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People / ハンセン病に向き合う人びと

西野 ミヱ子(大島青松園入所者)

西野ミヱ子さんは手足に重い障がいを抱えています。
でも朝な夕な、電動車を器用に乗りこなしながら、起伏の多い大島青松園のそちこちに行っては、
愛用のデジカメで四季の風景を写真に撮り続け、パソコンとiPadを駆使してデジタル生活も充実させています。
はじめは写真撮影もインタビューも拒否されていましたが、私たちが取材のために大島に滞在していた二泊三日のあいだ
取り立てのトマトをたくさん差し入れしてくれ、いっしょに園内をまわって案内をしてくれ、
私たちが大島を発つときは桟橋まで見送りに来てくれて、「昨夜、じっくりiPadで皆さんのつくっている記事を読みました。
私のことも書いてくれていいですよ」と言ってくれました。
この記事は、園内を案内しながら、西野さんが打ち明けてくれた話です。

Profile

西野 ミヱ子氏
(にしの みえこ)

1940年(昭和15)、徳島で生まれる。小学生のときにハンセン病を発症し、1943年(昭和27)年に長島愛生園に入所。1961(昭和36)年に大島青松園に転園。

邑久光明園で亡くなった母を訪ねて
カルテに残されていた一枚の写真

  • 大島青松園は1909(明治42)年に設立。かつては隔離のための離島だったが、現在は高松港とのあいだで官用船が運航され、高松市内との行き来もしやすくなった。

私がこの大島青松園に来たのは昭和36年のことでした。それまで長島の愛生園にいたんですが、大島に入所していた兄の目の調子が悪くなってしまったので、兄の世話をするために大島にきたんです。それ以来、ずっと青松園にいます。

兄は志願兵として南方に行ってました。私よりも13歳年上の長男で、子どもの目からすると軍服を着た兄はとても立派で、ちょっと近寄りがたい存在でしたよ。兄が戦地から帰って結婚したのちハンセン病にかかり、私と一緒に長島に入園しましたが、一度社会復帰をして二度目に入園したのが大島でした。その兄から頼まれて、私も長島から大島に転園してきました。

私がハンセン病を発症して療養所に入ることになったのは小学生のときでした。そのときは大島の少年少女舎はすでにいっぱいで入ることができなかった。それで長島に行かされました。昭和27年7月31日のことです。

徳島から高松までは患者護送用の貨車に乗せられました。「患者を乗せている」という貼り紙がいっぱいの貨車でした。高松に着くまでは一歩も貨車から出してもらえませんでした。高松で長島から迎えにきた「愛生丸」という小さな舟に乗り換えるんですが、波が高くて海がうねっていましたので、途中までフェリーに引いてもらって長島にたどりつきました。

  • 園内を案内しながら昔語りをしてくれる西野さん(左)。中央は、元笹川記念保健協力財団理事の山口和子さん。

じつは私の母もハンセン病だったんです。30歳か31歳のとき、ちょうど私を身ごもっているときに病気が判明して、私を生んでまもない昭和17年7月20日、父が仕事で出かけているあいだに、家に巡査がやってきて、無理やり連行されて、邑久光明園に入れられてしまったんです。ちょうど日本中で無らい県運動が盛んだった時分ですからね。四国にはお遍路している患者もたくさんいたんですが、そういう人たちといっしょに連れていかれたそうです。それから半年後、あくる年の2月10日に、母は光明園で亡くなりました。

生まれて間もなく生き別れになってしまったので、母のことは何も覚えていませんが、4~5年前、母のことを調べに邑久光明園に行ったんですよ。そうしたら、なんと母のカルテが残っていたんです。家には母の写真が一枚も残っていなかったのですが、そのカルテには母の写真も貼ってありました。強制収容されてすぐに撮られたものだと思いますが、写真の母はとても美しかった。それを福祉課のカウンターで見せられて、その場で泣き崩れてしまいました。

母のお骨は、納骨堂がいっぱいになってしまったので、合葬されてしまい、ひな壇には残っていませんでした。職員が申し訳なさそうに説明してくれましたが、それはもう結構です、と言いましたよ。それよりも、よく70年以上も前の母のカルテを残してくれていたと思います。しかも、あの時代のカルテはドイツ語で書かれているんですが、青木先生(註:青木美憲氏、現在光明園園長 ⇒青木氏へのインタビューはこちら)が、ぜんぶ日本語に翻訳してくれたんですよ。おかげで、母がどのような状態で光明園に入り、どのようにして亡くなったのかがわかりました。元園長の石田先生が丁寧に説明もしてくれました。

  • 西野さん撮影の、栗林公園の梅

母が強制連行されて家を出ていくとき、家には祖母と姉がいて、私は姉におぶられていたそうです。姉の話では、母は一度も私たちのことを振り返らず、うつむいたまま連れて行かれたのだそうです。姉はよくそのことを「いっぺんも振り向いてくれないなんて、あんな親おらんよ」と言って母を責めるような言い方をしたものです。でももし母がそのとき振り向いていたら、ぜったいに足が前に進めなくなってしまったでしょう。そのときの母の気持ちを思うと、いまも涙が出てきます。

それくらいひどい時代だったんですよ。しかも戦時中でしたからね。ただでさえ大変なときに私を身ごもって、しかも病気に冒されて、そんななかで、よく母は私を生んでくれたと思います。もちろん私もこの病気のせいでつらい思いをしてきました。私が発病したときに母が亡くなっていてよかったとも思います。「私のためにこの子が病気になってしまった」という思いをさせずにすんだんですから。

写真を趣味にしている西野さんは、毎日のように大島から望む瀬戸内海の夕焼けを撮影しつづけている。「夕日そのものより、夕焼けの雲がきれいなのよ」

長すぎた絶対隔離の時代
人々の思いと変化を見続けて

  • 西野さん撮影の、納骨堂と梅の花

  • 西野さん撮影の、大島から望む夕焼け

  • 浜辺で取材チームとともに夕焼けの撮影を楽しむ西野さん
    カメラマンに、「私の写真どう?」

父から聞いた話ですが、母は私を未感染児童の保育所に入れたがっていたそうです。光明園にはそれがなかったけれど、長島にはあった。だから母は、私を長島の未感染児童の施設に入れてほしいと父に頼んだのです。でもあの時代の療養所は医療もまだよくなかったし、たくさんの人が亡くなっていましたからね。「あれは薬のせいじゃないだろうか」「薬を使って殺されているんじゃないだろうか」と考えた父は恐ろしくなって、結局、私を保育所に入れずに、連れて帰ってしまったんです。

小学1年生のとき、お尻に斑紋が出ているのが学校の身体検査でわかりました。父は、すぐにハンセン病だということがわかったようです。そのうち斑紋が増えて、指がちょっと曲がってきたりした。父は私に「家から絶対に出るな」と言って、外出させてくれなくなりました。結局、近所の人々からいろいろ言われて、愛生園に行かざるをえなくなりましたが、正直なところ、少しほっとしましたよ。それまで家にずっと閉じ込められていたし、愛生園に行くと子どもがいっぱいいましたし、友達もすぐにできました。

私が愛生園にいたときの園長は光田健輔先生です。光田先生についてはいろんなことが言われてますが、確かにとても厳しい、怖い人でした。入所者を絶対に外出させなかった。私たちの修学旅行も、船で何にもない無人島に行って、お弁当を食べて帰ってくるというものでしたよ。少しでも船が陸地に近づくと、船から頭が出ないように、頭を下げているようにと言われるんです。はるか向こうの陸地で車が何台か見えてるくらいなのにね。一度、父が私を一時帰省させようとして、迎えに来てくれたことがあったんですが、そのときも光田先生が許してくれませんでした。それどころか「なんでこんなになるまで、家に置いておいたんだ」って父のことを叱ったそうです。その後も、父は何度も私を連れ戻そうとしましたが、できませんでした。

1996(平成8)年にやっと「らい予防法」が廃止されて、園からも「もう家に帰っていいですよ」と言われるようになりましたが、60歳や70歳をすぎてそういわれても、もう帰る家もありませんよ。皆さんそうです。10代、20代の若さなら、外に出てはたらくこともできるかもしれませんが、私のような年で、障がいを持った人にはなかなかできないことです。ずっと隔離されていたから、電車の乗り方も知らない、水道代やガス代をどうやって支払いするのかも、税金の払い方もわからないんですから。やっぱりあまりにも遅すぎたんです。あまりにも長く隔離政策が続いてしまった。

でも私は、光田先生がやったことは何もかも悪い、すべて間違っていたかのように言われていることは、少し違うのではないかとも思うのです。国のお役人たちも「ハンセン病は怖い病気だ」ということをさんざん人々に植え付けたわけです。またハンセン病は目につく顔や手や足に症状が出ますので、それを見て「怖い」というふうに誰もが思ったわけでしょう。もう菌はなくなっているのに、顔や手足に問題があるから、差別してしまう。そうやって人間は、人間のことを区別したがるものなんですよ。

私が50数年前にこの青松園に来たときに、とても驚いたことがありました。それは、医者や職員たちが、入所者の部屋に、土足で入ってくることです。往診をお願いすると、「部屋にムシロを敷いておくように」と言われましてね。病気で寝ている枕元に、頭から足の先まで「完全武装」して目だけ出した医者が、長靴のままやってくるんです。愛生園も医者や職員がみんな「完全武装」して患者に接していましたが、さすがに家のなかに土足で入ってくるようなことはありませんでした。私は無性に腹が立って、抗議しましたけど、なぜそれが悪いのかわからないようでしたね。そういうことが当たり前になっていたようです。非人間的扱いでした。

こんなこともありましたよ。私が何かの手続きのために、印鑑を福祉室に預けたことがあるんですが、戻ってきたときには印鑑が飴のように溶けてしまってたんです。印鑑が飴のようになってしまうなんて、いったいどんなに強い消毒をしたのでしょうね。職員は平謝りしてくれましたが、手紙でもなんでも、私たちが触ったものは、そうやって徹底的に消毒していたんです。どこの園でもそうでしたが、とくに大島ではそういう時代が、長く続いてしまったようですよ。

おもしろいことに、この大島の職員や看護師のなり手が近隣からなかなか集まらないので、遠い鹿児島や奄美から応募してきた人が増えたことがあったんです。鹿児島や奄美から来た職員や看護師さんはとてもオープンで、入所者の部屋に平気で入っていくし、いっしょにお茶を呑んだりする。きっと病気は移らないということもわかっていたのでしょう。それで地元出身の職員たちがとてもとまどいましてね。そのころから、大島の空気も変わっていきました。いまでは地元の人たちが、職員さんとして来てくださっています。

結婚は、大島に来た年の昭和36年10月26日にしました。小さな島でお見合い結婚をしたんです。私が21才、主人が27才の時でした。ハンセン病になって結婚することなど、ゆめゆめ思っておりませんでした。父からも「ハンセン病になって結婚などするものではない」とつねづね言われていましたので、私にはその気はなかったのですが、兄に自分の世話をしてほしいと言われ、また主人も徳島の人だったので、いろいろありましたが一緒になりました。その主人も今は亡くなりましたが、とても心の温かい人でしたよ。
近年の楽しみは旅行です。国内はもとより、海外はヨーロッパ6カ国、アジア5カ国に行きましたよ。この病気になって不自由度も重い私がそんなに行けたことは、協力して下さった方のおかげだと思います。出かけた先々で、こういう世界があったのかと感動の連続でした。

13才でハンセン病になって愛生園に入園したときに、光田健輔先生が「この子は、そんなに長生きできない」と父に話していたのを聞いた覚えがあります。でもおかげさまで、76歳になりました。私をこの世に送り出してくれた両親に感謝しています。いろんな体験をさせてもらって、いままで一病息災でこられたのも、皆さんのおかげと思って日々暮らしています。

取材・編集:太田香保 / 撮影:川本聖哉・長津孝輔