People / ハンセン病に向き合う人びと
かつて多磨全生園内に「ハンセン病図書館」という施設があった。
施設の目的は、ハンセン病に関する資料の収集と整理。そして資料を外部の人たちに活用してもらうこと。
その大任をひとりで担っていたのが山下道輔さんだった。
風景撮影のために全生園に通っていた写真家、黒崎彰さんは、ある日、その山下さんから声をかけられる。
以来、ふたりの付き合いは山下さんが亡くなるまで続いた。残されたのは膨大な資料、写真、かけがえのない思い出。
今日も黒崎さんは全生園で写真を撮り続ける。山下道輔さんの遺志を継ぐ者として。
Profile
黒崎 彰氏
(くろさき あきら)
新潟県小千谷市生まれ。コマーシャル、雑誌などで人物撮影を中心に活動。日本写真家協会会員。偶然読んだ『いのちの初夜(北條民雄著)』がきっかけで多磨全生園を訪れ、2002年から全生園内の風景撮影を開始。その後まもなくハンセン病図書館員だった山下道輔氏と知り合い、その交流は2014年10月に亡くなるまでの12年間に及んだ。2015年3月にはSpace & cafeポレポレ坐で「道輔さん」と題した写真展を開催。その後も全国各地の写真展、各種啓発活動などに関わりつづけている。
黒崎さんが初めて多磨全生園にやってきたのは2001年。以来、週に一回ほどのペースで撮影に通いつづけている
あるとき出版社に勤めている友達が5冊くらい本をくれて、そのうちの一冊がたまたま『いのちの初夜』だったんです。それで何気なしに読んでみたら、すさまじい内容じゃないですか。それからしばらく、ほかの本が読めなかったです。1998年のことです。
最初に全生園にやってきたのは2001年です。足を踏み入れるだけでも相当な決心がいりました。そのとき案内してくれたのは、全生園で最後に寮父さんをしていた方。全生園内にあった学校のこと、子供たちが暮らしていた寮のなりたち、全生園の人たちが当時、どのようにして暮らしてきたかなど、詳しく話してくれました。たしか3時間くらい撮影して歩いたと思います。話の中心は、やはり命がけで守った子どもたちのことでした。帰る際、その元寮父さんに「またかならず来ます」と言ったことを覚えています。
とにかくこの森の中に入ってみたかった。北條民雄が歩いた道、『いのちの初夜』に首つり(に適した樹木)の枝っぷりを探しにいく、なんて下りがありますけど、それはどの木なんだろうとか、最初は、それだけだったんですよ。そしたらなぜか居ついてしまったんですね。
園の南側に少年少女舎があって、子どもたちは親元から引き離され、ここで一緒に生活していました。早く親元に帰りたくて、治療も勉強も一生懸命だったそうです。「社会に出ていっても困らないよう、厳しくしつけをした」と元寮父さんは話してくれました。寮のなかを見たときには、ぐっときましたね。昭和54年に閉鎖されたときの状態が、そのまま残されていたんです。このことが写真を撮るきっかけになったと思います。
旧山吹舎(2001年)。2003年に復元される前の貴重な姿
以下モノクロの写真はすべて黒崎さんの撮影
全生学園分教室(2001年)。古い建物が取り壊されるなど、園内の景色はこの15年ほどの間にも大きく変わった
週一回くらいです。撮るのはおもに風景や建物ですね。でも考えてみたら、ぼくはそれまで風景写真って撮ったことがなかったんですよ。30数年、撮影してきたのは、ほぼ人物のみ。それ以外の写真って仕事でもプライベートでも撮ったことがない。ブツ撮り(※スタジオで商品などを撮影すること)も絶対やらないっていう、かなり偏ったカメラマンでしたから(笑)。三脚すら、ほとんど使ったことがなかった。
でもここ(全生園)で撮影するときは三脚を使ってます。あとで手ぶれしてたとか、後悔したくないんですね。どの建物も日一日朽ちていくわけで、目の前にあるこの風景は、今しか撮れないものですから。
たとえば宗教地区にある教会も10年前までは手入れが行き届いていて、とてもきれいだったんです。園内にいる信者の人たちが庭の木にしょっちゅうハサミを入れていて、枝ぶりなんかも、とてもきれいでした。高齢化が進むにつれて、そういうことができる人は次第にいなくなりました。
今は、どの木も思いっきり短く刈られています。そうなると同じ場所でも見えてくるのは、まったく違う風景なんですね。撮影しておいてよかったと思います。あれも、もう撮ることのできない風景ですね。
それは最初からかなり意識して撮ってます。人権啓発とか言うつもりもないし、そんなこと言う資格のない人間ですけど、ぼくの写真から何かを感じて、全生園を訪れてくれる人がいたとしたら、うれしいですよね。
ほとんどがモノクロ(白黒)写真ですが、これはどうしてですか。
モノクロの写真って、人の足を止めることができるんですよ。天然色は、ぼくらが普段見ている日常ですから、流して見てしまうんですけど、モノクロは「これをどう理解したらいいか」という目で見て、読み取らないといけない。そうすると10秒くらいは足を止めて見てくれるんです。カラー写真は「見るもの」で、モノクロ写真は「読むもの」なんですよね。
そうです。最初に聞いた話が印象に残ってしまって、旧少年少女舎のあたりをよく撮影していたんです。ところが、少年少女舎の前の道っていうのは道輔さんが仕事へ行くとき、毎日通る道でもあるんですね。あの人は家と仕事場の往復しかしない人だったから、どうしたってよく会うわけです。おたがい見かけるとかならず挨拶はしてました。それで半年くらい経った頃、「あんた、よく来るね。おれ、そこの図書館の者だけど、お茶でも飲みにこないか」って誘われたんです。それが最初のきっかけでした。
山下道輔さん(左)と谺雄二さん(右)は少年舎時代からの親友だった
道輔さんの日常って、毎日判で押したように同じなんですよ。朝、家を出て図書館に行く。家に戻って昼飯食べて戻ってきて、5時すぎに帰る。帰っても友達がいるわけじゃないから、やることといったら酒を一合飲んで寝るだけです。よくこの生活を何十年も繰り返したと思いますよ。「療友が命がけで残した資料を、もらさず集めて世に出さなければならない」「その資料を研究に役立ててもらいたい」という、すさまじいまでの使命感です。口癖は「患者が集める、患者のための資料」。これはしょっちゅう言ってました。
朝起きると、まず5紙くらいの新聞を読む。なにをしているかというと、ハンセン病の記事を探しているんです。どんなに小さい記事でも載っていたらスクラップしてとっておく。書評欄があると、そこで取り上げてほしいといって本を送ったりもしてました。
あるとき道輔さんの部屋に行ったら、プロレス雑誌が置いてあったんです。どうしたのこれ、って訊いたら「いや、表紙にハンセンって書いてあったから思わず買っちゃったんだ」って言うんですね。プロレスの雑誌ですから、ハンセン病じゃなくてスタン・ハンセン(プロレスラー)のことが載ってるんですよ(笑)。
ぼくは道輔さんが集めている資料とか、そういうものには最初、あまり興味がなかったんです。ハンセン病についての知識は、道輔さんと付き合っていくなかで会話から学んだことと、あとは新聞の整理を2年間手伝ったこと、ここから得たものがほとんどだったと思います。
新聞は全国紙から地方紙、専門紙に至るまで、山のごとく積み上げられていました。全部で20紙分くらいはあったんじゃないでしょうか。明治時代の新聞もありました。それを各新聞社ごとに仕分けして、整理したんです。これはものすごく勉強になりました。整理するときに記事も読むので、いろんなことを自然と覚えることができたんです。
ハンセン病図書館の作業部屋。資料の整理、復元はすべてここでおこなわれた
不自由な手をおぎなうため、ときには医療用器具も使った
ボロボロになった資料の原本を彼なりのやり方で修復して、コピーを4回くらい取って、きれいな状態にしてから製版に回す。それはもう大変な苦労です。製版の設備もありました。知人の大学教授の奥さんが製版ができる人だったので、その方から全部習ったそうです。あんな不自由な手でね、よくやったもんだと思いますよ。すべてひとりでやっていたんですから。その後、療友が手伝うようになり、製本作業は彼らに引き継がれていきました。
資料はかならず同じものを三部つくるんです。保存用、閲覧用、貸出用。どうしてもこの三部が必要なんですね。貴重な資料も研究や論文書くためならと、ずいぶん貸出していました。資料さえあれば、誰かがそれをもとに論文を書いてくれる。それを手助けするために自分はいるんだって、いつも言ってました。
ハンセン病図書館ができたのは、多磨全生園が60周年を迎えた1969年です。そのとき道輔さんは「命がけでやるから、自分に手伝わせてください」と自分から手をあげたんだ、と言っていました。それは道輔さんが入園した当時、少年少女舎で寮父さんをしていた松本馨(まつもと・かおる)さんという人の影響が、かなり大きかったと思います。松本さんに会わなかったら、おそらく道輔さんはああいった人生を歩まなかったんじゃないでしょうか。
道輔さんが最初に手がけたのは全国に13園ある療養所の機関誌収集だったんですが、このときも松本さんが各園で開かれる全患協支部長会議に道輔さんを付き添いとして連れていったんですね。松本さんが会議に出席しているあいだ、道輔さんは各園にある図書館を訪れて資料集めの協力をお願いする。これがハンセン病図書館の始まりだったそうです。
余分のある機関誌は譲り受け、余分はないが、どうしても必要なものは徹夜して書き写す。当時はまだコピー機がありませんでしたから、それしか手段がないわけです。そうやって少しずつ資料を集めていったんですね。
「おとっつぁん」と呼んで慕っていた松本馨さん(右)と
当時、園内にあった学校というのは、読み書きぐらいしか教えていなかったんですね。先生も軍人上がりとか、そういう人が多かったそうです。それに対して、これじゃいかん、子供たちの思考力、想像力を高めなければ、と声を上げたのが松本さんでした。松本さんは寮にいる子供たちに、俳句や作文を書きなさいと指導したそうです。でも強制して書かせるのでは意味がないということで、まず最初に自分が子どもたちを題材にした作文を書いた。それが面白かったんだよ、と道輔さんも言ってました。まず興味をもたせる。子どもたちが率先して付いていく。それまでの寮父さんとの関係とは、まったく違っていたそうです。
松本学校の影響を受けた子供たちのなかには詩人になった人も多くて、谺雄二さん(こだま・ゆうじ。詩人。精力的な自治会活動でも知られた。2015年4月逝去)もそのひとりです。道輔さんも文芸活動をしながらそこそこ書いたって言ってましたけど、途中でやめて仲間の資料収集に力を注ぐようになった。これも松本さんの影響が大きかったんでしょうね。道輔さんも谺さんも、松本さんのことは「おとっつぁん」と呼んで慕っていました。
松本さんは全生園の自治会長も長年務めていましたし、のちに『倶会一処 (くえいっしょ) 患者が綴る全生園の七十年(多磨全生園自治会著)』という本も編纂しています。「入所者みずから自分の生きた証を残すべきだ」というのが彼の持論で、読んでみると文学賞が取れるんじゃないかって思うくらいの作品になってるんですよ。事実関係についても徹底的に調べて書いてあります。
道輔さんと谺さんは子どもの頃からの付き合いで、お互いがお互いの命、みたいなところがありました。少年舎に入ったとき谺さんが9歳、道輔さんが12歳。道輔さんに言わせると、その頃から谺さんは突出した存在で、とにかく抜群だったらしいです。ぼくが知ってる谺さんも、とにかくスーパー(破格)な人でした。あらゆることに長けた人。一方で子どもみたいなところもありましたけどね。谺さんと道輔さんって、じつにいい関係でした。
でも3人で酒飲むと、えらいことになるんですよ(笑)。ぼくもまだハンセン病のことをあまりよく知らなかったので、谺さんが怒って「君は本当にこの病気のことがわかっているのか!」って怒鳴るんですね。こっちも酔っ払ってるものだから「わかりません!」って答えたりして。谺さんも「山下君、なんなんだ、こいつは」ってぼやいてましたよね。
谺さんは生まれついてのリーダーで、月に一回、群馬の山(栗生楽泉園)から東京の厚労省まで陳情に行く。一方、道輔さんは40年間ずっとここにいて資料をひたすら整理していたわけでしょう。じつに好対照なんですよ。暮らす場所は離れていましたけど、それでも月に2回はかならず会ってました、あの2人は。
ちなみに道輔さんが資料収集に行き詰まっていた頃、最初に資料を送ってくれたのも谺さんだったそうです。栗生楽泉園の機関誌『高原』全冊と、当時楽泉園にあった書籍をすべて送ってきたというんですから、すごいですよ。
道輔さんの自宅前で庭の様子を眺める道輔さん(左)と黒崎さん(右)。2013年(撮影:大竹直樹)
知り合って2〜3ヵ月くらいした頃に、それまでに撮りためた全生園の写真を100枚くらいもっていったことがあるんです。そうしたら、何かを感じたんでしょうね。「あんた、いい写真残してるな」と言ってくれた。道輔さんの足跡を写真という形で残したいとお願いしたのは、そのあとのことです。
さらっと「いいよ」と言ってくれました。即決です。そのとき言われたのは「あんた、プロだから撮った写真は発表するよな」ということだけ。同時にものすごく責任も感じました。命がけで写真撮ったことない人間が、命がけで生きてきた人の写真を撮るわけでしょう。最初の一枚は面と向かって顔とか撮れなかったですよ。道輔さんは自然体でとくにレンズの方を見るわけでもない。淡々と仕事してるんですけど、じつに重みがありました。
最初に撮影した、お礼状を書く道輔さんの手元
最後の旅行となった函館、青森の旅。タケさんと太宰治の銅像の前で
お礼状を書いている手元の写真です。今振り返ってみると、なんとも姑息な撮り方したもんだなって思いますけど、あれが当時のぼくにとっての精一杯でした。道輔さんって手の感覚が麻痺しているはずなのに、ものすごく達筆なんですよ。一部しかない資料を書き写したり、資料を送ってくれた方にお礼状を書いたりしているうちに、感覚で覚えてしまったんでしょうね。その写真は写真展などがあるときには、必ず展示するようにしています。
初めて行った旅行は道輔さんのお母さんの実家へ行ったときじゃなかったかな。いつだったか、部屋で酒飲んでるときに小さな写真を出してきて「これ、お袋の実家なんだ」って見せてくれたんですよ。「堤防の向こうに川があって、ここでおぼれたことがあるんだ」「いつか帰ってみたいなあ」って話をしてくれました。それを実現しようってことで出かけたのが最初だったと思います。
旅に行くのは、たいてい文学にまつわる場所でした。「あそこが面白そうだから行ってみよう」みたいなことは、一切なかったです。最後に行ったのは石川啄木と太宰治の足跡をたどる旅で、函館と青森。太宰の乳母をしていたタケさんというおばあさんがいて、太宰治は彼女から大きな影響を受けているんですね。それで道輔さんは、そのタケさんと太宰治が再会したときの像が中泊にあるから明日はそれを見に行こう、とか言うわけです。
いろんなものを学ばせてもらいました。とくに影響を受けたと思うのは人に対するやさしさですね。あの人が声を荒げたところって一度も見たことがないんです。「あなたはなぜ、そんなにやさしいんですか?」って訊いたことがありますけど、返ってきたのは「いや、ぼくもいろんな人によくしてもらったんだよ」っていうことばだけでした。
全生園で自治会長をしていた原田嘉悦(はらだ・かえつ)さん、松本馨さん、国本衛さん(くにもと・まもる。2008年逝去。『生きて、ふたたび 隔離55年 ハンセン病者半生の奇跡』などの著者)、北條民雄と縁のあった光岡良二さん、山下さんはいろんな人たちに、とても世話になったんだと言っていました。
建物が取り壊されるにつれ、入園者が暮らした痕跡もその姿を消していく。黒崎さんはその過程をこれからも記録しつづける
とにかく、あの人ほど一途な人っていなかったんじゃないでしょうか。人付き合いは悪かったでしょうけど、いろんな人と親しく付き合っていたら、あれだけの仕事はできなかった。だからこそ道輔さんは「個」として生きたんだと思います。本当に信じられない人でしたよ。
道輔さんは2014年10月20日、入室していた園内の病棟で亡くなりました。亡くなる3時間前に書きたいことがあるから紙とペンもってきてくれって言われたんですが、書けたのは、らせん状の線だけでした。あのとき、いったい何を伝えたかったのか……。今でもときどき、考えることがあります。
よく訊かれるんですけど、山下道輔イズムを継承する者としては、終わりはないと答えるしかないですね。いつまでも通い続けて、ここがなくなるまで、なくなってからも、ずっと撮り続ける。当然そういうことになるんだと思います。今も道輔さんから「お前、最後まできちんと仕事しろよ」って言われてるような気がしてるんですよ。
取材・編集:三浦博史 / 写真:川本聖哉(人物) / 黒崎彰(モノクロ写真)