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Topics 2015.10.30
2014年1月からハンセン病制圧大使・笹川陽平氏の活動に同行し、世界各国のハンセン病の現在の状況を取材されている、テレビマンユニオンのディレクター浅野直広さんが、同社会報誌『テレビマンユニオンニュース』にてご自身の体験を寄稿しました。
許可をいただいて、全文掲載いたします。
<テレビマンユニオンニュース August 31 2015 No. 632>
ハンセン病を撮る—————————————————— 浅野 直広
深海に生きる魚族のように、
自らが燃えなければ何処にも光はない。
この言葉と出会ったのは大学生の頃。映画監督の大島渚がサインをする際に、好んで書くことを何かで知ったからだ。「その魚のように生きていこうと思ったときから私は死からのがれ、ともかくも生きてある自分を肯定することができた。それは戦争が終わった混濁した日本の中で生きていく私のよすがであった」(注1)敗戦直後、早熟な中学生だった大島はこの言葉に衝撃を受け、生涯に渡り座右の銘とした。
この箴言を残したのは、ハンセン病者の歌人、明石海人。病のため視力も声も失うなか、明石は魂の奥底から叫ぶような短歌を数多く詠んだ。
ハンセン病とは、かつて「らい」や「レプラ」と呼ばれた感染症のこと。古代からある病気(一説には人類誕生と同時とも)だが、治療する術が長い間なかったため、不治の病と誤解されてきた。見た目に残る後遺障害を引き起こすことも多く、患者たちは世界中どこでも怖れられ、差別されてきた。またその差別は患者本人に留まらず、家族にまで向けられた。ハンセン病者の悲劇は、『砂の器』や『ベン・ハー』などでご存知の方も多いだろう。
明石海人も26歳で発病した後は、死ぬまで瀬戸内の離島で過ごしている。妻子を守るために家を棄て、故郷を棄て、本名を棄て、療養所に移り住んだのだ。冒頭の言葉は、社会とのつながりを絶たれ、一切の自由を奪われた隔離施設での暮らしのなか、それでも希望を失わんとする明石の生への決意を詠ったものである。
この言葉と再会したのは、今から15年ほど前のこと。働き始めて4年が過ぎた頃だ。初めて決まった自分の企画、ある一人のハンセン病者を一年間取材する、という番組を撮っていた時だった。(注2)
そして今、またこの言葉を噛みしめながら取材を続けている。昨年1月からずっと、ハンセン病の現場を撮影しているからだ。この間、何百人もの「明石海人」と出会った。
◇ ◇
本題に入ろう。
実はこの原稿依頼、DRコンゴ赤道直下の街、ムバンダカにいるときに時に受けた。依頼されたテーマは「世界を考える」。この一年半、世界について「考えている」かどうかは別にして、世界に「いる」ことだけは間違いない。このプロジェクトの撮影を始めてから、年の三分の一以上が海外生活となっているのだ。この原稿も、大湿地帯パンタナールで知られるブラジル内陸部マットグロッソ州のホテルで書いている。
なぜこれだけ多くの海外取材をしているのか。それは今、日本財団の会長である笹川陽平さんに同行し、世界からハンセン病を無くそうという活動を記録しているから。これが非常におもしろい。
まず笹川陽平さんという人がおもしろい。笹川さんは知名度の割に、素顔がほとんど知られていない人物だ。というよりも「笹川」という名が日本のマスコミ界からある種タブー視され、ほとんど無視と言ってもよい扱いを受けている。おそらくそれは父親である笹川良一氏のイメージのせいだろう。かく言う僕自身も取材を始めた頃は、そんな目で彼を見ていた。「A級戦犯容疑者の息子」「日本の黒幕」などと。そして「ハンセン病を無くしたい」と言っても、所詮は偽善で売名行為に過ぎないのではないかと。
ところが笹川さんに同行して取材を進めるうち、自分が間違いだったとすぐに気づかせられた。ハンセン病対策を始めとする社会貢献活動のため、笹川さんは年のおよそ三分の一を海外で過ごしている。向かう先は都市部から車で4〜5時間かかる僻地ばかり。要人に会うためだけに0泊3日で海外に出掛けることもしばしばだ。76歳の後期高齢者がすることではない。遥かに若い僕ですら、正直言って身体がきつい。それを誰に頼まれた訳でもないのに、40年間続けている。(注3)伊達や酔狂でできる仕事ではない。
そしてさらに驚かされたのが、海外における「笹川」という名に対する評価だ。日本とは180度異なると言っても過言ではない。ハンセン病対策活動の「父」として、公衆衛生の分野では抜群の知名度を誇り、世界中から感謝と尊敬の念を持って迎え入れられている。実際、WHO(世界保健機関)で「笹川」という名を知らない者はいないほど。取材者たるもの色眼鏡をかけてヒトを見てはいけない。反省してます。
そしてハンセン病という病気もまた興味深い。ハンセン病は「らい菌」を原因とする感染症なのだが、とても感染力は弱く、患者と少々接触したところで移ることはない。しかもほとんどの人に自然免疫があるため、そもそもが移らない。万が一発症しても、薬を飲むだけで簡単に完治する。(注4)
ただ感染ルートはいまだ解明されず、ワクチンも開発されていない。つまり完全な予防ができないのだ。つい先日も、アメリカのフロリダ州で9名の人が発症したというニュースが世界を駆け巡った。(注5)
また病状が進むと末梢神経が麻痺し始める。さらに放っておくと、顔や手足など身体の一部の感覚が無くなる。例えば手の指先にその症状が出ると、そこを火傷しても刃物で切っても、熱くも痛くもない。痛みの伴う病気は数多あれど、痛みが無くなる病気はハンセン病以外ないのではないか。その「痛くなくなる」理由も解明されていない。
そして神経の麻痺にともない、身体の変形という見た目に残る後遺障害を引き起こすこともある。多くの人が「ハンセン病」と聞いて抱くであろうイメージは、この後遺障害からきている。(繰り返しになるが、現在は早期発見して薬をきちんと飲めば、後遺障害無しに完治する)
ハンセン病は病理学的にとても不思議な、謎に満ちた病気なのだ。
◇ ◇
患部のあるらい病人は、自分の衣服を引き裂き、その髪の毛を乱し、その口ひげをおおって、「汚れている、汚れている」と叫ばなければならない。
その患部が彼にある間中、彼は汚れている。
彼は汚れているので、ひとりで住み、その住まいは宿営の外でなければならない。
(旧約聖書:レビ記13章45—46節)
ハンセン病最大の特徴、そして問題は、人類史上もっとも忌み嫌われた病気であるということだ。見た目に残る後遺障害のため、旧約聖書の時代から患者は怖れられ、社会から排除されてきた。その差別は時代も国家も民族も宗教も文化も関係なく、等しく患者につきまとった。
例えば中世ヨーロッパでは、ハンセン病に罹った者に対して「死のミサ」と
呼ばれる仮想葬儀が行われ、患者は「生きながらにして死んだ者」として残りの人生を送らねばならなかった。
20世紀に入っても、患者の多くは絶海の孤島や人里離れた山間の隔離施設に閉じ込められ、その中で一生を過ごすことを余儀なくされた。
実はハンセン病が治る病気となったのは1940年代のこと。それまでは不治の病と考えられていたため、「業病」「神罰」「祟り」といった偏見が生まれたのだ。また「遺伝病」と誤解されることも多く、患者本人のみならず家族までもがコミュニティから疎外され、差別された。
簡単に治る病気となった現代でも、偏見と誤解はなかなか解けず、一般社会で生きられない患者がまだまだ存在する。完治後も差別が続くため、「回復者」という言葉があるほどだ。(注6)
一つの病気に過ぎないのに、これほどの社会問題を何世紀にも渡って抱え続ける病気は、ハンセン病以外にないだろう。そしてこれが現在進行形の問題であることを、世界の現場を取材して何度も突きつけられた。
その体験の幾つかを記していきたい。
◇ ◇
2014年1月、インドネシアの東端に位置するパプア州を訪れた。その離れ小島、ビアク島の取材だ。ハンセン病蔓延地域のひとつであるこの地では、今でもハンセン病のことを呪いや祟りと考える人が少なくない。現地保健省による啓蒙活動によって正しい知識を持つ人は増えたものの、病気に罹ったことを隠す人は今も多い。その島に、コミュニティから追放されて独り暮らす人がいると聞き、笹川さんが視察に訪れたのだ。
親類縁者だけが寄り住む、海辺の小さな集落。そのいちばん外れに、掘立て小屋が建っていた。中は粗末な寝床以外に何も無い。壁には穴が空き、マラリヤを媒介する蚊がぶんぶん飛び回っている。その人はそこでひっそりと暮らしていた。
かつては腕利きの漁師としてならしたアビア・ルンビアックさん(46)。15歳の時にハンセン病に罹った、いわゆる回復者だ。病気そのものは完治したものの、片足の神経が麻痺し感覚を失ってしまう。漁をしていて足を切ったことに気づかず放っておいたところ、バイ菌が入り感染症を患ったという。その足を見せてもらうと、指先は無くなり、幾つもの瘤ができて紫色に膨れ上がっている状態だった。
症状が見た目に酷くなってから、自ら家族の元を離れ、掘立て小屋に閉じ籠るようになったルンビアックさん。彼の生命を維持しているのは、朝夕に義姉が届けてくれるわずかな食事だけ。その食事も毎日届けてくれる訳ではなく、空腹のまま眠る日もあるという。今は誰とも話さず、小屋の中で膝を抱えて座るだけの日々。まさに「孤絶」としか言いようのない暮らしぶりだ。
この人の表情を初めて見た時、戦慄が走った。諦念や絶望という言葉では生ぬるい、人間が持ちうる極北の表情が顔に張り付いていたからだ。自分は何故生きているのか。何のために生かされているのか。果てのない自問自答を繰り返したからなのだろう、寂しげな、しかしこれ以上ない優しい笑顔を垣間見せながら話をしてくれた。
病気が酷くなって、家族も友人も私を避け、意地悪をするようになった。
家から逃げるしかなくなった。こんな体になった自分が恥ずかしい。
神様に助けてほしい…
ただ病気になったというだけで、どうしてこんな生活を強いられなければならないのか。深い悲しみを宿した彼の眼差しを、これから先も忘れることはないだろう。
◇ ◇
世界で最もハンセン病者が多い国インド。新規患者は年間約13万人、回復者の数は1200万人を超す。その世界一のハンセン病大国インドでも、忘れられない人と出会った。
廃止されたとはいえ、この国にはカースト制度が色濃く残っている。新聞の求人欄ひとつとっても、一般枠とは別に下位カースト枠が設けられている。(注7)カーストのバランスを守らない結婚、特に女性が上位である結婚は絶対に許されない。カースト制度はヒンドゥー教的身分序列と職能が結びついた社会秩序として今も機能している。
そのインド社会で、ハンセン病者はカーストの外に置かれる。つまり「人間ではない穢れた存在(=アウトカースト、不可触民)」とみなされているのだ。ハンセン病が完治しても働く場を持つことはできず、ほとんどの人が物乞いとして生きていかなければならない。回復者だけが住む「コロニー」と呼ばれる場所で、身を寄せ合って暮らしているのが現実だ。
この現実を変えようと回復者自身で立ち上がり、組織された団体がある。APAL(インド・ハンセン病回復者協会)だ。そのマディヤ・プラデーシュ州リーダー、サラン・ガイダニさん(42)。おしゃべりなインド人が多いなか、サランさん(注8)は常に物静か。そして表情が硬いというか暗いため、インド人らしからぬ? とても繊細な印象を与える。両手指と両足に後遺障害があり、松葉杖が手放せない。にもかかわらず、回復者の状況改善のためインドで2番目に広いMP州のコロニー間を忙しく歩き回っている。
サランさんの住むコロニーでは、約7割の人が物乞いをしている。(一家に一人が物乞いだ)州政府から支給される障害者年金は150ルピー(約290円)で、とても生活ができる額ではない。そのため月に2500ルピー(約4800円)は稼げる物乞いに手を染めてしまう。
こうした状況のなか、サランさんは仲間たちに物乞いをやめるよう説得を続けている。とはいえコロニーの外に回復者を雇ってくれるところはほとんど無い。定職を持っているのは、コロニーの中で住人向けの小さな商店を営む者くらい。日本財団の姉妹団体、SILF(笹川インドハンセン病財団)から資金を借りてサリーショップを始めた者もいるが、経営状態は芳しくない。それでもサランさんは主張する。「手足に障害を持ち、教育のない回復者にできる仕事は少ない。でも物乞いは人としての尊厳を損なう。だから回復者は物乞いをやめて、働く努力をしなくてはならない」と。
仲間たちの要望を聞くため日々忙しくMP州内を移動するサランさん。その移動費も通信費も自腹で賄っている。ハンセン病に罹る前、彼の夢は弁護士になることだったという。それが叶うことはなかったが、形を変えて人の役に立つ仕事ができて嬉しいと語ってくれた。
そのサランさんが私たちにある"秘密"を明かしたのは、取材最終日だった。
朝まだき、サランさんは妙な変装をして家から出てきた。いつにも増して、その表情は硬い。訊くとムスリムの格好で、これからイスラム寺院に行くとのこと。
実はサランさんも物乞いをしていたのだ。コロニーの住人たちと同じく定職を持てないサランさんに、APALの活動費を稼ぐための選択肢は他に無かった。
物乞いは「人間の尊厳」を損なうと訴え、仲間たちに物乞いをやめさせるための活動を続けるサランさん。それには彼自身が物乞いをしなければならないという大いなる矛盾。この国の回復者が置かれた現実を、サランさんは身を持って私たちに示してくれた。
さて、このプロジェクトでは常に2班体制で撮影に臨んでいる。笹川さんの視察先、その国々の背景にある問題が大きすぎて、とても1カメでは撮り切れないからだ。
その取材現場で、いつも僕の右腕として獅子奮迅の活躍をしてくれる石井永二ディレクター。彼にも忘れられない出会いが何度となくあったという。
〈まず思い出すのが、ネパールの山奥に住む回復者のラクシュミさんのこと。一昨年、彼女は長年連れ添った回復者のご主人を亡くしました。ネパールでは人が亡くなると火葬をし、その灰を川に流すことで天国に送ります。しかしご主人は火葬されず、鉄の棺に入れられ埋められました。焼くとハンセン病の病原菌が飛び散ると言われたのです。
「ハンセン病に罹ると、天国へ行くことができません」と、ラクシュミさんは静かに話してくれました。
ポルトガルの療養所で暮らす回復者のアベルさんのことも忘れられません。
かつてポルトガルでは、患者から産まれた子どもはハンセン病に感染しないよう生後すぐに親元から引き離され、強制的に託児所へ送られました。そして母子が会えるのは、ガラスの壁で仕切られた面会所だけだったそうです。
「あんなルールを作った人は、人間じゃない!」と憤ったアベルさん。ガラス越しに母親からキスをされても、母の顔を知らない子どもは、それが誰だかわからなかったのです〉
◇ ◇
いま原稿を書いているこの地でも、衝撃の場面があった。
ハンセン病が現在進行形の問題だと最も実感させられるのはブラジルだ。笹川さんが視察に訪れたマットグロッソ州は世界有数の蔓延地。人口約320万に対し、新規患者数は3019人。(2014年度)治療中の患者は4000人を超すという。
現在WHOは、近い将来にハンセン病を「制圧」するという目標を掲げている。「制圧」とは、人口1万あたりにつき患者数を1人未満に抑えること。1980年代には120を超す国が制圧を達成していなかったが、1995年以降、全世界で薬が無料配布されるようになったおかげで(注9)、ブラジル以外の国は制圧を果たした。唯一の未制圧国となったブラジルは今年度中の制圧達成を国家目標としているが、そのためには感染源となっている「隠れた患者」の発見が急務となる。(新規患者数のデータが一時的に上がるため、こうした活動を嫌う向きもある)
今回視察する農村は、州保健局にあがってきたデータによると患者数はつい最近までゼロ。しかし隣村は人口15000に対し、今年だけで新規患者が220人も発見されている。WHOの制圧基準を遥かに上回る、超のつく蔓延地。隣村の状況を考えると、この村の患者数がゼロとは考えにくい。そこで州保健局の担当者がチェックに入ったのだ。
数件の家庭訪問を行い、村人たちの診察をしたところ、ほとんどの人にハンセン病の疑いが見られた。世界中の厳しい状況を視察してきた笹川さんが「信じられない」と呟くほどの惨状。次から次へと「隠れた患者」が発見される光景を目の当たりにして、ショックを隠し切れない様子だった。
その村は小作農の多い貧困地域で、不衛生で栄養状態の良くない人が多く住んでいる。そのため住民の免疫力が押し並べて低い。また交通費を払えず、薬を取りに行くのを止めてしまう人も少なくない。そのため完治せず、病気に罹ったままの状態となってしまう。さらに広報や教育が行き届いておらず、ハンセン病という病気のことをそもそも知らない。結果、後遺障害が出るまで(痛みが無いため)放ったらかしにしてしまう。そしてそれが差別へと繋がっていく…ハンセン病の問題を集約したような土地だった。
そして患者数がゼロだった理由は、寒村での勤務を嫌う医師や看護師が多く、なかなか診療所に定着しないため。医療スタッフがころころ変わり、誰も責任感をもって仕事をしていないことが原因だった。
今回の取材時、ハンセン病に罹っていることを知った女の子が泣き出す瞬間があった。絞り出すような声で「怖い…」と呟くのを見た時、ハンセン病が今も世界では大きな問題なんだとアタマではなくカラダで実感した。世界に出て自分の目で現場を見ない限り、この皮膚感覚は持ち得なかっただろう。
◇ ◇
「見てしまった責任」という言葉をスタッフに話したことがある。水俣病の現場から生涯離れず、数多くの劇症患者の治療にあたった医師・原田正純さん(注10)の言葉だ。
水俣病の患者たちは身体的な痛みだけでなく、村八分に等しい社会からの疎外を受け、生活も困窮に喘いでいた。そして患者のみならず家族までもが周りの目を気にして、息をひそめるように暮らさなければならない状況だった。もちろん彼らに非がある訳ではない。
そんな悲惨な現実を見た原田さんは、医師としてどのように生きるべきかを考え悩み、水俣病を一生の仕事としようと決意した。その意志を固めた時の心境を「見てしまった責任」という言葉で表現したのだ。
この水俣病の状況とハンセン病の現実は、ほぼ重なる。ハンセン病問題は対岸の火事ではない。今後も似たような問題が起こりうることを考えると、決して他人事ではないのだ。だからこのプロジェクトと関わった以上、自分たちと地続きの問題としてハンセン病の現場を見つめ、自分たちなりに「見てしまった責任」を果たしていこうと考えたのだ。
ADの松山紀惠は、ほぼ新人の状態でこのプロジェクトに参加した。少し前までは初々しい女子大生だった彼女も、今では立派に現場を取り仕切るスタッフの要。そんな彼女に、ハンセン病者との出会いと意識の変化について書いてもらった。
〈恐い、どうしよう…一昨年の冬、初めてハンセン病の患者・回復者を見た時の正直な感想です。ハンセン病がどういう病気か理解していたものの、実際に目の当りにすると、私の体は彼らに近づくことを躊躇しました。後遺障害で手足を失い、体にできた潰瘍から血や体液を流す人たち…無表情で、全てを諦めたような目をしている彼らに、私は恐怖心と嫌悪感を覚えました。
あれから約一年半、私は浅野さんに同行し、何百人もの患者・回復者に出会ってきました。彼らと語り合うことで、私は彼らを「ハンセン病の患者・回復者」という先入観なく「一人ひとりの人間」として向き合うようになりました。徐々に彼らも警戒心を解き、本心を打ち明けてくれました。ハンセン病に罹ったことで、村八分にされた人、家族から捨てられた人、人間扱いされない人…皆、想像を絶する壮絶な人生を歩んできています。
ハンセン病の患者・回復者と触れ合う中で、私は自分の中にある"差別心"と向き合う大切さを学びました。自分はかつてハンセン病の患者・回復者を見て、なぜ負の感情を抱いたのか。自問自答を繰り返すことで、彼らが受けてきた差別を考え、彼らの気持ちに寄りそうことができました。
自分の中にある醜い心と真摯に向き合い続けるのは、決して楽なことではありません。しかしそこから目を逸らさず、「なぜ人は人を差別するのか」「なぜ人を差別してはいけないのか」の答えを突き詰めることが、ハンセン病のみならず全ての差別問題とその将来を考える上で重要だと信じています。
今もなお、私はハンセン病の患者・回復者に会う度に、彼らの言葉にヒントをもらいながら、自分なりの答えを模索しています〉
◇ ◇
ハンセン病とわかった途端、家族が自分の食器に触らなくなった。
近所の川に飛び込み、自殺を試みた。
(インドの回復者)
物乞いを初めてした日、妻と二人で泣いた。
プライドを、自分を捨てた。心が痛かった。
(インドの回復者)
病気のことが妻にバレてから、全くしゃべってくれなくなった。
何を話しかけても、リアクションがない。
(モロッコの回復者)
共産党時代ずっと、この療養所は地図から消されていた。
社会から「いない」とされて、悲しかった。
(ルーマニアの回復者)
今のクリオン(隔離島)は一般の人も住むようになったから、
私たちは控えめに生活しないといけない。
病気でない人は威張ってますから。
どうしてもそういう世界ですから。
(フィリピンの回復者)
昔の話なんて覚えてもいないし、思い出し
たくもない。全部忘れたい。
(ポルトガルの回復者)
取材で出会った人たちから、彼らの個人史を丁寧に聞いている。一人につき2時間から3時間。長い人は4時間を超すこともある。
そのどれもが壮絶な人生だ。
ハンセン病者は世界中どこでも等しく少数派だ。それも圧倒的に。社会から徹底的に排除されてきた彼らは自分たちの「声」を持つことが許されず、世界の暗闇に置き去りにされてきた。
そんな彼らの「声なき声」を記録し残すことは、歴史的な価値があるはずだ。薬の普及とともに患者の早期発見、早期治療が進み、ハンセン病をめぐる状況も時々刻々と変化している。現在撮影しているものは、5年後10年後には撮れなくなるものばかりだ。(笹川さんは今回のプロジェクトが50年後には「世界遺産」になると語っている)
彼らの話を聞くと、きっと誰もが社会の無理解に怒り、病者の置かれた厳しい状況に涙することもあるだろう。
しかし、だから僕がこの病気に関心を抱いている訳ではない。むしろ彼らと会って話をすることが、単純に楽しい時も多い。極限の状況を生き抜いてきた彼らならではの、強さ優しさ、そしてズルさが、とても人間的だからだ。
このプロジェクトの取材ディレクター奥田円は、世界中どこでも誰とでもすぐに打ち解けあい、仲良くなる不思議な才能の持ち主だ。その彼女が抱いたハンセン病者の印象を紹介したい。
〈インド、ブラジル、日本…それぞれの国で会った患者・回復者の多くは、目をそらさない。過去の辛い話をしている時でも、まっすぐこちらを見つめて話す。失明し、真っ白になった目をこちらに向けて話し続けるおじいちゃんもいた。まるで「これを聞いてあなたはどうなの?」と問われているように感じる。
ハンセン病は、手足などに後遺障害が残る可能性のある病気で、現に多くの人々が重い障害に苦しんでいる。病気だけでなく差別などの問題も根深い。映像をどのように見るべきか戸惑う人もいると思う。ただ、現場で出会う人たちは病気によって貶められ、環境によって社会的弱者になっているだけで、個人的には決して弱くないし、とても魅力的だったりする。時にはズルかったりもするくらいだ。
映像を見る人が、彼らの"目"に何を見るのか、とても興味があります〉
◇ ◇
インドへ向かう機内で、映画『ハンナ・アーレント』を観た。ホロコーストの中心人物、ナチス・ドイツのアドルフ・アイヒマンの裁判記録を著したユダヤ人哲学者の伝記映画だ。
裁判を通して、アイヒマンは自分のしたことが虐殺行為とは知っていたものの、命じられた任務を遂行しただけと主張する。その様子を傍聴したアーレントは、アイヒマンが極悪人ではなく、ただの小心者であることを看破。ごく普通の凡庸な人間に過ぎないと評し、彼の罪は自らが犯した行為の意味を「考えなかった」ことにあると結論づけた。そしてその罪を「凡庸な悪」と定義し、国際社会に大きな驚きを与えた。(注11)
この映画を観終わって、ハンセン病の療養所を取材し始めた頃、自分の中に贖罪意識のようなものがあったことを思い出した。2001年に起こった「らい予防法」違憲国家賠償訴訟のニュース(注12)が大きく報道されるなか、何かに突き動かされるように企画書を書いたのはそんな理由からだ。問題があると知りながらも、それまでハンセン病に苦しむ人々のことを「考えなかった」ことに対して恥ずかしく思ったのだろう。社会の無理解とは、つまるところ自分自身の無理解と無関心。格好つけているようで恥ずかしいが、自分も「凡庸な悪」の一翼を担っていたと考えたのだ。
ただ療養所に通ううちに、その意識は次第に薄れていく。当初の問題意識とは全く別の、しかも強大な磁力がそこにはあり、それに惹かれる自分がいることに気づいたのだ。
そこに住む人たちが、ハンセン病問題という枠を超えて、一人ひとりの人間として「魅力的」だったのだ。
人に「ハンセン病の現場を撮っている」と口にすると、だいたい似たような態度をとられる。「社会的に意味のある、良い仕事ですね」という感じだ。その通りだと思う反面、違和感を覚えることも否めない。何かが引っかかる。問題意識だけで、このプロジェクトを動かしている訳ではないからだ。
ハンセン病を撮る。
それは実に魅力的なことなのだ。
◇ ◇
世界の現場で出会ったハンセン病者は皆、本当に良い顔をしている。ハンセン病という病気に罹ったことによって、「生きるとは」「自分とは」「人間とは」といった根源的な問いを否応なく突きつけられるからだろう。彼らの表情からは、前向き、明るさなどといった言葉では決して辿り着けない、人間そのものの持つ強さ、深さが感じられる。
ハンセン病を撮ることとは、人間そのものを見つめ、人間そのものについて考え、人間そのものを撮ることに他ならない。
私たち撮る側にも「人はなぜ人を差別するのか」「自分の内にある差別心とどう向き合うのか」など、「自分とは」「人間とは」という問いを常に突きつけてくるハンセン病の取材現場。ドキュメンタリーを撮ることの面白さと難しさが高次で両立するこの現場に、明日もまた足を運ぼう。
最後に。
この文章を読んで、少しでもハンセン病に興味を抱いた人は、ぜひ「ハンセン病制圧活動サイトLeprosy.jp」を覗いてください。笹川さんの活動に同行取材した記録映像(各国別・約30分)を公開しています。
時間の無い方は、ハンセン病の歴史と現状、そして日本財団の活動を10分にまとめた『Leprosy in Our Time』だけでも構いません。さらに時間の無い方は、各国1分にまとめた予告篇だけでも構いません。
どうぞご覧ください。
注1 大島渚のエッセイ「私の明石海人」(沼津商業高校百周年史)より
注2 『終の棲家を求めて…〜ハンセン病元患者・平沢保治・75歳〜』
BSフジ 2002年5月放送 P&D 浅野直広
注3 2001年になって、ようやくWHOが笹川さんをハンセン病制圧大使に任命した
注4 MDT(多剤併用療法)と呼ばれるダプソン、リファンピシン、クロファジミンの3種類の薬を組み合わせたもの
注5 CNN 2015年7月22日付
「米フロリダ州でハンセン病の感染者が急増 野生のアルマジロが原因とみられる」
ちなみにアルマジロがハンセン病を媒介することはわかっているが、詳しいことは解
明されていない
注6 ハンセン病が完治した人。完治後も差別や偏見に苦しむ人が多いためこう呼ばれる
注7 下位(指定)カーストには優先的に雇用機会が与えられるため高等教育進学にも同様の優遇制度がある
注8 インドではファミリーネームで所属カーストがわかるため、ファーストネームで呼ぶことが一般的本文はその慣例に従う
注9 ハンセン病制圧を推進するため、日本財団は1995年から99年までの5年間に渡り、MDTを世界中に無料で配布した2000年以降はノバルティス財団が無償配布を続けている
注10 水俣病医療の第一人者。徹底して患者の立場から発言したことで知られる
注11 1963年2〜3月、雑誌「ニューヨーカー」連載の裁判レポート
『イェルサレムのアイヒマン—悪の陳腐さについての報告』
発表後、アーレントはユダヤ人社会から猛烈な批判を受けた
注12 ハンセン病患者の隔離を認めた「らい予防法」が、日本国憲法に違反するとして提起された国家賠償訴訟2001年5月、熊本地裁で原告全面勝訴の判決が下される政府は控訴の検討をしたが、当時の首相小泉純一郎が控訴を断念し、判決が確定した
「日本財団・ハンセン病制圧活動」
記録映像プロジェクト
総合演出:浅野直広
ディレクター:石井永二・奥田円
撮影:西徹・君野史幸
VE:岩佐治彦・藤枝孝幸・篠原裕弥
AD:松山紀惠・浜田玲
音響効果:細見浩三
EED:米山滋・徳永修久(『Leprosy in Our Time』)
MA:清水伸行
CG:山角篤志(『Leprosy in Our Time』)
プロデューサー:浅野直広・富田朋子
海外プロデューサー:津田環
GP:田中直人
監修:松岡正剛
リポーター・ナレーター:華恵
制作:テレビマンユニオン
■浅野直広プロフィール
1971年 大阪生まれ
1996年 テレビマンユニオン参加
2000年 ETV特集「写真が手話で語りかけてきた…」でデビュー
代表作に
「カルテットという名の青春」
(第49回ギャラクシー賞選奨、第29回ATP賞ドキュメンタリー部門優秀賞)
「小澤征爾さんと音楽で語った日」
(第67回文化庁芸術祭参加作品)
「木村伊兵衛の13万コマ」
「テオ・オン・テオ」
(映画監督テオ・アンゲロプロスのドキュメンタリー映画、国際映画祭参加多数)
「NO MUSIC,NO LIFE.」
(タワーレコードCM)など