People / ハンセン病に向き合う人びと
東西冷戦の緊張が高まり、ベトナム戦争が泥沼化しつつあった1960年代。
日本でも、制度や社会の矛盾に反発する学生たちが、激しい運動や闘争にのめりこんでいた。
その一方、ハンセン病療養所に隔離されたまま世間から忘れられている人々と
積極的にかかわりをもち、回復者たちが気兼ねなく使える宿泊施設「交流(むすび)の家」を手作りで開設した若者たちがいた。
「交流の家」は、いまも奈良市郊外で、当時の建物そのままに、
回復者やハンセン病の問題を通して出会った人たちがむすびあう場所として、
またアジアのハンセン病回復村のワークキャンプ活動を支える根拠地として営まれている。
学生時代にその設立にかかわり、以降も運営に深く携わってきた、
湯浅進さんと矢部顕さんに、「交流の家」の成り立ちについて話をうかがった。
Profile
湯浅進氏
(ゆあさ すすむ) NPO法人むすびの家 理事長
1944(昭和19)年、北海道岩見沢市で生まれる。1963年、同志社大学文学部社会学科入学。サークルは「新聞学研究会」に所属。ここでFIWCのメンバーと出会い、ワークキャンプ活動を始める。1965年、FIWC関西委員会委員長、大学では鶴見俊輔教授のゼミ生となる。2004年、NPO法人むすびの家設立とともに理事長に就任、現在も続く。
矢部顕氏
(やべ あきら) NPO法人むすびの家 理事
1947(昭和22)年、岡山市で生まれる。1965年、同志社大学文学部社会学科入学。サークルは「新聞学研究会」に所属。ここでFIWCのメンバーと出会い、ワークキャンプ活動を始める。1967年、FIWC関西委員会委員長、大学では鶴見俊輔教授のゼミ生となる。2004年、NPO法人むすびの家設立とともに理事に就任、現在も続く。
建設中の「交流の家」(1966年のロングキャンプ時のようす・『交流の家運動50年史』より)
大倭拝殿に集う鶴見俊輔とキャンパーたち(1964年春ロングキャンプ・『交流の家運動50年史』より)
歓談する矢追日聖法主(左)とトロチェフ氏(右から2人目)
「交流(むすび)の家」は、奈良市大倭町の一角にある、ハンセン病回復者のための宿泊施設である。1960年代、社会活動に熱心に取り組む学生団体「FIWC」(フレンズ国際ワークキャンプ)が主体的に考え計画し、幾多の困難を乗り越えてつくったものである。設立から50年近くを経て、その役割は大きく変わりつつあるが、回復者が気兼ねなく泊まれる「家」であることはいまも変わりない。取材チームが「交流の家」を訪問した2016年5月28日~29日も、かつて長島愛生園にあったハンセン病療養所唯一の高校「新良田教室」(註)の第一期生の同窓会のため、10人ほどの同期生たちが泊りがけで集まっていた。また、かつてFIWCメンバーとして「家」の設立にかかわった人々やその後も運営に携わってきた人々、現在のFIWCメンバーである若者たちも参加し、回復者たちの滞在中の食事や宿泊のサポートをしながら、交流を楽しんでいた(この「同窓会」の模様は近日中に当サイトでレポートする予定)。
そもそも、いったいなぜ、どのようにして、ハンセン病回復者のための「家」が、奈良市郊外につくられたのか。その成り立ちに大きなきっかけを与えたのが、昨年(2015年)逝去した思想家の鶴見俊輔である。鶴見は哲学から大衆文化までをカバーする幅広い研究・評論活動を展開するとともに、「行動する思想家」として日米安保に対しては「声なき声の会」、ベトナム戦争に対しては「ベトナムに平和を! 市民連合の会」(ベ平連)を組織するなど、1960年代以降の言論界に大きな影響を与え続けた人物である。
その鶴見俊輔が、栗生楽泉園に入所するロシア人青年トロチェフと親しく交わっていたこと、トロチェフが東京のYMCAで理不尽な宿泊拒否を受ける現場を目の当たりにし、義憤を覚えたことがすべての発端となった。事件の翌日、鶴見は同志社大学で受け持っていた新聞学ゼミの学生たちにその話をした。これが学生たちの心に火を点けたのだ。
じつは鶴見俊輔とハンセン病との出会いには、いくつかの“前史”があったのだと、現在NPO法人「むすびの家」の理事長をつとめる湯浅進さんが語る。
――鶴見さんは、戦前アメリカに留学していたとき、神谷美恵子(註)に出会っていたんです。それから、戦後すぐに鶴見さんが、お父さんの軽井沢の別荘に滞在していたとき、ある医者から「ハンセン病と思われるロシア人の少年を診察したが、そのため県の医務官と話をしたいので通訳をお願いしたい」と頼まれるんです。それがトロチェフだった。でもそのときは一度会ったきりになってしまう。10年くらいたって、鶴見さんは詩人の大江満雄や山室静と一緒に、草津にあるハンセン病療養所・栗生楽生園に出かけていき、そこでトロチェフと再会するわけです。
――でも鶴見さんの“前史”はそれだけじゃない。もっと驚くような話があります。小学4年生のときに、友人の家に遊びに行った帰りに、のちに愛生園の自治会長をつとめる鈴木重雄さん(園名・田中文雄)と偶然出会っていたんですよ。鶴見さんが愛生園を訪ねたとき、鈴木さんのほうから「あのとき会いましたよね」と言われてわかったんだそうです。これには鶴見さんもびっくりしたと言ってましたね。
鈴木重雄氏(註)といえば、取材チームは、笹川記念保健協力財団・元常務理事の湯浅洋氏からも名前を聞いていた。湯浅氏は若かりしころ愛生園で英語の臨時教師をつとめ、その後、世界のハンセン病患者のために尽くす活動をしていていくことになるのだが、その湯浅氏に英語教師を依頼したのが、鈴木氏である。
――1963年のことです。すっかり親しくなった鶴見さんとトロチェフが東京YMCAで会うことになり、トロチェフがオートバイで草津から東京にやってきたんです。トロチェフは足に障害がありましたが、それ以外に目立つ後遺症はなかった。にもかかわらず、「他の宿泊客に迷惑がかかる」とあらかじめ予約をしていたにもかかわらず宿泊拒否をされたんです。当時、外出のときは園から「無菌証明書」が発行されていたので、それを見せたそうですが、それでも受け付けてくれなかった。その場に立ち会って、あの滅多に怒らない鶴見さんが激怒したそうですよ。
――そのころ、鶴見さんは京都の同志社大学で教師をしていました。YMCAの一件のすぐ後、鶴見さんは夜行で京都に向かい、翌日のゼミの授業中に「友人のハンセン病回復者が東京YMCAで宿泊拒否にあった。新薬ができてハンセン病は治るようになったのに、回復者には宿泊するところがない」という話をしたんです。
学生のほとんどは、ハンセン病のことも日本の療養所で回復者たちがどのような状況に置かれているのかも、よくわかっていなかった。が、鶴見の話は衝撃をもって受け止められたらしい。そのなかに、FIWCの委員長をつとめる柴地則之がいた。柴地は、ワークキャンプの活動として、ハンセン病回復者のための宿泊施設をつくれないかと考え、ただちに仲間に声をかけそれを実行していったのである。
註)新良田(にいらだ)教室:正式名は岡山県立邑久高校定時制課程新良田教室。1955年、全国で唯一のハンセン病者のための高校として長島愛生園につくられた。1987年の閉校までに307人の卒業生を送り出し、そのうちの70%が社会復帰を果たしている。
註)神谷美恵子(1914~1979):精神科医として日本のハンセン病患者の精神医学調査をおこない、1965年から長島愛生園の精神科医長となる。人間と精神について哲学的考察を深めた『生きがいについて』『人間をみつめて』などの著作で知られる。
註)鈴木重雄(1911~1979):1936年長島愛生園に入所。園名は田中文雄。ハンセン病回復者の社会復帰のために尽力する一方、故郷の唐桑町の振興に奔走、1973年には町長選に出馬するが僅差で敗れた。その後も唐桑町で知的障害者のための活動を続けるが、1979年突然自死した。
「交流の家」は基礎工事から竣工まで、FIWCのキャンパーや回復者、また支援者たちの手によって成し遂げられた
FIWCのルーツは、スイスのクエーカー教徒ピエール・セレゾールの提唱で、第一次世界大戦による荒廃からの復興をめざして、各国の若者たちが集った国際労働キャンプにある。その精神を受け継いだアメリカ・フレンズ奉仕団(AFSC)が、戦後、日本の復興支援のために来日しワークキャンプを行ったことから、日本の若者たちによるFIWC関東委員会、ついで関西委員会が組織化されていった(広島、福岡にも委員会がつくられた)。
鶴見俊輔から話を聞いて、「交流の家」を立ち上げていったのは、この関西委員会のメンバーたちである。湯浅さんによると、当時、同志社大学のFIWCメンバーは柴地則之を含めて7人ほどいたが、その全員が鶴見ゼミ生だったのだという。
じつはこの取材のために「交流の家」を訪問する直前(5月27)、オバマ大統領が現職のアメリカ大統領として初めて広島を訪問したのだが、やはり学生時代からFIWCメンバーとして「交流の家」にかかわってきた矢部顕さんがこのような話をしてくれた。
近年まで町内会の集会所として使われていた「シュモーハウス」(広島市中区)、現在は市の平和記念資料館となっている(写真は矢部氏提供)
――オバマ大統領が被爆者たちに謝罪をしなかったという批判も出ているけど、日本人もひとつ忘れていることがあります。それは、戦後まもない1949年に、AFSCの人びと、つまりアメリカのクエーカー教徒たちが、学生たちとともに原爆で破壊された広島に来てワークキャンプをしているんです。彼らはアメリカで浄財を集めて、家を失った被爆者たちのために謝罪の意味で広島に二十数軒もの家や集会所をつくりました。
――クエーカー教徒というのは、かつて、祈りのとき啓示を受けて身体が震えたりすることがあった。それで他宗派からさげすみの意味で「クエーカー」(震える者)と呼ばれるようになったんですが、300年ものあいだ国家に敵対してでも絶対平和主義をつらぬき、社会のために建設的事業をしつづけてきたので、たいへん尊敬されている人々です。日本の戦後復興のために提供された「ララ物資」もクエーカーの人たちが中心になって贈ってくれたものです。彼らが広島に建てた家は、いまはもうどこにあったのか知られていませんが、「シュモー会館」と呼ばれた建物だけは移築されて保存されていますよ。
AFSCを母体として日本につくられたFIWCは、1961年に独立し、以降は特定の宗教や党派や団体とは無縁に、独立独歩の立場を通してきた。「言葉でなく行動を」を合言葉に、被災地や養護施設、開拓農村、朝鮮人居住区、被差別部落、スラムなどでワークキャンプ、つまり無報酬による奉仕的な労働活動を展開しつづけた。ワークキャンプは、参加する学生にとっては、実践的な社会授業の場であるとともに、大学という枠組みを超えて人脈を広げる機会にもなっていたようだ。学生時代にFIWCの活動に引きよせられ、その後、社会活動家として、あるいはビジネス界や言論界で名を成していった人物も数多いという。8年前に亡くなったジャーナリストの筑紫哲也も学生時代はFIWCの活動家であり、最期までFIWCを支援し続けた。NPO法人「むすびの家」の会員でもあり、毎年10口の会費(1口5000円)を振り込んでいたという。
それにしても、「交流の家」といい、AFSCによる「ヒロシマの家」といい、なぜ彼らは「家」をつくることにこだわるのだろうか。矢部さんに聞いてみた。
――あの時代は学生運動が盛んだったけど、セクト同士、互いを攻撃しあうばかりになって、どんどん自滅していきました。そんななかでFIWCは根拠地の思想というものを重視した。根拠地があればいつでもみんなで集まれる。いっしょに飯を食うこともできる。疲れたときに休むことができる。再び闘いに出かける力をたくわえることができる。この「交流(むすび)の家」は、みんなでおむすびでも食べながら集まって話そうという意味で名付けられたんですが、後に大江満雄が「交流の家」という字を当ててくれました。ここは、ハンセン病の回復者たちのためだけではなく、自分たちにとっての根拠地でもあるんです。
鶴見俊輔の話に触発された柴地則之は、なによりもまず「家」をつくるための土地の確保が必要だと考えた。かといってさしたるあてはなかったのだが、ワークキャンプで世話になったことのある矢追日聖(やおいにっしょう)に相談を持ち掛けた。矢追日聖は奈良市郊外で宗教的紐帯をもちながら共同生活を営む「大倭教」の創始者であり法主である。日聖法主はすぐに大倭教のコミューン「紫陽花邑」の敷地内の土地を無償で提供することを約束したのである。
奈良といえば、悲田院・施薬院をつくるなど慈善事業に熱心だった光明皇后が、らい者の膿を口で吸い取って癒したという伝説が伝えられてきた土地である。ハンセン病回復者のための「家」をつくりたいという柴地の相談を受けたとき、日聖法主は「これは光明皇后の志を伝える神慮である」と受け止めたのだという。
『交流の家運動50年史』に掲載されている1963年末の街頭募金の様子。鈴木重雄氏の姿が写っている
1965年夏のロングキャンプの基礎工事のようす(『交流の家運動50年史』より)
1963年の秋、鶴見俊輔は3人の学生を引き連れて、長島愛生園を訪問した。柴地の跡を継いでFIWC委員長となった京都大学の白石芳弘、同じく京大の直井英剛、そして同志社大学鶴見ゼミの湯浅進の3人である。湯浅さんはまだ一回生だったが、都合がつかなくなった柴地のかわりに急きょ連れて行かれたのだという。
――回復者のための「家」をつくるといっても、考えてみればぼくたちはハンセン病のことを何も知らないし、やはり当事者たちの意見を聞いてみるのが大事だろうということで、鶴見さんが連れて行ってくれたんです。向こうでは、まず患者側代表の方と会いました。最初は皆さん疑心暗鬼になっていた。それはそうですよね。当時はまだ「らい予防法」が生きていて、かなり緩くなったとはいえ療養所は隔離政策下にあったんですから。突然、学生たちが押しかけてきて、回復者たちの宿泊施設を療養所の外につくりたいなんて言っても、すぐには信じられなかったでしょう。でも、話すうちに自治会側は賛成してくれました。園側の幹部の人たちにも会いましたが、こちらは否定的でした。そもそも園側の人間が、法律を破るような施設を認めてくれるわけがありませんからね。「今日は園長が留守だから報告しておきます」というような冷たい対応でした。
――その日の夜は園内の施設に宿泊させてもらいましたが、なんだかしんみりしてしまいましたね。ぼくたちは初めてハンセン病の後遺症を抱えた人たちと対面したわけです。ものすごく顔が変型した人たちもいました。まともに顔を見ることもできなかった。ショックを受けてしまった。でも、3人でいろいろ話し合って、「ここまで来たら、やるしかないよな」と励ましあいました。
しかし園側からはその後なんの音沙汰もなかった。そこへ、鶴見から要請を受けて、愛生園の入所者のなかでもリーダー格のひとりとして一目置かれ、鶴見と不思議な縁で出会い再会していた鈴木重雄が京都まで訪ねてきた。
――ぼくたちが愛生園を訪問したときに会えなかった鈴木さんが、鶴見さんから話を聞いて京都へ来てくれたんです。鶴見さんと愛生園に行ったメンバーとで、京大人文研で会いました。鈴木さんに「愛生園に行ったときに依頼した園側の見解は出てくるだろうか」と聞くと、事務部長が「なぜ愛生園がこの種の計画に今さら意見を述べる必要があるか、まったくわからない話だ」とぼくたちに対して批判的になっているということを、鈴木さんの口から聞かされました。でも鈴木さんは、ぼくたちの建設計画がたんに回復者が宿泊できる施設をつくるためのものだけではなく、ハンセン病に対する偏見・差別を打破するための運動も担っているということを感じたのでしょう。その後、全面的な協力者として、この運動を支えてくれました。
――その年末から、資金集めのために、京都・大阪・奈良で募金活動を始めました。鈴木さんもいっしょに街頭に立ってくれました。ハンセン病回復者がみずから街頭にたって募金活動をするなんて、前代未聞のことですよ。その結果、なんと40万円ものお金が集まったんです。「これなら必ず実現できる」とみんな自信を持ちましたね。
翌1964年の春から、いよいよ整地と基礎工事が始まった。プロの手も専門業者の力も借りず、いっさいはFIWCのキャンパーたち(ワークキャンプに参加する学生たち)の手によって進められた。設計を手がけたのは、阪大工学部の学生たちだった。また、鶴見俊輔、鈴木重雄とともに、藤楓協会理事長の浜野規矩雄氏、アジア救らいセンターで所長を勤めた西占貢氏(京大医学部)らを招いて講演会を行い、ハンセン病に関する知識も深めた。さらに、全国のハンセン病療養所を訪問するキャラバンを実施し、回復者たちにプロジェクトを理解してもらうとともに、キャンプへの参加を呼び掛けた。
「交流の家」1階のコンクリート型枠と足場が完成(1965年夏ロングキャンプ・『交流の家運動50年史』より)
大学が夏休みに入り、いっそう工事の進展が期待できるロングキャンプに入った矢先に、事件が起こった。噂を聞きつけた地元の住民たち100人ほどが、矢追日聖法主の家に押しかけ、建設反対を訴えたのだ。ハンセン病者たちが宿泊する施設がつくられると、人が近寄らなくなり、土地が値下がりし、住民が迷惑するというのが反対理由だった。日聖法主は引かなかったが、学生たちは動揺した。そのときのことを、湯浅さんが語る。
――反対運動はかなりきついものでした。住民のほとんどは農家の人たちでしたが、ハンセン病に対して、あれほど強い忌避感があるのだということを、思い知りましたね。いったん工事を中断し、2~3人ずつのチームを組んで地元住民の家を一軒ずつ訪問し、理解してもらおうとしましたが、どうしても話が進みませんでした。
住民たちと学生たちが小学校講堂に集まり、4時間にもわたる「団体交渉」も行われたが、物別れに終わった。この騒ぎを聞きつけ、報道関係者がさかんに取材に訪れるようになった。学生たちは工事を中断したまま、官庁や関係者への働きかけを続けたが、11月になると奈良市長が「交流の家」建設反対を表明。事態はますます悪化するかに思われたが、このとき市長が「このような施設は開発の邪魔になる」と差別的な発言を一方的にしたことに対して、反発を覚えた市会議員7人が調停に乗り出した。
――最初は、「自分たちまで差別されて村八分になるから断固反対」といった硬便な意見が出てきたり、調停案を決めようとしても「それが破られたらどうするのか」といった法的なことが議論になったりして、話し合いをしても物別れに終わる。そういうことが続きました。そんななか、全患協(全国ハンセン病患者協議会・現在は「全療協」)の書記長をやっていた光岡良二さんが、住民や市長や議会や有識者に向けて、ハンセン病当事者としての思いを訴えてくれたんです。これが人々のこころを動かしましたね。光岡さんは、北条民雄の親友で歌人だった人です。
――じつはぼくたちは「調停案」のなかに、ある条項を含めようとしていました。「地元の皆さんが納得するまでは、ハンセン病回復者は宿泊させない」というものです。これを入れることで最終的に折り合いがつくのではないかと考えていた。当時、ぼくたちが思想的に大きな影響を受けていた谷川雁(註)さんがちょうど大阪に来られたので、お会いしたときにその調停案を見てもらったんです。そうしたら、「君たちは、日本で最大のハンセン病差別の家をつくる気か」と言われた。回復者のための家をつくっておいて、回復者を泊めないなんて、いったい誰のための、何のための家なのか。谷川さんに指摘されるまで、ぼくたちはそんなことも思い至っていなかった。自分たちも気づかないまま差別をしていたんです。もちろん、「調停案」からその条項は削除しました。
1965年2月、ようやく調停案が結ばれた。それにもとづいて、学生たちが手作りで進めていた基礎工事と5段まで積み上げられていたブロックは取り壊され、専門家のアドバイスを受け設計からやり直すことになった。鉄筋コンクリート2階建ての新たな建築プランがまとまり、建設決定から3年10カ月、工事再開から2年半を経た1967年7月30日、ついに「交流の家」が竣工した。
註)谷川雁(1922~1995):詩人、社会運動家、教育運動家。1950年代に筑豊の炭鉱労働者のための自立共同体を組織化し運動を展開。また『サークル村』を創刊し、中村きい子、森崎和江、石牟礼道子らの書き手を登場させた。評論集に『原点が存在する』『工作者宣言』ほか多数がある。同時代の思想界に大きな影響を与えた。
1967年7月30日の竣工式のときに植樹されたヒマラヤ杉は、見上げるような大木に育ち、いまも「交流の家」を見守っている
2014年に発刊された『交流の家運動50年史』第1巻
『交流の家運動50年史』の編集委員長を務めた青谷善雄さん、やはり学生時代に「交流の家」の建設工事で汗を流した
竣工式には全国療養所、厚生省、藤楓協会、大倭などの関係者とマスコミが招かれ、療養所を代表して鈴木重雄氏と、FIWCを代表して湯浅さんが、記念にヒマラヤ杉を植樹した。そのヒマラヤ杉は現在では、「交流の家」を守る大屋根のような大木になっている。
――建設に参加した学生たちは延べ5000人以上になります。大学が休みになるときはもちろん、週末ごとにワークキャンプをやって、そのたびに30~40人くらいがかかわりました。その多くはハンセン病のことなんて何もわかっていない。「なんだかおもしろそう」「誘われたから」というくらいの動機で来る人も多かったですね。問題意識がある学生たちにも、「救らい」といった考え方や、「かわいそうな人たちのために」なんて発想はまずなかったと思います。だから回復者がワークキャンプに参加してくれても、まったく特別扱いしない。「お前たちは体が不自由な俺たちのことをちっとも気遣ってくれない」なんてよく言われたものですよ(笑)。
――鶴見さんはこの「交流の家」建設運動にたいへんな肩入れをしてくれました。鶴見さんの講演会やキャンプのディスカッションでの話や言葉は、ぼくたちを励まし、精神的支柱にもなっていましたね。また鶴見さんは、ハンセン病の回復者のなかに「逆転の力」があるということ、彼らと接して活動をともにすることを通して、キャンパーたちが人間として生きる機会を与えられたように思うとおっしゃっていました。
「交流の家」は、回復者が療養所の外で気兼ねなく宿泊できる施設として貴重な存在となった。「交流の家」があることで、初めて療養所内の中学生が修学旅行を体験できた。また回復者からの希望で、20年にわたって入所者と関西の大学対抗囲碁将棋大会が開催され、全国の療養所から腕自慢が集ってひとときの交流を楽しんできたという。慰問というかたちで外から療養所に人が訪れ交流や文化活動をすることはあっても、療養所から回復者が外に出ていって交流する機会はなかなかなかった。「交流の家」はその機会を提供してきた。
残念ながら、回復者たちも高齢化が進み、遠方から奈良までやってくることのできる人はどんどん減っていくことだろう。これから「交流の家」はどうなっていくのだろうか。
――回復者の皆さんに宿泊場所を提供するという役割は終わっていきますが、これからもワークキャンプの活動拠点としてあり続けたいと考えています。FIWCのハンセン病に対する問題意識は、いまはアジアに広がっています。「アジアのハンセン病を結ぶ」という発想です。中国や韓国のハンセン病の村でもさかんにワークキャンプをやってきました。
――とくにいま力を入れていることは、中国、韓国、フィリピン、インドネシア、ベトナムのハンセン病の当事者に聞き書きをし、それを翻訳する活動です。アジアのハンセン病の個人史をまとめていきたい。もちろん、「交流の家」の成り立ちやその後のことについても、いまのうちに資料を整理してまとめておきたいと考えて、『交流の家運動50年史』を編纂しました。2014年に、最初の10年間の記録をまとめたものを発行しました。
「交流の家」は2004年にNPO法人となった。理事長は、FIWCのOBであり、社会人になってからも「家」の運営管理に尽力してきた湯浅さんが務めている。湯浅さんにとっての「交流の家」とは何なのか。最後にそのことを聞いてみた。
鶴見さんはよく「極端に言うと、たった一人でもこの家をつくることで救済されるなら、それで成功なんだよ。この建設運動は閉ざされた療養所の人たちとのあいだに道をつけたことに大きな意味があると思う」とも言ってました。ひとりの力でできることは限られているし、理不尽なこと、矛盾していることは絶対になくならない。でもそのことを自覚していくことで、何かが新しく生まれていくんですよね。「解決できる」なんて思ったら、運動は硬直化してしまう。だから「ワークキャンプ」は全面的解決なんて目指さなかった。
――ぼく自身のことをいえば、誰かのために何かができたということよりも、たくさんのことを人から教えてもらってきたという感じがします。鶴見さんや鈴木重雄さんや日聖さん、回復者の皆さんやたくさんのキャンパーたち。あれだけの人たちといっしょに活動することができた。すごい体験をさせてもらったなと思います。仕事は人並みで出世もできなかったけど、でもビリじゃなければいいでしょ(笑)。いや、こんな体験ができたんだから、ビリでもいいじゃないですか。人生、序列や優劣ばかりじゃないよ。
取材・編集:太田香保 / 写真:長津孝輔