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People / ハンセン病に向き合う人びと

岩川 洋一郎(星塚敬愛園自治会 会長)

「療養所の高齢化も進み、自治会の活動も先細りしていきつつある。交渉する力がなくなれば、将来構想もストップしてしまうでしょう。
そうなる前になんとか道筋をつけておきたい。ここ2〜3年が勝負だと思っています」。
そう身を乗り出して語る星塚敬愛園自治会 会長、岩川さん。
日々精力的に関わっている自治会のこと、ふるさと屋久島の思い出、忘れえぬ人たちとの出会いと別れ。
傘寿を迎えたいま、感じていること、考えていることなどについて、思いつくままに語っていただきました。

Profile

岩川 洋一郎氏
(いわかわ よういちろう)

1937年、鹿児島県屋久島生まれ。小学校5年生のときにハンセン病を発症、星塚敬愛園に入所する。現在は自治会活動とともに各地での講演活動などもおこなう日々。2004〜2005年に自治会長に初就任、2007年より10年間にわたり会長職を務めている。

施設への要望と、
信頼関係に基づいた良好な関係

  • 敬愛園内にある垣根や草花は、とてもよく手入れされている

  • 敷地内には間もなく障がい者支援施設「新樹学園」が完成予定

岩川さんは今おいくつですか。

今年(2017年)の2月11日で満80歳になりました。建国記念日ですから、いつも祝日。毎年、国がお祝いしてくれてるみたいなものですね。

星塚敬愛園(以下、敬愛園)入所者の平均年齢は86.1歳、入所者数は146名(※2017年1月現在)。高齢化が進んでいるということもあって、会長職や役員職は「もうできないよ」と辞退される方が多くなりました。とくに(自治会)会長ということになると、なかなかやる人がいない。結局私しかいないというのが現状です。私は自治会に関わるようになって19年ほど、会長職は2004〜2005年の2年間と2007年以降ですから、今年で通算12年目になります。

自治会長というのは、行動力があって、施設に対して要請がきちっとできなければいけない。ところが高齢化が進んでいくと、次第に行動力もなくなり、要請もできなくなっていくわけです。各支部の自治会、全療協(※ハンセン病療養所入所者協議会)が先細っていくなかで、この問題をどうしていったらいいか。これは私たちにとっての大きな課題です。状況は文字どおり刻々と変化していきますが、これに対応していくことも自治会長の大事な役目ですね。

園内を歩いていて感じたのですが、庭や草花の手入れが、とてもきれいにされているという印象をもちました。

これは敬愛園にやってきた皆さんが驚かれることです。なぜ、ここまできちんと整備されているのか。これはもちろん職員の皆さんがよくやってくださっているからですが、自治会がしっかりと要望、交渉しているからということも大きいんですね。私たちは厚生労働省に対しても、はっきりと要望を伝えています。しかし、こういったことができる自治会は、少なくなってきています。

敬愛園では8年ほど前に検討委員会をつくり、地元鹿屋市の市長、地域の有識者などにも加わってもらって、いち早く将来構想を決定しました。同時に地域交流、地域との共生などについても積極的に取り組んでいます。今年中には敬愛園の敷地内に、以前から交流のあった障がい者支援施設「新樹学園」の施設が完成する予定です。

地域交流に関しては年に1回でもいいから敬愛園に来てください、というのが私たちの願いです。毎年、敬愛園の夏祭りには2500人から3000人の方々が訪れてくださいますし、カラオケ大会などもある。私たちが新樹学園の運動会に招かれることもあります。こうした交流のなかで地域の人たちとの共生、共存をどうしていったらいいのか、一緒になって考えていきたいと思っています。

昨年には人権擁護委員会という組織も新たに立ち上げました。これは高齢化により、自治会活動ができなくなったときに入所者の声を代弁し、施設、省庁などと交渉していくことを目的とした委員会です。人権擁護委員会には3名の外部委員の方々がおり、そのなかには国賠訴訟でお世話になった「ハンセン病問題の全面解決をめざして共に歩む会」(略称:NPO法人ともに歩む会)の方にも入っていただきました。ほかにも園内の医療行為について審査をおこなう倫理委員会、医療、介護、看護などについて検討、審議をおこなう生活支援検討委員会といった組織があります。

人生の終わりをどう迎えるかという、いわゆるエンドオブライフ・ケアについても自治会があるうちに道筋をつけていかなければなりません。これについては医療ケアチームの規定を定めると同時に、入所者の皆さんにも自分の終末医療をどのようにしてほしいか、覚え書きを書いておいてほしい、とアナウンスしているところです。そうは言っても皆さん元気なうちは、まだまだ大丈夫と思って書かない人が多いんですね。かといってあまり強引に書いてくださいと言うこともできない。なかなか難しい問題です。

岩川さんが敬愛園にやってきたのは、終戦からまだ数年という頃だった

父と一緒に旅行のつもりでやってきた
星塚敬愛園

私は1937(昭和12)年、屋久島の生まれです。親父は屋久島で役場に勤めていましたが、鹿児島へ転勤になり、家族で引っ越してきました。当時の私は、朝から晩まで野球ばかりしている野球少年でした。

ところがある日、顔に黒い斑点のようなものができたんですね。そこで親父と一緒にあちこちの病院に行ったんですが、何が原因かさっぱりわからない。当時の病院というのは門構えは立派でも、中に入るとお医者さんは1人とか2人とか、そんなところが多かったんです。私は11歳。1948年のことでした。

これでは埒があかないということで、鹿児島大学に連れて行ってもらいましたが、鹿児島大学の先生でも原因はわからないという話でした。ところが、向こうの方で親父と先生が話しているんですね。「鹿屋の病院に行かれてみては」と話していたような気がするんですが、そこのところは定かじゃありません。

10日くらいして、親父が「ちょっと旅行にでも行こうか」と言い出したんです。当時はまだ戦争が終わって3年。鹿児島の街もいたるところ焼け野原で、ようやくバラックがいくつかできてきたという頃でした。ですから旅行に行くなんていうのは、ものすごい贅沢なわけです。うれしくてうれしくて、前の日はなかなか寝つかれなかったですよ。翌日は鹿児島から鹿屋の古江港まで船で2時間、そこから汽車に乗っていきました。

旅行にはお袋が縫ってくれたリュックサックを背負っていったんですが、これがけっこう大きくて、見ているとお袋がシャツとかズボンとか、何枚も入れてるんですね。1泊旅行なのに、なんであんなに着替えを入れるのかな? と思ったんですが、旅行に行けるのがうれしくて、あまり気にならなかった。

それから大きなおにぎりを作ってくれました。このときも、おにぎりを作りながらお袋が涙を流しているんです。私は「親父が長男を旅行に連れていく。他の家ではなかなかできないことだから、きっとうれし涙だろう」なんて思っていました。あとでわかったことですが、このとき親父はお袋に「洋一郎を鹿屋の病院に連れていく。これから先、いつ会えるかわからない」と伝えていたらしいんです。お袋が別れのつらさで泣いていたんだとわかったのは、敬愛園に入所してからのことです。

  • 70年近くを経て、園内も大きく様変わりした

永野田(旧大隅線)という駅で汽車を降りて、そこから敬愛園までやってきました。親父はというと、白衣を着た先生となにやら話をしている。その間、私は20分くらい診察を受けました。そのとき白衣を着た先生に「君はまだ小さいから、3ヵ月したら帰れるよ」と言われました。あれは塩沼英之助園長(※敬愛園二代目園長)だったんじゃないかと思います。

私は「父と旅行に来ただけなんですが、3ヵ月ってなんですか」って訊きましたが、誰もちゃんと答えてくれない。しばらくすると知らないお兄ちゃんがやってきて、「君、野球はできる? 向こうで野球やってるから一緒にやらないか」と誘われました。私は野球少年でしたから、うれしくなって野球をしに行ってしまった。親父はその晩、いつの間にかいなくなっていました。

これもあとでわかったことですが、親父は仕事で敬愛園に来たことがあったんですね。屋久島の役場に勤めていたとき、となりの集落にいたハンセン病のじいちゃんばあちゃんを収容して、ここに連れてきたことがあった。だから鹿屋の病院がどういうところか知っていたんです。まさか自分の息子が、という思いもあったんじゃないかと思います。

親父は私が入所したあと2〜3ヵ月のあいだ、面会に来てくれました。週に一回くらいのペースで自転車に乗ってやってくる。ギターを買ってくれたこともありました。まわりの子たちからは、ものすごく羨ましがられましたね。

入園者がつくったゲートボール場では、園外からやってきたお年寄りが今もゲートボールを楽しんでいる

地域との交流のきっかけをひらいた
ゲートボール

その後は、ずっと敬愛園で暮らすことになったのでしょうか。

私はわりと健康だったので、故郷の屋久島に勝手に抜け出して帰ったりしていました。大体年の半分くらいは帰っていたんじゃないでしょうか。屋久島ではおもに魚釣りをして、あとは従兄弟が経営するトラック会社で働いたり。免許は園から逃走して、実家から教習所に通って取ったんです。それで具合が悪くなったり疲れたりすると、すっと(敬愛園に)帰ってくる。

私が園を留守にしている間に大西(基四夫)園長がこんな話をしたこともあったそうです。「天文館(※鹿児島市内の繁華街)で向こうから先生! と手を挙げながら歩いてくる紳士がいた。見るとそれは岩川洋一郎君であった」。このときは無断外泊ということで園長から始末書を書きなさいと言われました。

始末書は書いたんですか。

そんなもの誰が書くか、といって書かなかったです(笑)。

その後、敬愛園に帰ってきて鹿屋のガソリンスタンドで働くようになりました。敬愛園がある場所は当時、西俣町といったので「西俣町の方から来た者ですが、ここで働かせてもらえませんか」と頼みにいったんです。ガソリンスタンドの社長はふたつ返事でいいよ、と言ってくれたんですが、田舎のことですから敬愛園の入所者だということは、きっとバレるに違いない。そう思って翌朝早く、じつは自分は敬愛園の入所者なんです、と本当のことを言いにいきました。

すると社長はニコッと笑って「うん、(敬愛園の入所者だということは)わかっとった」と言うんですね。私は鹿児島弁も使うんですが、やっぱり言葉が違っていたんですかねえ。結局、2軒のガソリンスタンドを任され、20年近く店長として働きました。毎日朝8時半から夜の9時、10時まで働きづめです。その間、ずっと留守を守ってくれた家内には、今でも頭が上がりません。

先ほど野球少年だったとおっしゃっていましたが、敬愛園はゲートボールも非常に強かったそうですね。

敬愛園はゲートボール大会で何度も日本一になったんですよ。療養所同士の対抗試合ではなく、一般社会人の大会で全国優勝しているんです。入所者は手足が悪い人が多いんですが、その分、工夫して作戦で勝つわけです。なにしろ療養所から外に出ることができませんから、ゲートボールのことばかり朝から晩まで考えている。強さの秘訣は、そんなところにもあったんじゃないでしょうか。

試合の相手は一般のお年寄りですから、当初は偏見・差別もかなりありました。最初の頃、敬愛園のゲートボールチームは「手袋軍団」と呼ばれていましたね。悪い手を隠すためにみんな手袋をはめていたからです。打ったボールを手で投げるのではなく、足で蹴って戻されたこともありました。

敬愛園チームが強いことがわかると、そういった差別的扱いは次第になくなっていきました。相手チームは泊まりでやってくるんですが、試合が終わったあとは宿で一緒に酒を飲んだり、風呂に入ったりしました。こうした付き合いがあったことも差別・偏見を乗り越えていく上で大きかったと思います。これもひとつの啓発活動ですね。とにかく敬愛園チームはどこにも負けなかった。

おかげでかなり早い段階で地域のゲートボール協会(※鹿屋市や鹿児島県の協会)にも入ることができました。これは他の園より10〜15年くらい早かったんじゃないかと思います。

園内放送も大事な仕事のひとつ。自治会長の声をほぼ毎日、園内の人たちに届けている

地自治会活動へのきっかけは、
尊敬してやまない人たちとの出会い

  • 星塚敬愛園ふれあい会館で講演する神美知宏氏(平成24年10月)

敬愛園の自治会が発足したのは戦後すぐの1946(昭和21)年1月1日。このときのスローガンは「入所者による入所者のための自治会を」というものだったそうです。それ以前から敬愛園には「団体で交渉ごとにあたらなければ、何も変わっていかない」という気質がありました。全国の療養所に向けて全患協(※全国国立らい療養所患者協議会)の立ち上げを呼びかけたのも敬愛園でした。自治会発足の翌年、1947年のことです。4つの支部が賛同し、ここから今の全療協の歴史が始まったわけです。

屋久島へたびたび帰ったり、ガソリンスタンドで働いたりしていた岩川さんが、なぜ自治会に関わるようになったんでしょうか。

敬愛園には、かつて藤原頼高という自治会長がおりました。この人が、なぜか私をかわいがってくれたんですね。私の兄貴分です。その藤原さんに頼まれて食糧部長をやったのが最初です。

自治会の仕事なんてしたこともなく、まったく何にもわかりませんから、会議に出てもわかっているような顔をして座っているだけ。それでも園内の声を聞いて、いろいろなアイディアを試してみました。食事を2種類から選べるようにしたり、園内にお米の配給をしたりといったことですね。女性の人たちに訊くと、自分たちでお米を炊きたいという声が多かったんです。でも、このときは1年で辞めてまた屋久島へ帰ってしまいました。

全療協の元会長、神美知宏さん(※2010年から全療協会長。2014年、ハンセン病市民学会が開かれていた群馬県草津で急逝)と知り合ったのも、その頃のことでしょうか。

初めて会ったのは高松の大島青松園です。フェリーで四国まで行って青松園に一週間くらいいたんですが、このとき藤原さんも交えて毎日のように話をして、すっかり気心が知れました。以来、40年のつき合いです。お互い「神ちゃん」「洋ちゃん」と呼び合う仲。もちろんまわりに誰かいるときは「神会長」って真面目な顔して呼ぶんですけどね(笑)。夜、仕事が終わって一杯やると、必ずといっていいほど携帯に電話がかかってくる。私にとっても、神ちゃんとの会話は、なによりの愉しみでした。

1992年に藤原さんが亡くなったとき、私は敬愛園自治会で執行委員をしていましたが、このときも悲しみにくれる私に「洋ちゃんは将来、敬愛園で自治会長を務めることになるだろうが、そのためには、こういうことを心がけたらいい」と言って、訓示をしてくれました。

まず最初に行動力をつけなさい。次に知力、能力を磨きなさい。本を読んだりする勉強と人の話を聞くこと、この両方が大事だと言われました。こうした能力が身について、次に初めて指導力だというんですね。たしかに知力、能力、行動力がなければ指導力を発揮することはできません。なるほどと思いました。そして人に対して気づかいを忘れないこと。ですから私は今でも職員の人たちに、よく話しかけます。「毎日どうもありがとう」「おつかれさん、今日は暑かったね」。ちょっとしたひと言が大切なんですね。これも神ちゃんから教わったことです。とにかく、ものすごく頭の切れる人でした。

神さんが亡くなったときの草津のハンセン病市民学会の会場には、岩川さんもいらっしゃったそうですね。

草津の市民学会に行くと、なにか雰囲気がおかしい。いったいどうしたんだと訊いても誰も答えない。それからしばらくして神ちゃんが亡くなったということがわかりました。私は「神美知宏がいない市民学会なんて意味がない、おれは帰る」と席を立ったんですが、そのとき、ある支部長さんが私を押しとどめて「こういうときこそ、いちばん親しかったあんたが神会長の代わりを務めるべきじゃないのか」と諭してくれた。そのひと言で我に返りました。

市民学会のあとは一緒に東京の多磨全生園まで行って、遺灰を少しだけ分けてもらって帰りました。遺灰は私の故郷である屋久島まで持っていき、いつも釣りをしていたお気に入りの場所に散骨したんです。

私にとっての神ちゃんは、先輩とも兄貴分とも親友とも違う、とにかく尊敬してやまない人。誰の人生にも、そんな人がいるべきじゃないかと思いますが、私にとっては神美知宏という人が、そういう存在だった。本当にいいものをもらったなと思っています。今も机の前に写真を置いて、毎日話しかけてますよ。

取材・編集:三浦博史 / 撮影:川本聖哉