病院の職員となる。1989年国立多摩研究所に配属されたのが、ハンセン病に関わるきっかけだった。その後、国立療養所栗生楽泉園、国立療養所多磨全生園を経て、2013年12月から現職。重監房についての資料の収集や整理、展示企画などを手掛けている。
「重監房」の実寸大再現展示
真冬の「重監房」の様子も再現されている
「重監房」というのは通称で、正式には「特別病室」といいます。ここ群馬県草津町の国立療養所栗生楽泉園の敷地内にかつてあった施設ですが、実際には治療は行われず、ハンセン病患者専用の刑務所として使用されていました。全国の療養所に監禁室が作られ「監房」と呼ばれていましたが、それよりも重い罰を与えたことから、今は「重監房」と呼んでいます。1938年に建てられ戦後の1947年に廃止されるまで、全国の療養所から93人の患者が送り込まれ、そのうち23人もの人が命を落としたと言われています。
施設は、崖を切り拓いた敷地を高さ4.5mのコンクリート塀で囲い、中は8室の独房に仕切られていました。1室の広さは便所を含めて四畳半程度。電灯の器具はあっても電源はなく、小さな明かり取り窓と食事の差し入れ口があるだけの密室です。患者には「減食の刑」が科され、わずかな麦飯や具なしの味噌汁、または白湯が1日2回だけ与えられました。飯は麦が多過ぎて握り飯にできないため、「箱弁当」と言って弁当箱に入れて配ったとも言われています。
投獄された患者は、誰とも面会できないのはもちろん、食事を配る係の入所者とさえ口を聞くことを許されなかったようです。逃亡を防ぐために床が極端に低い造りとなっていますので、夏は湿気がひどく、冬は寒さが直に伝わって来たのではないでしょうか。冬季は零下20℃になることもあったと言われる暖房のない部屋に監禁され、薄いふとんだけで耐えなければならない。闇、飢餓、孤独、極寒と酷暑の五つの「地獄」を備えた過酷な監房でした。
当時、「癩予防法」に基づく「国立癩療養所懲戒検束規程」によって、療養所の所長には所内の秩序を維持するために患者を処罰する「懲戒検束権」が与えられていました。これにより、正式な裁判も経ずに監房への収監が行われていたのです。しかも、同規程では「監禁期間は再度の延長を含めて最長2カ月まで」と規定されていたにもかかわらず、500日を超えて投獄された人もいました。
私はこうした事実を知ったとき、国立療養所の職員の一人として大変なショックを受けました。個人的には「一部の直接的な権限を持つ担当者の恣意的な運用だったのではないのか」「別の真実があってほしい」というのが正直な気持ちです。「その時代だったら、自分もそうしただろうか。命令があれば仕方ないのか。それとも、何も疑問に感じなくなってしまうのか」などと、今もよく考えます。
薄いふとんがあるだけの薄暗い独房
理由はいくつかあると思われますが、重監房が必要とされた最も大きな原因はハンセン病患者への差別意識だったと思います。元々、ハンセン病は古くから国内にあった病気で、長いあいだ原因が分からず、治療法もなかった。おもに顔や手足など人の目につくところに著しい変形を伴う後遺症が表れたことから、その「見た目の悪さ」によって「不治の病」として忌み嫌われていました。我が国で一般的に差別と言われる問題と、ハンセン病問題の一番の相違点は、患者そのものの「撲滅」を目的とした点にあります。ひとつの病気を理由に、国民として誰もが持つ正当な権利を剥奪され、しかも大多数の国民がこれを支持したのです。すべての被差別者を排除して病者の根絶を図った例は、ハンセン病問題をおいてほかに類を見ません。本来、一般の刑務所があったにもかかわらず、わざわざこのようなものを造らせたのは、こうしたハンセン病患者への「人を人と思わない」極端な差別意識によるものだったのではないかと思います。
また、全国に5カ所あった連合府県立の療養所で、患者同士のいざこざが絶えなかったことも原因のひとつと考えられます。1907年に明治政府は「癩予防ニ関スル件」を制定し、「浮浪らい」を強制隔離することを決めました。浮浪らいというのは、いわゆるホームレスの患者のことで、家族が差別の対象となることを恐れ、家を出て放浪生活をしていたハンセン病患者を指します。この法律を受けて、浮浪患者を捕らえて収容する療養所が自治体によって作られたのです。
さらに、1931年に「癩予防法」が制定されると、強制収容の対象が在宅患者にも拡大されました。全国で「自分たちの町からハンセン病をなくそう」という「無らい県運動」が広まったこともあって、患者を探し出して収容する動きがエスカレートしていったのです。こうして強制的に療養所へ入所させられた患者の間で、逃亡や反抗が頻繁に起きるようになり、所内の監禁室では手に負えない患者を収容する施設が求められました。
もうひとつは、療養所に入っていない患者が罪を犯した際に、専用の刑務所が必要とされたからです。癩予防法ができるまでは、患者は一般市民と同じように暮していましたから、中には法を犯す人も出てくる。しかし、ハンセン病患者だとわかると、警察官でさえ恐がって捕まえなかったり、微罪で帰してしまったりする。「犯罪者でしかもハンセン病の人間を町中に放置してもらっては困る」という市民の声、すなわち世論に応えるかたちで、患者専用の特殊刑務所が計画されたわけです。
文明開化以降の日本が近代化を推し進める中で、いにしえから日本人の心の奥底に刷り込まれてきた、科学的な根拠のないハンセン病への恐れや忌避意識によって、本来庇護されるべき病人を「厄介者」として積極的に社会から排除しようとする国民世論が生まれたのでしょう。ハンセン病患者を一般社会から疎外して行く過程で起きた差別の極みとも言うべき事件だったと思います。
縮尺20分の1の「重監房」模型を前に、再現映像も見ることができる
重監房資料館では、「ここでしか見られないもの」を中心に展示することに力を入れています。展示制作会社と打ち合わせをしながら、「見る人に最も訴えるものは何か」と考える中で、「やっぱり重監房の跡地だろう」ということになった。実物の迫力がありますから。けれど、現地に残る建物の基礎をそのまま資料館の内部に入れるのは無理。ちょうど黒尾さん(国立ハンセン病資料館の黒尾和久学芸部長)が発掘調査を終えたところだったので、出てきた遺構や遺物を展示したらどうか、ということになりました。
調査によって重監房の詳細もわかってきたので、独房の実寸大再現模型も作りましょう、と。当時まだご存命だった谺(こだま)さん(雄二氏。栗生楽泉園で2014年5月に逝去)が一番こだわっていたのが「実寸大であること」。8室すべてではなく部分展示ではありますが、その思いを汲んで実物と同じ大きさで再現しました。中に入ると、狭い空間に薄い布団が敷いてあり、照明効果で昼間の薄明かり、夜の暗闇をリアルに体験してもらうことができます。
もともとは、国立病院の職員でした。初めてハンセン病のことを知ったのは、東京・東村山市の国立多摩研究所(現在の国立感染症研究所ハンセン病研究センター)に事務員として転勤してからです。ただし、ここは学術調査や研究を行う施設ですから、患者はいません。回復者の人たちと出会ったのは、その後、栗生楽泉園に会計係長として赴任したときが最初です。しかし、このときもまだ、ハンセン病をめぐってこれほど暗い過去があったことを理解していたわけではありません。入所者から「昔はひどかったんだよ」と言われても、「そんなものかな」という程度で、実感がわかなかった。
この問題に深く踏み込むようになったのは、何カ所かの一般病院を経て、2007年に再び楽泉園に戻ってからでした。福祉課長として入所者と密に接するうちに、気心も知れてプライベートな話、一人ひとりのファミリーヒストリーを聞かせてもらうようになったのです。ちょうど、園内生活の歴史を展示する社会交流会館を作ることになり、それを担当したのがハンセン病の歴史研究にのめり込むきっかけになりました。
ところがそんな折、親の介護が必要になり、退職することになりました。ほどなく父が亡くなり、これからどうしようかと思っていたときに、以前から聞いていた重監房資料館創設の話が具体化し、学芸員を募集していることを知ったのです。そこで、1年間早稲田大学に通って学芸員養成課程を修了し、資料館の試験を受けました。採用されたときはまだ建物が工事中でしたから、多磨全生園にある国立ハンセン病資料館に身を置き、展示制作や映像作成などの準備をしました。重監房の資料は、すでに栗生楽泉園の自治会が中心になって取りまとめたものがハンセン病資料館に収集してあり、それを整理するところから引き継ぎました。
観光客でにぎわう草津温泉の中心部・湯畑
湯ノ沢橋から、かつての「湯之澤」集落付近を望む
社会交流会館の展示のために楽泉園の歴史を遡って調べるうちに湯之澤集落に興味が湧きました。「自治集落があったなら、なぜ新たに国立療養所をつくる必要があったのか」と疑問に思ったのです。そこから草津町の発展とハンセン病患者をめぐる長いあいだの歴史の変遷を知ることになりました。
まず、草津が温泉地として全国的に有名になるにしたがい、観光客が増えて町が手狭になり、患者たちが辺地へと追いやられていったこと。草津温泉は江戸時代から「万病に吉」とされ、ハンセン病にも効果があるとして、多くの患者で賑わっていたようです。明治初期には、政府によってドイツから招かれたいわゆる“お雇い外国人”のベルツ博士が草津を訪れ、ハンセン病の温泉治療効果を唱えました。当初は一般湯治客と宿も共同浴場も一緒でしたが、明治半ば頃から一般客が患者を嫌うようになり、草津町は当時の温泉街の外れにあった湯之澤地区に患者を集めて専用の居留地としました。患者と家族が経営するハンセン病専門の湯治旅館なども一緒に引っ越しました。
1916年には、宣教師として来日していたイギリス人女性のコーンウォール・リーが移り住み、患者のための住居や病院、学校、教会などを開設します。これによって全国から患者が押し寄せ、昭和初期の最盛期には草津町の人口の2割近くを湯之澤集落が占めるまでになりました。住民は納税の義務を負い、草津の町村制に組み込まれた自治集落を形成したのです。当然ながら選挙権や被選挙権もあり、湯之澤区からも草津町議会議員2名が選出されていました。
しかし、日中戦争から太平洋戦争へ向けて日本が戦争を遂行する過程で、次第に「国のために役立たない者は排除しろ」という思想が国内に蔓延していきます。このような時代背景の中で「癩予防法」が制定され、「無癩県運動」が全国展開されて行きました。強制隔離政策の受け皿として国自らが療養所の建設に乗り出し、草津にも栗生楽泉園が設置され、湯之澤集落も集団移転を求められました。しかし、自由療養村を目指していた人たちにとっては納得できません。国の命を受けて交渉にあたった群馬県は、敷地の一部に自由地区を設けることや療養所に温泉を引き込むことを、集団移転受諾に向けた一種の“殺し文句”としていたようです。
こうして、資金力のある一部の人は自由地区に家を建てて移り住み、それ以外の患者は療養所施設へ入所しました。他所の療養所が塀や垣根で施設を囲い、患者の逃亡を厳しく監視したのに対し、楽泉園だけは例外的に患者や外部の人たちの往来が黙認されていました。湯之澤の時代から、建て前は出入り禁止でも、実際は行商人の行き来などがごく普通に行われていたからです。強制隔離政策の時代になってからも、ある程度の自治が認められていたことは、他に例のない特徴です。
発掘調査によって見つかった当時の遺物
重監房については、まだわかっていないことがたくさんあります。それをひとつずつでも解き明かしていきたいと思っています。そのためにまずは、配食係をしていた入所者など当時の様子を知る人がお元気なうちに、できるだけ多くの聞き取りをする必要があります。
同時に、当時の職員側の証言も集めなければいけません。どこにいるかもわからないし、見つかったとしても話してもらえない懸念もありますが、とにかく直接会ってみたい。歴史研究である以上、一方の立場の意見だけを集めたのでは正確と言えないからです。両者の視点を偏りなくなくまとめることで、資料館を見学される方により多くの判断材料を提示していきたいと考えています。
行政文書の発掘も懸案事項です。とくに有望なのは、GHQの報告書ですね。国内では国会図書館の資料検索でもヒットしないので、ワシントンにあるのかもしれません。可能ならそういうものも調べてみたいと思っています。また将来、入所者がいなくなって療養所が廃止されるとき、それぞれの倉庫に眠る文書を保存する制度もつくらなければと思っています。運営日誌などは、現場で何が起こっていたのかを知ることのできる唯一の証拠です。これらの紙資料は、一般的に施設が廃止されれば「ゴミ」とされてしまいますが、資料価値としては“宝の山”ですからね。
もうひとつ、ハンセン病の歴史や問題を次世代へどう伝えていくかも大きな課題です。若い人はハンセン病自体を知りません。戦争と同じで、体験していない人に「二度と繰り返してはいけない」とリアリティをもって伝えることの難しさを痛感します。しかし、戦争もハンセン病も医療過誤も子どものいじめも、本質的な共通点があると思います。それは私を含めて誰の心の中にもある、「異質なものを排除する」という無意識の感情です。
過去において、私たちや父祖の世代は、本来庇護されるべき病人を「厄介者」として積極的に社会から排除しました。その責めは私たち国民だけでなく、世論を煽ったマスコミも、科学的な探求を怠った医療者も、時々の政局に利用してきた政府や地方行政も等しく負うものだと思います。重監房資料館を訪れることで、一人ひとりがこれを自分の問題として捉え、ハンセン病問題に限らず、将来自分自身が人権問題とかかわらざるをえなくなったときに、人としてどう生きたいのかを考えてもらうきっかけになればと願っています。
取材・編集:三上美絵 / 写真:川本聖哉