ハンセン病制圧活動サイト Global Campaign for Leprosy Elimination

People / ハンセン病に向き合う人びと

浜本しのぶ(国立療養所邑久光明園 入園者)

浜本しのぶさんは、たおやかな関西弁に似合わず、
医者にとめられてもタバコを手離さない反骨精神と、
オーロラを見るために南極に旅行をするほどの冒険心の持ち主。
問わず語りに、幼いころ両親と生き別れになったまま、
姉と二人で愛生園の未感染児童の寮に収容されたという稀有な体験に始まる
恋あり涙ありの波乱万丈な一代記の一端を聞かせてくださいました。

Profile

浜本しのぶ氏
(はまもと しのぶ)

1936(昭和11)年、兵庫県生まれ。父親がハンセン病を患い、8歳のときに姉とともに愛生園の未感染児童の寮に入る。11歳のときにハンセン病を発症。26歳のときに駆け落ちして星塚敬愛園へ。その後、光明園に再入園し現在にいたる。ハンセン病違憲国家賠償訴訟のときは、原告団とともに首相官邸前の座り込みをするなど熱心にかかわり、勝訴を機に語り部として啓発活動にもかかわるようになった。

家の中から母親も父親もいなくなっていた

私の生まれた家は、商売をしておりました。父親がまだ家にいたころ、大きな自転車の荷台に竹籠を積んで仕入れ先に行くときに、竹籠の中に入れられて連れて行かれたのを憶えています。帰りは荷物がいっぱいになるので、前の籠にちょこんと乗せてもらって。そのころはもう家に母親はおらんようになってました。二つ違いの姉と二人、ずっと祖母に面倒をみてもらってました。母親が家におらんでもべつにさびしくもない。それが当たり前やと思うてました。

あるときから父親も家におらんようになりました。私の家には、床の間のある客間があって、子どもたちはそこには入ったらあかん、襖を開けたらあかんと言われてました。ある日の夕方、そこからえらく大きなおっさんが出てきたので、びっくりしてしまいました。姉に聞いたら、それが父親やというんです。物心ついたときには父親がおらんかったので、私は父親の顔もわからんようになってたんです。父親の姿を見たのはそれが最後でした。

のちにわかったことですが、そのころ父親はハンセン病にかかって光明園に入所していたんです。白衣を着た人たちが家にやってきて、祖母と姉と私が外に連れ出されて、頭から消毒されたこともありました。近所の人がみんな見ている前で。それからは、どこの店に行ってもお醤油ひとつ売ってくれやしません。生活にも事欠くようになりました。そんなこともあったので、父親はこっそり光明園を抜け出して、姉と私を愛生園の未感染児童の施設に入れるための相談を祖母とするために家に戻ってきてたらしいんです。父のいた光明園には、未感染児童を受け入れる施設がなかったんですね。

それから間もなくして、姉と二人、県の担当官に連れられて愛生園の未感染児童の寮に入りました。昭和19年ごろのことです。私はまだ8歳で、自分がどうしてそういうところに連れてこられたのかもよくわかりませんでした。でもさびしいという思いはありませんでした。未感染児童の寮には“お母さん”(寮母さん)がいて、年上の“お姉さん”(年長の子ども)もいて、ようかわいがってもらいました。姉は朝早くから掃除やらなにやらぜんぶさせられてましたが、私はまだ幼いので、せいぜいヤギやニワトリを追いかけたりエサをやったりするくらい、やんちゃをして遊んでいました。

じつは、父親は一時的に家に戻るために光明園を無断で逃走してしまったので、そのあとは愛生園のほうに入所したようです。そのまま光明園に戻ったら監禁室行きになりますから。ところが昭和19年に心臓麻痺で亡くなっていました。まだ42歳やったそうです。そのことは、だいぶんたってから不自由者棟のおじいさんから聞かされて知りました。昭和19年といえばまだ戦時中ですから、若い元気な男の人はみんな松の切株を掘り起こす仕事をさせられてたそうです。「松根油」といって、そこから油を採って、軍事物資にしていたそうです。42歳の男盛りが、心臓麻痺で死ぬなんて、どれほどの重労働やったんかなと思いますよね。私は自分の父親のことを、何にも憶えていないし、何も知らないんですが、そうやって、父のことを知る人たちから聞いて、ちょっとだけ知ることができたんです。

好きでなった病気ではないのだから

11歳になったときに、からだに異変がおこりました。共同風呂に入っていたときに、“おいど”(関西弁でお尻のこと)のところに、白いまんまるこいものができているのを、誰かに見つけられて、それがだんだん寮母さんに伝わっていったんです。それから、(園内の)小学校でお裁縫の時間に運針を習わされたんですが、これがどうにもうまくいかない。左手がうまく動かなくて針が進まないんです。それを家庭科の女の先生に見つかって、「しのぶちゃん、どうしたの、縫いにくいのか」と聞かれました。

それからまもなくして、家庭科の先生の付き添いで外来棟の医局に連れて行かれました。そこでお医者さんの診察を受けたんですが、診察が終わるとそのまま、未感染児童の寮ではなく、患者さんのいるエリアの子ども舎のほうに連れて行かれたんです。もちろん私はそんなところに入るのは初めてのことです。夕方になっても姉は来てくれないし、まわりには知らん子どもばっかり、しかも今までよりも大勢いるんです。「なんでこんなところに連れて来られたんやろ」と思いました。それから1週間は、子ども舎の裏手の山のほうに一人で行って泣いていました。

それまで未感染児童の寮では、姉とは部屋はべつべつでしたが、姉が近くにいてくれてるということだけで安心できていたんですね。ところが患者地区に入れられてからは姉と会うこともできない。それまで母親がおらんでも、父親がおらんでも、さびしいと思ったこともなかった。けれども姉と離れ離れにされたことは、やんちゃものの私でしたが、こたえましたね。一生のなかで最初に味わった悲しみでした。

未感染児童の寮には、中学校を卒業するまでしかおられません。姉は卒業後は大阪に出て、美容師の免許をとって働き始めました。姉とはしょっちゅう手紙のやりとりをして仲良くしていましたが、自分の病気のこと、ハンセン病のことについていろいろ知るようになるにつれ、姉のことが気がかりになってきました。いつか姉が結婚しようということにでもなったときに、私の存在が姉に迷惑をかけることになるにちがいない、これは自分から身を引くべきやと思うようになりました。それで姉に、「戸籍から引かせてほしい(除籍させてほしい)」と手紙で頼んだんです。姉はびっくりして「あかん」と言ってきました。そのときはそれで終わりました。

ところが私が20歳、姉が22歳になったときのことです。姉に大阪の公務員とのお見合いの話があったんですが、相手が興信所をつかっていろいろ調べたらしく、だめになってしまったんです。姉は縁談がだめになった理由をなかなか話そうとしませんでした。「うちは手に職をつけてるから、自分で生きていけるんやから、あんたは私のことは心配せんでええ」と言ってくれましたが、私はやっぱり気が済みません。「私がおったら姉はんの禍になるよって、やっぱり戸籍引かせてもらうで」という話をして、また言い争いになりました。

でも、どうしても気になるので、とうとう自分の戸籍謄本を取り寄せてみたんです。そうしたら、父親は死亡となっているけれども、母親は「除籍」となっていました。私はそれまでずっと姉から、母親は死んだと聞かされていたので、びっくりして姉に聞きました。そしたら姉が初めて本当のことを教えてくれました。「お母ちゃんな、お父ちゃんの病気がわかってから、実家のほうにさっさと連れ戻されてしまったのや。それで除籍になっとるのや」というふうに。

それからは母親のことをうらみに思いました。しばらく悶々としました。病気になった父親を見捨てて、幼い子どもたちも捨てて、一人で実家へ帰ってしまったなんて、ひどい薄情な人やと思いました。母親の実家は裕福な金持ちだったそうですので、そういうええとこの娘はたいした人間にはなれんのや、と思ったりもしました。「人間は貧乏たれのほうがええんやなあ」という話を姉とよくしたものです。

そういうこともあって、姉との関係はいっそう深まったように思います。いまもよく「私がいたせいで、本当は口に出して言えんようなつらい思いもしてきたんやろ。ごめんやったで」という話をします。姉は「あんたが謝ることないがな。好きでなった病気と違うんや。気にせんでええ」と言うてくれますよ。

盆踊りの夜の出来事

  • 浜本さんは根っからの愛煙家。医者からはやめるように言われているが、「残り少ない人生、タバコの楽しみだけは奪われたくない」という。

私には、愛生園の中で、20歳になったら結婚をするという約束をした人がいました。自分たちで決めたわけではなく、その方の義理のおばさんと、私の知り合いの人が話し合って、そう決めてしまったんです。でも中学生になったときには、「あの子とあの子はもう決まっているんや」ということが決まり文句のように言われてたので、自分でもそのつもりになっていました。

相手の方は私より一つ上で、妹さんも愛生園に入っていましたので、よく三人で会って話したり遊んだりしていました。ただ、実際に20歳になってみると、お互いまだ所帯を持つというような気にはなれず、そのまま21歳になり、23歳すぎても結婚の話は進みませんでした。

ところが、24歳の夏のことです。愛生園の盆踊り大会の夜に、事件が起こりました。愛生園の盆踊りというのは昔は8月の13、14、15日の3日間あって、15日は朝までみんな踊り明かすんです。盆踊りは男女の出会いの場にもなっていて、日ごろ思い合っている者同士が誘い合ったりする場にもなっていました。その盆踊りの夜に、あろうことか、私の許嫁がよその娘さんに手を付けてしまったのです。

しかも、娘さんの知り合いから「手を引いてくれ」と言われました。何も私が手を引くことはないやろうと思いましたが、あの時代は、男女の関係になるということは、それだけ責任がついてまわる時代でしたから。なかなか納得できませんでしたが、自分がキズもんにならなかっただけでもマシやったかなと思って、別れることにしました。

そのころの愛生園では19歳から25歳までの娘は「乙女寮」というところに入ることになっていました。生粋の娘さんばかり、そこで規則正しい生活を送りながら、行儀作法なんかもうるさく言われたものです。ですから、許嫁がいるといっても、それはそれは清いお付き合いをしていたんですよ。でもそんな事件があってから、私も少しグレてしまいました(笑)。

乙女寮にいるときは、月に一度必ず、不自由者棟の付き添いの仕事がまわってきました。当番になると1週間べったり、朝昼晩の食事も不自由者棟で食べるんです。一つの大部屋に4~6人の患者さんがいる。その面倒をすべて一人で見る。びっくりするほど重症な人たちもいて、最初のころは慣れなくて大変でした。たとえば昔の義足というのは、いまとは違ってブリキで作ったような簡素なもので、夏になるとみんなそれをはずして枕にして寝転がってたりするんです。はじめは足の上に頭を載せてるのかと思ってびっくりしました(笑)。

日曜日には乙女寮の女性たちが、不自由者棟の皆さんの爪切りをしてあげるということもありました。うっかり肉のほうまで切ってしまって、血が出てるのに、向こうも(神経が麻痺しているので)気付かないということもありました。そういう不自由者棟の仕事はちっともいやではなかったです。よく知らないおじさんやおばさんのところに行って、話をしながらお世話してあげるのは楽しかったですよ。

愛生園から鹿児島へ、鹿児島から光明園へ

  • 鹿児島の星塚敬愛園に行った当初、愛生園のように離島にある療養所とは違って、陸続きでどこにでも行けるということがうれしかったと浜本さん。

  • 旧知の間柄である山口和子さん(元笹川記念保健協力財団理事)と、懐かしい話などで盛り上がる

  • 浜本さんは、2002年、ニューヨークで開催されたハンセン病と女性の人権に関する国際会議に出席し、「生まれなかった命」のための献花をした(写真はPamela Parlapiano氏による撮影)

26歳のときに、好きな人ができました。私はそのころ放送部というところにいて、相手の人は電気部、それで知り合って仲良しになりました。その人はもともと鹿児島から来た人でしたが、実のお姉さんを頼ってまた鹿児島に帰ることになったんです。そのときに「結婚しよう」と言われまして、喜んでほいほいとついて行きました。「結婚するから」ということで星塚敬愛園(鹿児島のハンセン病療養所)の寮に住まわせてもらいながら、自治会事務所で仕事もさせてもらって。愛生園には無断でした。友達に頼んであとから荷物だけ送ってもらいました。まあ、若気の至りですねえ(笑)。

ところが鹿児島の生活というのは、何もかも勝手が違う。第一、言葉が違いますでしょう。女のおばさんから「おまえ」と言われて、「なんとまあおそろしいところやろ」と思いました。なんとか自分の所帯をもったものの、食べ物にもなじめん、人間関係にもなじめん。連れ合いは遊び人であんまり働かん人でしたので、生活に余裕もないし、愛生園を無断で出てきてしまったという負い目もあるし、だんだんつらくなってしまいました。いっそ死んでやろうかと思ったこともありました。そうこうしているうちに、旦那がよその女の人と逃げてしまったんです。

そうなると自分も敬愛園を出ていくしかない。所帯を持ったと言っても籍を入れてたわけではないんですが、旦那がお姉さんたちに借財をしていたこともわかりまして、その責任までとらされて。まあ、惚れた弱みというのはこのことや(笑)。ひどい話ですやろ。

それからしばらく姉を頼って大阪で暮らしましたが、そのうちに熱コブがいっぱい出てしまって、外出もできないようになってしまった。そやけど愛生園には二度と帰れない、自分が後ろ足で砂をかけるようにして出ていったところに戻るわけにはいかない、なんとか光明園に入れてもらえないかと人を頼って相談しまして、それ以来、こちらの光明園でお世話になっています。そうしたら、ここへ来てすぐに人から言われました。「あんた、ブラックリストに入ってるんやで」って(笑)。

人の過去のことを、みんなあの手この手でおもしろおかしく花を咲かせて、いろいろ言うてたのでしょう。ちゃんとした結婚をすれば、そういう噂もたたんようになるやろと思って、人から勧められるままに光明園で知り合った人と結婚しました。生粋の大阪っ子で、ぜんぜん私の好みの男性ではありませんでしたが、まあ落ち着くためにはしゃーないかと(笑)。その旦那ももう亡くなりましたけど。

青春もあれば恋もあった

まあ、ほんまに自分の恥をさらすような話ばかりですけど(笑)、それもこれも、この年まで生きてきた人生の栄養かなといまでは思えるようになりました。私たちは「隔離された」というふうに言われますけど、そのなかで青春もあれば恋もあれば、泣いたり笑ったりの人生もあったんです。婚約を破棄されたり、内縁の夫に逃げられたりという経験さえしてきたんです。そういう内面のこと、心のことまでは隔離されていたわけやなかったんやと思います。

そうやって自分が経験したことは、その時点では本当に辛かったし、悲しかった。「死んでやろか」と思ったこともありましたが、それでもいままでなんとか生き延びてきました。いろんな人とかかわりあいながら、人には言えん恥もさらしながら、それでもこれは自分の人生で、人とは比較できない自分の財産なんや、玉手箱なんやと思えるようになりました。

光明園に来てからは、自分の父親のような年齢の人、すっかりからだの弱っている人の面倒を見てあげたりしてきました。「おれのことを死ぬまで見てくれるんやな」と頼まれたことも何度かありました。そういう方のことを、亡くなるまで見送ってきました。自分の親とは何一つ思い出をつくれなかったけれども、人さまにそういうことをしてあげられるのも、自分の親と早くに別れたからかもしれない、だから人さまに尽くすことができるんやと思うたりもします。

生きているかぎり、こうやって人さまとかかわって、人を勇気づけることもできる。道で会えば「元気にしとった?」「最近顔を見なかったけど大丈夫やったか?」と声をかけてあげることもできる。こういうことが、いまの私にはとても大事なことなんですよ。そういうことを続けていけるためにも、健康だけは気をつけやなあかん、そのためには多少の努力もせないかんと、せっせとがんばっていますのや(笑)。

取材・編集:太田香保 / 撮影:長津孝輔 / 協力:山口和子

※Photographs by Pamela Parlapiano who honored the dignity people maintained while experiencing societies ignorance surround HD.
※写真提供 Pamela Parlapianoさんは、ハンセン病を取り巻く社会の無知を生き抜いた人々の尊厳を称える写真をとりつづける写真家です。