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【People+】神山復生病院のあゆみ 復生記念館の展示を通してみる

かつて「天国」と呼ばれた療養所があった。
患者も職員も村人も自由に往来できる生活圏を形成し、死後永眠する墓地においても地域の人びとと共存する。
それは、日本カトリックの父として知られる岩下壮一が、看護婦の最高名誉ナイチンゲール記章を受賞した井深八重が、
命を尽くした神山復生病院である。神山復生病院には「負」も「闇」も見当たらない。
なぜ、これほどに稀有な場所と関係を生み出すことができたのか?
カトリック信仰をもとに築かれた独特の復生スピリットとは?
リニューアルオープンしたばかりの復生記念館を訪ねて、その秘密に迫った。

「復生」に込めた願い
創建時(明治30年)の姿に復元された記念館

  • 創建時(1897年)の姿に復元され、リニューアルオープンした記念館。壁面のグリーンカラーも当初の色を調査し再現した。

  • 晴れた日は富士山を眺めることができる。

  • 「展示室1:復生の暮らし」にて、建築模型を前に復生病院の歴史や建築について解説する学芸員の森下裕子さん。

神山復生病院(こうやまふくせいびょういん)は、富士山東麓の高原地・御殿場市内に位置する。御殿場は高速道路が幾重にも重なる交通の要所であり、市外からは御殿場プレミアム・アウトレットや御殿場高原ビールを求めて観光客が大挙して押しよせる。自衛隊の駐屯地や米軍キャンプなど多数の防衛施設を抱えていることもこの市の一つの特徴である。

神山は、富士の裾野が駿河湾に向かって広がるあたりのエリア。旧国道246号線を御殿場から三島方面へ8キロほど下ると、左手に黄瀬川(きせがわ)が見えてくる。さらに車を走らせると、こんもりとした森が見える。そばには黄瀬川に架かる「新礼聖橋」という名のコンクリートの頑丈な橋。橋を渡ると、国道の喧騒をよそに別天地のような静けさを保った緑多い敷地が広がっている。この奥に神山復生病院がある。

病院名の「復生」は、キリスト教の教義の一つ、「復活(resurrection)」に由来する。復生病院を創立したテストウィド神父が命名した。患者さんを現世の苦しみから解放して永遠の命へ導きたいという神父の願いが込められている。

蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときに弱いものでも、力強いものに復活するのです。 
(「復活」聖パウロのコリントの信徒への第一の手紙 より)

現世の苦しみによって、永遠の命を得ることができたら苦しみもまた幸せとなるでしょう。そのために病院を建て、そのことを教えたいと思います。彼らの心はその体よりもっと深く病んでいます。
(ジェルマン・レジェ・ テストウィド「オズーフ司教宛の手紙」)

ミントグリーンの外壁がまぶしい洋風建築は、病院創立以来127年の歴史・資料を伝える復生記念館。建造物自体も築120年ほどの歴史建築で、国の登録有形文化財に認められている。2016年11月24日より、創建時の姿に復原されてリニューアルオープンしたばかり。学芸員の森下裕子さんが出迎えてくれた。記念館の復原プロジェクトは名古屋工業大学の麓和善教授とともに森下さんが主導した。調査に1年半、工期は合計で2年半にも及んだ。

正面玄関から入ると、室内はやや縦長にホールが広がっている。ホールの手前側と奥側には間仕切りがついている。展示室は4つの部屋に分かれていて、1897年(明治30年)に司祭館として創建された当初はそれぞれ応接室(展示室1)、寝室(展示室2)、食堂(展示室3)、司祭室(展示室4)として使用されていた。ホールには復原前の建築模型がある。模型では、本館は2階建になっている。創建以来、何度も増改築されており、のちに2階が増築されたのは海外から来たシスターが暮らす部屋をつくるためだった。

――修理前は2階建でしたが、今は創建当初と同じように屋根裏部屋があります。あと、地下もあるんですよ。屋根裏も地下も倉庫として使われていました。戦後は牛や馬が盗まれてしまうことがわりとあったみたいで、夜は地下で飼育していたんだそうです。シスターも「地下がほんと臭かったのよ」なんて言っていましたね(笑)。2階には、当初の小屋組の材料がたくさん残されていました。そのおかげで、忠実に復原することが可能になりました(森下さん談)。

天国に通じる橋、「天国橋」と呼ばれた。復生病院はハンセン病患者にとってまさに天国のような所だった。

「天国橋」と「礼聖橋」
みんな一緒の共同墓地

  • 5代目院長のドルワール・ド・レゼー神父の名に由来する「新礼聖橋(しんれぜいばし)」。

病院の土地に入ってくるための橋は「天国橋」と呼ばれていた。はじめは川幅の一番狭いところを丸太でつないだだけの簡素な橋だった。現在、正式には地図上から天国橋の名はなくなったが、今も通称名としては残っている。天国橋の名は院長や職員が名付けたのではない。患者たちが自然とそう呼ぶようになった。患者たちにとって復生病院はまさに「天国」に通じる橋だったのである。

患者さんが、国立から国立の療養所に移るのは難しかった。一方、私立から国立に移るのはとても容易だった。そのため、国立に移る足がかりとして復生病院に入所した患者さんも少なくない。たとえば、現入所者の一人の藤原登喜夫さんは、長島愛生園から多摩全生園に移るために復生病院にやって来た。ところが、自由な復生スピリットに惹かれて、全生園に移ることなく、そのままこの病院で暮らすことになったという(藤原登喜夫さんインタビューはこちら)。

昭和に入ってから「礼聖橋」がつくられた。橋の名前は、5代目院長のドルワール・ド・レゼー神父の名に由来する。昔は、貴族の出身だったレゼー師の呼称「レゼー卿」の「卿」と「橋」を引っ掛けて、「レゼーキョウ」と呼ばれていた。それが修復の際に「レゼーバシ」の呼び名に変わり、現在は御殿場市に譲り「新礼聖橋」(シンレゼーバシ)となっている。

――この模型にはありませんが、病院の近隣には集落がありました。そこの集落の人たちが病院の敷地内を歩いているのは当たり前の光景でした。というのも、そもそも土地を購入するとき、病院の敷地内を地域の人たちは自由に往来してもいいという条件があったんです。ハンセン病療養所というと、隔離政策が思い出されますが、復生病院ではそういうことはありませんでした。患者さんが酒屋でお酒を飲んでいる古い写真も残っています(笑)。敷地内にグラウンドがあったんですが、いま近所に住んでいる60~70代の方たちも「そこで小っちゃい頃、よく遊んだよ」と言っていました。

――病院はかなり広大な土地を所有していたようで、飛地を利用して今の御殿場線沿線まで行くことができたそうです。自給自足のような生活をしていたものですから、すこし離れたところに所有していた土地で農作業をしたり、患者さんが外へ出て行くこともまた当たり前の姿でした。

  • 病院近くの村の共同墓地の一角が復生病院の墓地になっており、地域住民と患者や職員の墓が一箇所に共存する。

苦しみの上に築かれた永遠の生命に入る門である。そして復生病院はその門である。
(岩下壮一 ポストカード「天国門」より)

病院の敷地から500メートルほど離れた村の神山平石共同墓地の一角が復生病院の墓地になっている。かつては富士連峰と箱根連峰に囲まれた風光明媚な場所に位置していた。現在は新興住宅に囲まれているが、晴天時には富士山を眺めることができる。取材時も一瞬の晴れ間に富士を望むことができた。春になると土井晩翠夫人寄贈のしだれ桜が満開になり墓地も華やぐ。

――病院の方針や地域との関係を最も象徴的に示しているが墓地です。そこは地域の共同墓地なんです。地域住民と患者さんが同じ墓地に入っているというのはたいへん珍しいことだと思います。歴代の院長も職員の墓地もみんな一緒です。

明治24年、テストウィド神父は香港で客死したが、死後100年以上が経過した平成10年に現地で遺骨が見つかり、香港から復生病院に帰った。

復生病院の歩み
テストウィド神父からレゼー神父まで

  • 「展示室3:復生の愛と祈り」では、井深八重の遺品として、女学生時代から愛用していた懐中時計や看護婦の最高名誉ナイチンゲール記章が展示されている。

  • 俳句や短歌の掲載誌『黄瀬』の誌名は病院のそばを流れる黄瀬川に由来する(「展示室2:復生の暮らし」)。

「復生病院の歩み」のコーナーでは、病院の創立から現在にいたる年表が展示されている。記念館内ではさらに詳細な年表(「神山復生病院の歩み」)が配布されている。取材時は、創立者のテストウィド神父、第3代院長のベルトラン神父、第5代院長のドルワール・ド・レゼー神父を中心に案内していただいた。第6代院長の岩下壮一神父と井深八重婦長に関しては「展示室3:復生の愛と祈り」にて遺品やゆかりの品とともに特別に取り上げられている。

1873年(明治6年)、テストウィド神父とレゼー神父はともに来日した。テストウィド神父は御殿場の街道筋の水車小屋で女性患者と出会い、病院設立を決意。はじめは市内の鮎沢村に家屋を借用して、5、6名の患者を保護した。鮎沢村は、現在の御殿場インターチェンジ近辺にあった。復生病院から車で15分ほどの距離である。しかし、患者数の増加に伴って近隣住民から退去を求められ、一時解散。その後、土地取得に奔走し、1889年(明治22年)に現在の神山の土地に病院を創設。当時は外国人は土地所有が認められていなかったので、地元の信者や有力者の協力を得て、協力者との連名で土地を購入した。

――テストウィド神父は、「必ず帰ってくるから」と出向いた先の香港で亡くなりました。1891年(明治24年)のことです。当時は香港が宣教の基点でした。驚くべきことに、「必ず帰ってくるから」という約束が、なんと平成に入ってから果たされます。香港で神父のご遺骨が見つかり、カトリック末吉教会の尽力のおかげで病院に戻ってきました。

ベルトラン神父は、文化活動を推進した。着任後すぐに俳句会がつくられた。のちのレゼー神父の時代には短歌会も生まれ、展示室2には、歌集『黄瀬』が展示されている。『黄瀬』の名は黄瀬川にちなむ。ベルトラン神父の時代に、劇団「天国座」の旗揚げや、ハーモニカと紙張り太鼓の「復生バンド」も誕生した。劇団「天国座」は、娯楽の乏しかった当時の村民にとってもかけがえのない存在となった。初公演の演目は「イエズス・キリストの復活」。

――ベルトラン神父は、なんというか、とてもひょうきんな方で、和服を着てキセルを持って撮影した写真ですとか、香港でカンフー衣装のような服を着て撮影した写真も残っています。亡くなるときには、「お墓を患者さんと一緒にしてくれ」と言っていたそうです。ベルトラン神父もあの共同墓地に埋葬されました。遺言の通り、神父のお墓は患者さんのお墓がたくさん集まっているところにあります。

レゼー神父の時代に関東大震災が起こり、建物の全面改修が必要になった。震災発生の同年、井深八重が病院でただ一人の看護婦として就任する。レゼー神父も文化活動に力を入れ、復生バンドは最盛期を迎えた。娯楽館もつくられた。また、畑を潰してコートをつくるほどにテニス熱が広がった。テニスのあとは野球、高齢化とともに野球からゴルフへ。スポーツの人気種目は時代ごとに移り変わる。現在、敷地内にはミニゴルフ場がある。野球のグラウンドがミニゴルフ場に変わった。市内に駐屯地がある陸上自衛隊がボランティアで整備を行った。

――このあたりは、富士山の麓で水には苦労がないと思われるかもしれませんが、実は違うんです。ベルトラン神父もレゼー神父も水問題には大変悩まれました。地面が岩盤に覆われていて、電動の技術が使えるようになる前の昔の技術では井戸を掘ることがとても困難で、わずかな水脈を掘り当てて、風車のポンプを使って水を汲み上げていました。電動の道具が手に入るまでは、目の見えない人が水を汲み上げる作業をしていたと聞いています。

レゼー翁よ、あなたは偉大なる教訓を我等の胸に深く刻んで下さいました。あなたの愛の手の描いた大きな輪郭を我等は徐々に充当してゆこうとして居ります。在天のレゼー翁よ、安らかに御憩い下さい、日本人は決してあなたのご恩を忘れては居りません。あなたの理想はいつかあなたの愛して下さった日本人によって成就するでありましょう。
(岩下壮一『感謝録』「レゼー翁を憶う」より)

「展示室2:復生の暮らし」には在院者の暮らしや娯楽を伝える写真、映写機や蓄音機が展示されている。

芦ノ湖のピクニック写真と、
たった一つの負の遺産

  • 悲喜こもごも思い出の詰まった蓄音機は今なお力強く音を響かせる。

展示室1を出てホール奥の左手にある展示室2へ。テーマは「復生の暮らし」。先述した復生バンドのハーモニカやアコーディオン、映写機や蓄音機など、在院者の暮らしぶりや娯楽を現存物や写真の展示を通して知ることができる。復生病院は、幸運なことに戦災や火事の被害がなかったため、古い記録や物がたくさん残されている。明治時代に書かれた病院設立願いの文書や薬剤の請求明細、ハンセン病治療薬の昔のチラシ、寄付募集の広告……。写真は、ガラス乾板だけでも800枚ほど残っている。しかも、ほとんどすべて保存状態がかなり良好だ。取材時には、まだまだ現役の蓄音機が奏でる懐かしい音色を特別に聞かせてもらった。

――蓄音機はおそらく大正か昭和初期のものです。専用の台に乗せるともっと大きな音が出ます。娯楽館という舞台のある部屋で、音楽を鳴らして踊ったこともあったようです。「君が代」のレコードも残っているので、野球や運動会をするときには「君が代」を鳴らして国歌斉唱をしていたのかもしれませんね。今年(2016年)亡くなった方で、6歳のときにここにやって来た方がいたのですが、「この蓄音機の音楽に夢中になっている間に、お父さんとお母さんが帰ってしまったんだよ」とお話してくださいました。とても歌が上手な方で、賛美歌とかアヴェ・マリアをその人に歌ってほしいと頼む人もたくさんいました。

――芦ノ湖にピクニックに行った写真が展示されています。今は湖に入ることはできないんですが、当時はこうやって泳いでいたんですね。馬に乗ったり、一緒に水浴びもしています。峠の茶屋でお茶をしている写真もあるんですよ。120周年の記念誌をつくるときに実際に茶屋に行ってみようと思ったんですが、その茶屋はなくなっていました。でも、近くの別の茶屋に入ったら、当時の茶屋の写真と同じ構図のものがたくさんありました。そこは記念写真の一つのスポットだったんでしょうね。そういう場所に患者さんも一緒に行けたということがすごいなと思います。純粋な写真ではなくて写真付きのポストカードもあります。詩人のポール・クローデルが写っているものとか、初期にテストウィド神父が水車小屋の近くに借りた民家の写真もありますね。ポストカードは寄付のお礼やお願いにおもに使ったみたいです。

  • 復生病院の院内通貨は目が不自由な在院者でも判別しやすい形にデザインされているのが特徴。

院内通貨も展示されている。患者さんへの給金は院内通貨で支払われていた。院内通貨は院内の売店で使うことができる。一般的には院内通貨は外部から隔離されていることを示す負の遺産の一つだが、復生病院には隔離の壁がない。病院の内外の出入りは基本的には自由である。現金の所持も許されていたし、院内通貨を現金に換金できる仕組みがあった。通貨は目が見えなくなってしまった人のために用いられたのだ。形で値段がいくらかわかるように工夫してある。

――復生病院には負の遺産はほとんどないに等しいんですが、実は一つだけ残っています。こちらに展示してあるのは消毒用のデジケーターです。手紙を消毒するためのものになります。白い板の下にホルマリンの液を入れて、板の上に手紙を置いて、蓋をして一晩置く。そうやって消毒をしないと、郵便屋さんが持って行ってくれなかったそうです。家族に迷惑がかからないように院内名を使う方もいらっしゃったんですが、せっかく院内名を使って手紙を送っても、手紙は薬臭くなってしまう。結局、ご家族から「手紙を送るな」と言われてしまった患者さんもいました。

正門を通ってY字路を右へ行くと病棟、左へ行くと記念館がある。

岩下壮一と井深八重
その精神と偉業

  • 井深八重の墓碑には、『ヨハネによる福音書』12章24節に由来する「一粒の麦」という八重直筆の文字が刻まれている。

展示室3は、ホールを挟んで展示室2の向かい側にある。テーマは「復生の愛と祈り」。6代目院長の岩下神父と初代婦長の井深八重に関する資料が主に展示されている。岩下神父は大正から昭和初期にかけて日本カトリック教会の指導者として活躍した神学者である。1889年(明治22年)東京に生まれ、東京帝大哲学科卒業後、旧制七高(現・鹿児島大学)教授を経て、欧州へ留学。神学を学び、イタリアで司祭となる。1930年(昭和5年)、神山復生病院院長に就任。復生病院初の日本人院長である。カトリック信仰をもとに、家庭的雰囲気のなかで療養に専心できる病院とすることに尽くし、諸施設を拡充。患者たちからは「おやじ」と呼ばれ慕われた。患者さんとともに楽しそうに野球をしたり、運動会のパン食い競争に参加している写真が残っている。著書に『中世哲学思想史』『アウグスチヌス 神の国』『キリストに倣いて』『カトリックの信仰』『岩下壮一全集』など。

――カトリック司祭の仕事のなかで、ハンセン病療養所の司祭は地位が一番低いそうです。もちろん、岩下神父を含めて歴代院長たちはそのことを知りながらここで働くことを決めたわけです。岩下神父のお父さんは財界で活躍されていた方でした。そのお父さんが隣町の裾野市に不二農園を開いて隠居生活を始めて、神父はそこを行き来するなかで、復生病院との関わりを深めていきました。日本人の患者さんたちがずっと外国の方にお世話になっているのは申し訳ないと思い、レゼー神父から引き継いで院長に就任します。

――岩下院長は大きく二つのことを成し遂げました。一つは、5年計画という事業計画を立てて、段階的に医療施設を充実させていきました。下水道を完備したり、治療室をつくったりして、結果的に国立並みの環境が整いました。もう一つは、未感染児童の教育です。未感染児童というのは、両親が療養所に入所したために保護者がいなくなってしまった子どもたちのことなんですが、その子どもたちを引き取って教育する場所をつくりました。もともと岩下神父は、お父さんが経営する不二農園で働いている子どものために設立した温情舎小学校の校長先生でもありました。卒業後はその農園で働けるという自立の道も用意しました。その子どもたちのほとんどが九州から来たお子さんだそうです。それは、自分の親がハンセン病だったことは知らないで育ってほしいという神父の配慮からでした。現在も卒業生が病院の近所に住んでいると聞いています。

静かに逝けり
神山復生病院長
雲は天に帰り
地に充つる哀弔

つめたき手の念珠
気息なき胸の十字架
眼は閉じて開かず
声は聞くに由なきか

並み寄りし癩者
しめやかにまもる通夜
弥撒(ミサ)の齎す慰藉
歎きを消すに足らずや

夜もすがら泣けり
まだわかき看護婦長
裾野に冬の日照り
今朝かなし富士山頂
(九鬼周造「噫岩下壮一君」)

井深八重は1897年(明治30年)台北生まれ。父は政治家の井深彦三郎。祖父の宅右衛門は会津の藩校・日新館の館長、叔父の梶之助は明治学院の2代目学院長。遠戚にはソニーの創業者・井深大もいる。八重は梶之助のもとで育ち、同志社女学校卒業後、長崎高等女学校で英語教師になった。1919年(大正8年)ハンセン病の疑いで復生病院に入院。精密検査で誤診と判明するが、看護婦として60年にわたってハンセン病患者に尽くした。看護婦最高の名誉であるフローレンス・ナイチンゲール記章を受賞。病院の100周年記念式典の前日に亡くなった。享年92歳。

――こちらに展示されている当時の診断書では、「堀清子」という名前になっていますね。ご家族に迷惑がかかるということで診断書には院名を使っていました。「堀清子」は、ドルワール・ド・レゼーが命名しました。英語の「ホーリー holy(=聖なる)」に由来します。患者さんだけではなく、職員も差別の対象になったので、働いていることを伏せていた方もいたそうです。

――八重さんが女学生時代から使っていた懐中時計が展示されています。八重さんは会津の名家の出身で、かなりお嬢様育ちだったみたいです。意外かもしれませんが、病院でも付き添いの看護師さんがいつもそばにいて、たとえば、旅館に行くと「わたしはお布団を敷いたことがないの」とか言って、いろいろと世話してもらっていたとか(笑)。八重さんが厳しかったぶん、付き添いの看護師さんはすごく優しかった。患者さんにもとても人気があったと聞いています。もちろん、八重さんは院を代表する立場にあったので、統率をとるためにも、ある程度の厳しさが必要だったんだと思います。ちなみにNHKの大河ドラマ「八重の桜」が放映されていたときは、「もう一人の八重」と言われて、わりと有名になってとくに会津からのお客様が急に増えました(笑)。八重さんが同志社に進学したのは、明治学院の学院長だった叔父の梶之助が新島八重から鉄砲を教わったことがあって、そういった経緯も関係しているのかもしれません。

今、この時の流れを顧みて、私がこの道をひとすじに進み得たことは、無論院長レゼー翁の偉大な人格とその指導に依るものではあるが、これを受け入れる基盤となったものは、まず何よりも母校の創立者新島先生の息吹のかかるキリスト教的雰囲気の中で学び得たことに依るものと信ずるのである。
(井深八重「同志社大学名誉学位をいただいて」)

遺されたもの、継がれたもの
希望を与える療養所として

  • 記念館のベランダにて、左が学芸員の森下さん、右が復生病院記念館館長の秋本福子修道女。

  • 展示室4にある歴代院長のパネル

展示室3の室内には、壁の漆喰が四角く削り取られ、剥き出しになっている部分がある。そこには模様のようなものが描かれている。1892年(明治25年)に建設された大聖堂の装飾と関係があるようだ。大聖堂は2001年(平成13年)に旧病棟とともに解体され、翌年に現在の聖堂が建設された。最大で130名以上いた在院者数も聖堂が解体・再建された当時は15名に減っていた。

――この壁画は記念館を解体調査する過程で見つけました。この絵はなんだろうと思って調べてみたら、形は若干違いますが、聖堂のアーチの部分の模様と酷似していました。聖堂は解体されてしまったので、写真と見比べて推測するしかないんですが、もしかしたら、ここの壁で試し描きしたのかもしれないですね。

展示室4では、フランス人院長の時代の司祭室が再現されている。机と椅子が置かれ、部屋の隅には暖炉があり、この部屋の天井だけは御殿などに使われた格天井のつくりになっている。歴代院長の写真、神父の祭服や貞明皇后の御遺品の大きな壺(「粟田焼花模様大花瓶」)などが展示されている。

――現在の御殿場線が東海道線だった頃、貞明皇后が沼津の御用邸から東京へお帰りになる際に、日頃のお礼がしたいと沿線に立ち、貞明皇后を奉送しました。この建物を出てすぐ左手に、かえでの森がありまして、そこには奉拝碑もあります。もともとは御殿場線沿線にあったものをこちらに移しました。病院の120周年の翌年には両陛下にもお越しいただきました。美智子皇后のおじいさまとおばあさまのお写真が残っていまして、天皇陛下に皇后さまが「おじいさまとおばあさまです」とお話したようです。120周年の記念誌を美智子皇后と正田家にご献本させていただいたものですから、それをご覧になって来てくださったのかもしれません。

復生病院は、パリ外国宣教会のテストヴィド神父によって開設され、1947年(昭和22年)よりカナダに本部を置くクリスト・ロア宣教修道女会(後の宗教法人カトリック・クリスト・ロア修道会)に引き継がれた。岩下壮一神父の跡を継いで、戦中戦後の最も厳しい時代に病院を守った千葉大樹院長以降、運営母体が移管してからはクリスト・ロア宣教修道女会会員のシスターたちが院長または理事を務めている。

最後に、復生病院記念館館長の秋本福子修道女に話を伺った。いま一番伝えたいこととは何か。

――今年、2名の在院者さんが亡くなって在院者数は残り5名となりました。私たちの目標は、カトリックの理念に沿って最後の一人の在院者さんまできちんと看取ることです。カトリック信仰を中心にして将来に希望をもって、できるだけ楽しく生きていただきたいなと思っています。実際にほとんどの方がカトリックの洗礼を受けて亡くなっています。社会で迫害されたり、家族との絶縁、身体的にも不自由になってしまったり、想像できないほど苦しい思いをしてきた方たちが、ここで希望を取り戻し、日常に深く感謝をしながら生活しています。正直言って、在院者さんと接していると私たちの方が学ぶことが多いんですよね。彼らの生きざまと彼らを支えた宣教師・シスター・職員、そして多くの協力者がいたこと、他の療養所とは異なった形態で歩んできた病院の歴史を多くの方々に復生記念館を通して知っていただきたいです。

参考文献:
・『神山復生病院の一〇〇年』(春秋社)
・『静岡県歴史人物事典』(静岡新聞社出版局)
・重兼芳子『闇をてらす足おと―岩下壮一と神山復生病院物語』(春秋社)
・長島総一郎『日本史のなかのキリスト教』(PHP研究所)
・岩下壮一『カトリックの信仰』(筑摩書房)
「特集:司祭年 - 岩下壮一神父」 
「跡導(みちしるべ) ~静岡の福祉をつくった人々~」
カトリック新聞「設立当時の姿に復元」
同志社女子大学「一粒の麦として」
「一般財団法人神山復生会」

取材・編集:金宗代 写真:長津孝輔