ハンセン病制圧活動サイト Global Campaign for Leprosy Eliimination

ハンセン病に向き合う人々

石川 勝夫(松丘保養園 自治会長)

松丘保養園は、おもに北海道と東北の出身者が収容された、
日本最北端のハンセン病療養所です。
冬の豪雪とともに東北ならではの人材不足という厳しい環境のなか、
入所者は長いあいだ相愛互助の精神で療養所の日々を営んできました。
幼少時に病気を発症しながら、完治し、社会復帰したのちに、
体調悪化のために松丘保養園に戻ってきたという石川勝夫さんに、
療養所に暮らす人びとの思いや将来のことについて語っていただきました。

Profile

石川 勝夫氏

1955(昭和30)年、秋田県生まれ。1966(昭和41)年、小学5年生のときにハンセン病の診断を受け松丘保養園入所、進学のためにすぐに多磨全生園に転入。1969(昭和44)年、多磨全生園を退園し、秋田の中学校に転校、1974(昭和49)年に秋田県立秋田工業高校機械科を卒業。その後農業に従事していたが、1993(平成5)年より松丘保養園に再入園。自治会執行役員(厚生部、副会長)を経て、2005(平成17)年より自治会会長を務めている。

日本最北端の療養所―豪雪の地に隔離されて

ここ松丘保養園は日本のハンセン病療養所のなかで、最北端に位置しますね。北国ならで
は、雪国ならではのご苦労もいろいろとおありでしょう。

  • 石川さんにお見せいただいた、松丘保養園の冬景色の写真

冬は厳しいです。いまでも2メートルくらいの積雪があります。隣の寮の建物が見えなくなるくらいですよ。11月ごろから降り始めて3月まで、4月になってもまだ雪が降る日があります。昔は、青森周辺の家はどこでも、冬になると雪が積もって2階の窓から出入りしていたと言われています。そのころに比べると、少なくなってきたと思いますけどね。

こういう場所に療養所につくられたのは、どういう経緯だったのでしょうか。

このへんはもともと荒地だったんです。周りに何もないようなところでした。明治42年の4月に、ここから2キロほど離れた油川地区というところに隔離病棟がつくられたのが始まりです。その年の10月に、この場所に移転したのです。当時は、「第二区道県立北部保養院」という名称でした。北海道と東北六県の連合立でした。入所者もおもに北海道と東北六県の人たちです。国立に移管したのが昭和16年です。

入所者はいま何人くらいですか。

88名です。青森と秋田の出身者が多いですね。北海道出身者もかつては結構いましたが、かなり亡くなられました。いちばん多いころには850名いたとも、950名とも、人によっては1000名以上はいたとも言われています。昔、私の祖母がここに入所していたんですよ。だから小さいころよく面会に来ていました。そのころは2階建ての大きな寮があって、一部屋が15畳ほどあり、昔は30畳ほどある大きな部屋もありましたがそれを半分に区切って使っていました。そのなかに一人あたり1畳半とか2畳くらいしかスペースが取れないくらい、たくさんの人びとが閉じ込められていました。昭和30年代のころだったと思います。その多くの人は、無らい県運動が盛んになったころに、強制収容されて連れてこられたんです。

石川会長ご自身はいつごろ病気になられて、こちらに入所されたんですか。

私は秋田の生まれなんですが、昭和41年、小学校5年生のときに病気が見つかって、大きな病院で見てもらった結果、ハンセン病じゃないかということになりました。ここ松丘保養園に1週間ほど検査入院しまして、やはりこの病気だということになった。そのころにはもう子どもの入所者はほとんどいなくて、ここには学校も何もなかったんです。学校に通うとなると多磨全生園に行くしかないと言われて、すぐに多磨に移りました。だから松丘にいたのは1週間ほどで、多磨で3年くらい過ごしました。

その後、家の事情があって、先生の許可をもらって一度退院して、農業をやっていましたが、体調がどうにも思わしくなく、平成5年から農業をやりながらここでお世話になり、平成9年からはずっとここで暮らすようになっています。ハンセン病そのものはもう治っているんですが、ここでずっと療養しながら暮らしています。

では、多磨で3年過ごしたあと、社会復帰をされていたんですか。

そうです。退所してから秋田の学校にも行きました。多磨では、全生園分教室というところで勉強しましたが、多磨ももう生徒が5、6人しかいなかったんです。だから授業はかなり厳しく集中してやらされました。本校と同時にテストをやると、みんな本校に劣らない成績をとるくらい。退所してから秋田の中学校に転校したときは、700人くらい生徒のいる中学校でしたが、生徒会長にならされましたよ。多磨で勉強を詰め込まれたおかげですね(笑)。

病気になってから、あるいは社会に出てから、病気のことで偏見や差別に合ったという
体験がやはりありましたか。

  • 松丘保養園の正門から、入所者の手で植えられた桜並木を望む

私の場合、幼いころに入所して早くに退所したこともあって、直接的に誰かから差別を受けるといった経験はないんですよ。ご覧のとおり、私は目につくところにあまり障害が残りませんでしたし、ほとんど記憶にありません。ただちょっとだけ口が曲がってしまっているので、転校して中学校に入った時、そのことでバカにされたことはあります。でもそのときもただのガキのケンカだと思って、気にしませんでした。いまも講演会に行くと「石川さん、どこが悪いんだね」と言われてしまいます(笑)。

ただ、昔は青森でも秋田でも、一人ハンセン病患者が出ると、その家族まで偏見や差別の対象になっていたことは事実です。私のうちも、おばあさんと、私の大叔父とおば(おばあさんの子ども)の3人が松丘に入っていましたから、多少はそういうことが耳に入ってきましたし、きっと私が発病したときも親は大変な思いをして、かなり苦労したんだろうと思います。親父は早くに亡くなり、いまは85歳の母が、ここの近くの特別養護老人ホームに入っています。秋田に残ると言ってたんですが、病気がちになってくると一人にしておくわけにもいきませんから、私がしょっちゅう訪ねて行けるように、こちらに連れてきたんです。

冬は雪に覆われる松丘保養園。かつて入所者によって行われていた除雪作業の苦労が偲ばれる。

桜と栗に託された思い―地域住民に見守られて

昭和40年代の全生園というのはどういうところでしたか。隔離政策がまだ続いていたん
ですよね。

正式には外に出ることはできませんが、実際にはちょこちょこと出ていました。松丘とは違って、外出に関しては結構自由な環境があったんですよ。長い時間出かけるときは、福祉課に「どこそこへ、何時間くらい出かけます」というふうに申請しておけばよかったですし、ちょっとした買い物に行くときなんかは申請もしないで出かけていました。よくあのヒイラギの垣根からちょっと出て、自転車に乗って買い物に行ったものです。小学校6年生のときには、近所に新聞配達もしていましたよ。表向きはルールはありましたが、私のいたころはずいぶん緩やかで、開放的な面があったと思います。

そのころの松丘保養園はどんな感じだったか、昔の松丘をよく知る方から、お話を聞いたりされましたか。

やはり、自分たちが考えていることをすぐに口に出せないような環境があったようです。自分たちの思いを職員の方たちに話ができないで、自分たちだけで納めてしまうとういことがいろいろあったんじゃないかと思います。

昔、ここにも小学校や中学校があったとき、写生をするために景色を探しながら、ちょっとだけ園の敷地の境界から出てしまったときなど、ものすごく先生から叱られたりしたそうです。その日は食事を抜かれたりしたそうです。

どこの園でも、患者の皆さんがさまざまな園内作業をさせられていたと聞いていますが、松丘でもそうでしたか。

ここでは年間を通じて炭焼きの作業なんかをさせられていたと聞いています。炭が燃料として欠かせなかったんですね。ほかには食糧にするために豚を飼育したり、鳥を飼ったりもしていたようです。少しでも健康な人は、他の病気の重い人を助けなければならない。それを職員に頼らずに、自分たちでやるしかない。そういう相愛互助の精神で保養園がなりたっていたということが言われています。東京などに比べて、そういう患者作業が職員の仕事に転換されるということが、なかなか進まなかったようです。こういう場所ですので、労働力もなかなか集まらなかったでしょうし、患者作業が長いあいだ続いてしまったという面があったのでしょう。

ここに入所されている方々が熱心に取り組んでこられたこと、楽しみにされてきたことな
んかはありましたか。

  • 入所者が高齢化した今では、園内のゲートボール場は近隣の愛好者に利用されている

かつてはいろんなスポーツや陶芸なんかをやる人がたくさんいました。ゲートボールでは全国大会で優勝したこともありました。でもみんな高齢になってしまって、そういった活動もすたれてしまいましたね。いま入所者の平均年齢は84.9歳です。平均の在園年数は60.3年にもなります。最近は園内のゲートボール場は、近所のお年寄りたちの練習場になっていますよ。ここには屋内のゲートボール場もあるんです。雪国の療養所ならではの施設ですよ。冬になるとお年寄りがそこに集まってくるんです。

ここの療養所は通路がぜんぶアーケードになっているんですが、それも雪のためです。そのままにしておくと、除雪をしたあとに凍ってツルツル滑るようになってしまう。それで骨折してしまう人が多かったので、アーケードをつくったんです。入所者が通る道路もぜんぶ融雪道路になっています。冬になると融雪道路でネコが気持ちよさそうに昼寝してます。いっときは入所者よりもネコの数が多くなってしまったくらい、どこに行ってもネコだらけでした。ここだと面倒を見てくれるだろうと、ネコを捨てにくる人がいるんですよ(笑)。

日本全国の療養所で入所者が減り高齢化するなか、それぞれに将来構想というものを立ち上げつつあるようですね。自治会長として、松丘保養園の将来についてどのようにお考えですか。

入所者のみんなの思いとして、やはりこの敷地を地域貢献できるようなことに生かしてほしいですね。もともと松丘の入所者たちには、ここを緑の森にしていくことで、自分たちを見守ってくれた近隣の人たちに貢献したいという思いがずっとあったんです。それを少しでも長く続けていきたいと考えています。将来的には青森のために貢献できる施設もつくってほしいと思いますが、それにはタイミングをもう少しはからないといけません。

園の入口の桜並木も、そういう思いで入所者の皆さんが植えられたんですか。

  • 自治会長の仕事は忙しく、出張も多いという

あの桜並木はもう100年近くになります。療養所が開所されてすぐに植えられたものです。いまはほとんど老木になってしまって、半分くらいは枯れてしまってるんですよ。その後、桜の苗を植えたりもしたんだけど、冬になると雪の重みで枝が折れてしまうんです。

ここの敷地は国有地で23万548平方メートルあるんです。まわりは荒地ばかりなんですが、昔、入所者たちがまだ若かったころ、そこを切り拓いて、栗の木を植えたりしたんです。昭和28年ごろと聞いています。いまは秋になると、近所の人たちや子どもたちが、リュックサックを背負って栗拾いにきますよ。

松丘保養園は、全国でいちはやく一般患者を受け入れた療養所ですよね。新聞記事で読みました。それはいまも続いているんですか。

いまも続いていますが、なにしろここはお医者さんが少ないし、ここの医者になってくれる人もあまりいないんです。常勤の医者は園長、そして外科医と歯科医だけで、あとは弘前大学の医学部に診療援助をしてもらっています。だからどうしても入所者のことだけで手一杯で、なかなか一般の患者さんまで診るというのは難しい情況ですね。でも、松丘保養園はこれからも医療機関として存続させていかなければならないと考えています。

もちろんそうやって一般診療を受け入れたのも、将来のことをふまえてです。ここはほかの療養所と違って、すぐ近くまで民家が迫っているでしょう。子どもたちも平気で園の中に遊びに来ていましたし、地域との交流はけっこう盛んでした。将来構想として地域貢献をしたいというのは、そういうことも関係しているんです。

松丘保養園の敷地や周辺にはたくさんの栗の木が見られる。入所者たちが開拓し、植えたものだ

ハンセン病の歴史を自分たちの問題だと捉えてほしい

自治会長として活動されているほかに、講演会もよくされているそうですね。どういう人
たちに話をされているんですか。

  • 旧火葬場跡を案内してくれる石川さん

もともと講演なんてやりたくなかったんですよ(笑)。「オレはそういうことできない」って何回も断ったんですが、とうとう断り切れなくなってしまって。いまは中学校、高校、一般の人たちに向けて話すことが多いです。小学校での講演はなかなかできないですね。小学生たちにハンセン病の説明をするのはなかなか難しいです。中学生でも難しいくらい。高校生くらいになると、ある程度わかってくれるんですが。だから学校に行ってやるときは時間は30分くらいにして、できるだけインパクトのある話を組み立てるようにしています。

出身地の秋田にも毎年講演に行きます。秋田市や横手市や能代市が呼んでくれるんですよ。初めて秋田市に講演に行ったときは200人くらい集まってくれて、聞いていた人がみんな泣いてしまったんです。そんなに泣かせるつもりはなかったのですが(笑)。自分の経験したことだけではなく、ほかの人たちから受け取ったいろんな思い、人生を壊されて偏見と差別を受けながらも生きてきた思いを、せつせつと話したんです。初めて知った人には、やはりぐっとくるんでしょうね。質問も受けましたが、涙声で何をしゃべっているのかわからない人もいました。

最近はハンセン病に関するいろんな本も出て、ニュースや新聞でも療養所で生きる方々の
ことがよく取り上げられるようになりましたね。講演を聞く人たちの理解が変わってきた
というような印象はありますか。

  • 折しも園内の弥広神社で例祭が行われていた

理解は深まっていると思います。でも自分たちの訴えている枠というか、その幅がなかなか広がらないというじれったさはあります。聞きに来てくれる人たちが同じようなメンバーになっているので、もう少しそこを広げたいという思いもある。

残念ながら、共感しながら話を聞いてくれる人たちも、第三者的な立場で受け取っていると思うんです。自分たちのおじいさんやおばあさん、あるいはその上の人たちの世代が無らい県運動に加担して患者を療養所に放り込んだんだ、自分たちの責任ではないんだといった認識ですね。もっと、そのような歴史のなかに自分たちもいるんだ、自分たちにも関係があるんだという思いをもって、話を聞いてほしいのです。そうでないと、これからもいろんな差別や偏見の問題はなくならないと思います。

私が退院してから十何年もたってからも、ハンセン病を疑って親子で心中をはかったという事件が、東北と四国で2回もあったんですよ。当時すでにハンセン病は危険な病気ではないと理解されるようになりつつあったにもかかわらず、そんな事件が起こってしまった。昔のお年寄りから聞いた話なんかを鵜呑みにして、ハンセン病は怖い病気である、一生家族も苦労させられる、それなら死んでしまったほうがいいと考えたのでしょう。そういうことがないようにしていくには、ハンセン病は治るし、たいした病気ではないのだというように、正しい知識を伝えて、みんなで共有していくことが本当に大事なんだと思います。

そのようなことも、講演ではお話しされるんですか。

講演の最後に、そういうことも言います。世の中をよくしていくためには、みんなで努力しなくちゃいけない、人権を侵害するような国策というものに対しても、もっとみんなで関心をもって監視していかなきゃいけないということも話します。

取材・編集:太田香保 / 撮影:川本聖哉

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