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Update 2017.4.5
テレビで観た桂林の景色をこの目で見てみたい。 それがきっかけで参加した中国ハンセン病村交流ツアー。 現地を訪れた小牧さんが衝撃を受けたのは、渓谷の絶景などではなく、医療も生活支援もない状態で 放置された村人たちの姿だった。 あの人たちに何かしてやれることはないのか。 焼け付くような思いから、さまざまな人との出会いが始まっていく。 このとき、小牧さんは72歳だった。
Update 2017.3.31
荒波力 白水社 2016年発行 ハンセン病図書室 に『幾世の底より―評伝・明石海人 』他1冊を追加しました。 http://leprosy.jp/special/books/
Update 2017.3.31
ハーモニカバンド「青い鳥」が長島愛生園で産声をあげたのは、1953(昭和28)年の秋のこと。 発足時のメンバーは13名、このうち11名が全盲または弱視の視力障がい者、また晴眼者も含めてほとんどのメンバーが手や足の不自由を抱えていた。 メンバーのなかで唯一“楽譜がわかる”ためにリーダーとなった近藤宏一氏も同じように重いハンディキャップを背負っていたが、 努力によって培った点字譜に...
Update 2017.3.28
2017年3月26日(日)、国立ハンセン病資料館で、「土塁・堀の考古学調査」の調査報告会が開催されました。 この調査は2016年11月中旬から12月下旬まで実施され、旧全生学園の跡地から幅およそ4メートル、深さ2メートルもの規模の堀の遺構が発掘されました。この堀は、そのすぐ横に築かれた土塁とともに、1909(明治42)年の多磨全生園開設当初(当時は全生病院)の隔離政策を象徴する...
Update 2017.3.21
療養所入所者を対象とした唯一の高等学校として1955(昭和30)年、長島愛生園内に開校した新良田(にいらだ)教室。正式名称は岡山県立邑久高等学校 新良田教室、4年制の定時制高校でした。 新良田教室には全国各地の療養所から若者たちが集まりました。一学年30名、定員120名という小さな高校でしたが、部活動もさかんで、なかでも野球部は非常に強かったとのこと。 ここでは2016年12月...
Update 2017.3.15
かつて「天国」と呼ばれた療養所があった。 患者も職員も村人も自由に往来できる生活圏を形成し、 死後永眠する墓地においても地域の人びとと共存する。 それは、日本カトリックの父として知られる岩下壮一が、 看護婦の最高名誉ナイチンゲール記章を受賞した井深八重が、 命を尽くした神山復生病院である。 神山復生病院には「負」も「闇」も見当たらない。 なぜ、これほどに稀有な場所と関係を生み出...
Update 2017.3.3
「島の外の世界を見たい」一心で長島愛生園から脱走したときから、藤原登喜夫の世界放浪が始まった。 神山復生病院でキリスト教の精神に触れ、国立療養所にはない自由な環境と励ましを追い風に、聖フランシスコ・ザべリオの足跡を負ってアジアと世界を旅した。 バックパックを背負って、ヒッピーのようにインドとネパールを回った。 いまでは数少なくなった神山復生園の入所者の一人である藤原さんの人生の...
Update 2017.2.13
2月10日(金)、キリスト友会(東京都港区三田)で「JIAハンセン病快復村ドキュメンタリー放映会」が開催されました。家-JIA-は2004年に中国で設立されたNPO団体で、以来10年以上にわたり中国の学生たちが主体となりハンセン病隔離村でのワークキャンプ活動などを展開。今回は事務局長を務める顔循芳(イェン・シュンファン)さん、プロジェクトマネージャーを務める邱国献(チュウ・グオ...