People / ハンセン病に向き合う人びと
瀬戸内海に浮かぶ、面積わずか61haの島につくられた大島青松園。高松港から官有船でおよそ20分。
しかし橋をもたない離島という土地柄は、隔離という現実がなくなったあとも地域社会との交流を困難にすると考えられていた。
その状況を変えたものとは、何だったのか。
大島青松園で自治会長を務める森さんに、大島での取り組みについてうかがいました。
Profile
森 和男氏
(もり かずお)
1940年、徳島県鳴門市生まれ。9歳になる前にハンセン病を発症し、同じくハンセン病を発症していた姉、キヨコさんとともに大島青松園に入所。長島愛生園内にある岡山県立邑久高等学校・新良田教室を卒業後、大阪市立大学へ進学。大阪の商社に就職したが、体調悪化により1971年に大島に戻っている。大島青松園自治会「協和会」会長のほか、全国ハンセン病療養所入所者協議会(通称・全療協)会長も務める。
自治会事務所内に保管されている自治会日誌などの過去資料
大島青松園正門。園名の由来ともなった松の木は近年どんどん数が少なくなっているという
大島の場合、自治会長は1年で交代するというのが、ずっと通例だったんです。今回は就任してから、すでに1年以上経っているんですが、高齢化などで、もう次にやる人がいないということで引き続きやってます。自治会に関わるようになったのは1974年頃からです。当時は役員の人もたくさんいたし、最初はわりと気軽な気持ちで引き受けたんですよ。
1949(昭和24)年の11月で、私はまだ9歳でした。戦後まだ4年しか経っていなかったので、当時の青松園はほとんど戦前のままといっていい状態でしたね。入所者は680名近くいたと思います。一番多かったのは1950年代なかばで、そのときの入所者数は700名を超えていました。入所者が700名以上になったのは無らい県運動があった戦前と1950年代の2回だけです。今は入所者64名、平均年齢も約83歳(※2016年7月時点)ですから、隔世の感がありますね。
最初のうちは子供舎に入って暮らしていましたから、子どもらしい生活で、比較的自由に過ごすことができました。もっとも終戦直後のことで食糧事情はよくありません。真水が出る井戸も2〜3本しかなかったので飲み水は貯水池を作って、それでまかなっていました。生活用水は井戸水を使いますが、塩水なので石鹸を使っても全然泡が立たないんですね。
入所者がみずから行う「患者作業」もありました。肉体労働から軽作業まで、健康状態に応じて、さまざまな作業が用意されているんです。作業を義務として押しつけて、やらせていました。身体に障るのでやりたくなくてもやらざるを得ない状況で、事実上の強制作業みたいなものでした。
重症患者の付き添い介護も当番が順番で決まっているので、体調が悪くても休むわけにはいかない。自分が休めば次の人に迷惑がかかってしまうので、無理をしてでも付き添い介護をしなければならなかったんです。介護中にお湯を沸かして、やけどをする人も多かったですね。ほかには船で運ばれてきた原木を浜で割り、薪にして配給するという作業もありました。土木作業と同様に重労働でした。
当時は自治会もそうした「患者作業」に関与していました。おそらく戦前からの習わしが、戦後になっても続いていたんでしょう。そういった意識に変化が出てきたのは、らい予防法の改正反対運動(※1950年代初頭より大規模な反対運動が行われた)以降のことだったと思います。これ以降、入所者の人権意識が芽生えていったわけですが、青松園はほかの療養所に比べると、かなり遅い方だったんじゃないでしょうか。時代の新しい波を敏感に受け止めていた人はいましたし、日本国憲法を読んで基本的人権について勉強していた人もいました。ただ、その数はほかの園と比べると少なかったように思います。
大島には現在も橋は架けられていない。高松港から大島へは官有船でおよそ20分
大島の場合、船に乗らなければ外出できないので、外出には園長の許可が必要でした。でも病状さえ落ち着いていれば、たいていの場合、外出許可は下りていましたね。瀬戸内の療養所のなかでも大島は長島ほど厳しくなかったんです。旧らい予防法にも退所規定はありませんでしたが、問題ないと判断した入所者については園長が正式に退所許可を出しているんです。数は少ないですが。
野島園長です(※3代目園長・野島泰治氏。園長在任は1933〜1969年)。病気や療養所運営に対する考え方は、ほかの園と基本的に同じで厳しいものでしたが、外出や退所に関しては園長裁量で柔軟に対応していたんだと思います。とはいえ、退所を許される人の数は決して多くはありませんでした。昭和30年代には社会復帰をする人がたくさん出ましたが、その多くは外出してそのまま帰ってこない、いわゆる「事故退所」です。私もそのうちのひとりでした。その後、病状が悪くなって青松園に戻ってきたんです。
1935年に建てられた教会堂。日本で数々の建築物を手がけたウィリアム・メレル・ヴォーリズによる設計
沖縄愛楽園発祥の地に建つ青木恵哉の銅像。青木恵哉は大島で受洗し、その後熊本を経て沖縄へ渡った
霊交会の創設者である三宅さん(三宅官之治氏。1877〜1943年)や長田さん(長田穂波氏。詩集、随筆集などの著書を多数残した。1891〜1945年)といった初期の霊交会リーダーの方々については、書かれたものでしか知りません。おふたりとも私が青松園に来る前に亡くなっていましたからね。ただ、いろんな話は折に触れて耳にする機会がありました。
青松園の自治会は1931(昭和6)年に創立されましたが、会長は「自治会総代」と呼ばれていました。自治会=霊交会というわけではなかったでしょうが、自治会の中心に長らく霊交会のメンバーがいたというのは事実ですね。
青木恵哉は仏教からキリスト教に改宗したんですが、当時の療養所ではそういったことは、よくあったそうです。青木さんは大島青松園を離れたあと熊本の回春病院(※ハンナ・リデルが開設)に行き、その後沖縄で紆余曲折を経て国頭愛楽園(※現在の沖縄愛楽園)を開設しています。青木さんは戦後になって2回ほど大島に里帰りをしていて、私はそのときにお会いしたことがあるんですよ。最初の里帰りが昭和38年6月、二度目が昭和41年頃のことだったと思います。親しくお話をしたわけではありませんでしたが、とにかく穏やかで、物静かな方だったという印象が残っていますね。青木さんは1969(昭和44)年3月6日に召天しています。
芸術祭向けのワークショップのあと、園内にあるカフェ・シヨルで(写真提供:NPO法人瀬戸内こえびネットワーク)
瀬戸内国際芸術祭のプロジェクトが動き出したのは、ちょうどハンセン病問題基本法という法律が国会で審議されていたのと同じ頃でした(※正式名称「ハンセン病問題の解決の促進に関する法律」2008年成立、翌年2009年施行)。
この法律は国がおこなってきた隔離政策によって受けた被害の回復や名誉回復をおこなうことを明記していますが、同時に資料館の設置や歴史的建築の保存、各種啓発活動、国立療養所を地域に対して開放していくことなども定められていました。当然、各療養所では将来構想をどうしていったらいいだろうか、という話も出てきたわけですね。
大島の場合、展示するような物が、ほとんど残っていなかったんですよ。管理棟や事務本館を建て替える際に古い資料がだいぶ出てきたんですが、それもほとんど処分してしまったんです。戦後の映画全盛期には映写機を購入して映画を上映したりもしましたが、その映写機などもみんな棄ててしまいました。かなり大きい機械だったので、保存しておけば良い歴史資料になったでしょう。もったいないことをしたと思います。
また療養所を地域に対して開放していくといっても、大島はまったくの離島で橋がありませんから、地元の人たちが気軽にやってくるというわけにもいきません。特別養護老人ホームをつくるのも難しいでしょう。これはどうしようもないなあ、と思っていたところへ香川県と高松市さんから「こんど瀬戸内国際芸術祭というものが始まるんですが、大島の皆さんも会場のひとつとして参加してみませんか」というお誘いをいただいたんです。
とはいえ、何をテーマに芸術祭に参加したらいいのか、最初のうちはまったくわかりませんでした。でも芸術祭に参加することで、いろんな人がきてくださるだろうし、その中でなにかヒントになるようなものが見つかるかもしれない。いくら悩んでいたって仕方ないんだから、とにかくやってみるしかないだろう。そう考えて、思い切って参加を決めたんです。
かつての面会人宿泊所を改装したカフェ・シヨル。シヨルは讃岐の方言で「〜している」という意味
園内にある「青空水族館」は絵本作家・田島征三さんが手がけた作品
長年波で洗われていた解剖台。なかほどにふたつに割れた跡が見える
名古屋造形大の高橋先生(※高橋伸行氏。名古屋造形大の卒業生、有志を中心とした「やさしい美術プロジェクト」で地域興しなどに取り組んでいる)が一緒にプランを考えてくださいました。「大島ではハンセン病の歴史を皆さんに知ってもらえるような展示がいいのでは」ということで、使われなくなっていた独身寮や面会人宿泊所などを改装して利用したらどうだろう、とこちらからも提案してみたんです。
独身寮は手直しされて大島の資料を展示した「つながりの家(※2013年グッドデザイン賞受賞)」というスペースになりましたし、面会人宿泊所は「カフェ・シヨル」になりました。2013年の第2回のときには、絵本作家の田島征三先生にも加わっていただいて「青空水族館」という作品も新しくできました。
あの解剖台は療養所の古い建物の産廃を処分してもらったときに、業者がもてあまして海に棄てていったものなんです。それが砂浜に打ち上げられて、ずっとそのままになっていたんですね。釣りの餌を掘りにいったときなど、波にあらわれているのをよく目にしました。高橋先生に相談したところ、ぜひ展示として使いましょうということで引き上げることになったんですが、重機をもってきて海から引き上げたときに、まっぷたつに割れてしまったんですよ。現在展示されているのは、それを修復・復元したものです。
青松園には、じつは解剖台がふたつあったんですが、もうひとつは残土を埋め立てたときに一緒に埋めてしまったんです。このあたりに埋めたという大体の場所はわかっているんですが、あれを展示するには……今度は発掘作業をしないといけないですね。
地元の人でも大島のことを知っている人と知らない人は、これはもう、はっきりと分かれるんです。以前は知らないという人がほとんどだったんじゃないでしょうか。それが芸術祭の会場となったことで多くの人が訪れてくれるようになり、アート作品に触れることで療養所の存在や歴史についても知ってもらえるようになった。最初は正直とまどいもあったんですが、この芸術祭がなかったら、これだけ多くの人が大島へやってくることもなかったと思います。そういった意味でも、ちょうどいいタイミングで、いい巡り合わせに恵まれたと感じます。やっぱりなにごとも、やってみないとわからないものですね。アートってよくわからなかったけれども、こういうこともできるんだなって、みんなびっくりしているんですよ(笑)。
取材・編集:三浦博史 / 写真:川本聖哉