ハンセン病制圧活動サイト Global Campaign for Leprosy Eliimination

ハンセン病に向き合う人々

小牧 義美(ハンセン病回復者 / 啓発活動語り部)、原田 燎太郎(NPO 家 -JIA- 資源調達部)

2017年3月31日〜4月1日の2日間、
中国・北京にある小劇場で、ある講演会がおこなわれた。
タイトルは「小牧さんと太郎のワークキャンプ辞典」、
登壇者はハンセン病回復者・小牧義美さん、
NPO 家-JIA-元事務局長・原田燎太郎さん。
2005年に出会い、ハンセン病快復者支援組織JIAの
立ち上げに奔走した2人は、今回の講演会を通じて
どんなことを伝えたかったのか。
そして小牧さんにとっての中国とは。

Profile

小牧義美氏

1930(昭和5)年、兵庫県生まれ。6歳の頃に宮崎に移住、13歳から宮大工として働く。16歳のときハンセン病と診断され星塚敬愛園に入所。戦後は長島愛生園(岡山)、待労院(熊本)などでも暮らした。2003年、中国のハンセン病村を初めて訪問、村人たちの置かれた境遇を見て、中国での回復者支援に積極的に関わるようになる。2006年からは中国のハンセン病村に住み、医療指導などをおこなったが、活動中に負った足の怪我が悪化し、2007年11月に帰国。現在も中国での回復者支援、各地での講演活動などをおこなっている。

原田燎太郎氏

1978年、神奈川県生まれ。早稲田大学卒業後、2003年4月に中国ハンセン病快復村リンホウ村(広東省潮州市)に移住。2004 年8月、ハンセン病快復村でのワークキャンプ(労働奉仕ボランティア)をコーディネートする中国のNPO「家-JIA-」を設立。日本だけでなく中国での講演実績も豊富で、その活動は内外から大きな評価を得ている。2009年、広州ボランティア協会(共産党青年団広州委員会所属協会)により外国籍の個人としては初となる「十大傑出志願者」にも選出された。

じいちゃんをもう一度、中国に連れていきたい。それがすべてのはじまりだった

北京で講演会をするという企画は、どこから出てきたものだったんですか。

原田 最初に話が出たのは、2015年の1月だったと思います。じいちゃんとは2013年頃から会ってなくて、久しぶりに鹿児島の療養所に行ってみたら、すごく小さくなっていた。これが小牧じいちゃんなのか、と驚きました。実際、身体も少し痩せてたのかな。元気もなくなっていて、これはいかん、なんとかしなければ、と思ったんです。それが最初のきっかけです。

小牧 燎太郎が会いにきたときは、身体がだんだん動かなくなってきたなあ、と自分でも感じ始めていた時期で、「もう一度、中国へ行こう」と言われても、なかなか決心がつかなかった。

歩けないような状況に陥っていたし、目もかなり悪くなっていた。もう少しで失明するというところまでいったんだ。なんかおかしい、目がよく見えないと思って医者に行ったら、大変ですと言われました。点滴を打ったり、医者が目の中に指を入れて眼球を揉んだりするんですよ。眼球の毛細血管がかなり詰まっていたらしい。完全に詰まっていたら失明していたと言われて、あとでこっちがびっくりしました。

原田 でも中国の話をしていると、どんどん元気になってくるんですね。もし療養所から外に引っ張り出すことができれば、もっと元気になると思ったし、快復者(※原田さんたちはハンセン病回復者を病気が治った人たち、という意味を込めて快復者、彼らの暮らす村を快復村と呼ぶ)であり、ワークキャンプ経験者でもあるという視点から、今のキャンパーたちにいろいろなことを語ってもらいたいとも思いました。そんなとき、九州のフレンズ国際ワークキャンプ(FIWC)で活動している谷之木勤任(たにのき・ゆきと)が、じいちゃんのところへ訪ねていったんだよね。

小牧 勤任は、年に何度か敬愛園を訪ねてくるんだけど、そのときもぼくの家にくるなり「じいちゃん、北京で講演会やろう。もう一度中国へ行こう」と言うんだ。口ではうるさいやつだ、いきなりやってきてなんだお前は、なんて言ってたけれども、ぼくも本音は中国に帰りたい。でも体力的に自信がなかったから、黙っとった。

そうしたら去年(2016年)の3月に、またあいつ(※谷之木さんのこと)がやってきて、「おれがついていくから、じいちゃん、絶対に中国へ行こう」って、しつこく言うわけですよ。そこまで言うならしょうがない、ということで行ってやることにしたんだ(笑)。

原田 勤任にじいちゃんがついていってやるって話になったんだ。それじゃ立場が逆だよね。

小牧 口では「お前がそれほど言うのなら、また(中国に)行ってみるか」なんて言ってたけど、あんなに熱心に誘ってくれて、うれしかったわ。次の日からは、さっそくリュックに5㎏くらいの荷物を入れて自主トレーニング。ひたすら敬愛園のなかを歩き回った。

原田 初めて義足履いたときも、かなり歩いたんだよね(※小牧さんは2005年、ピンシャン村に40日間住み込み、村人たちに傷のケアなどをひとりで指導。その後、中国に移住し啓発活動に取り組んだが、活動中に負った怪我が悪化し、2007年に日本へ帰国。右足を切断した)。

小牧 「中国、中国」って唱えながら、ひたすら歩行訓練したな。療養所の人からも「なんかぶつぶつ言いながら歩いてるけど、あの人、大丈夫か」って、よく言われとった(笑)。

人は毎日を精一杯生きるために生まれてくる。だから、くじけてもあきらめない

義足で歩行訓練のリハビリをしたあとも、2年続けて中国を訪れたそうですが、このとき
はどんな活動をしたんですか。

  • 快復村で傷の手当てを指導する小牧さん(左)

小牧 最初の年は一緒にワークキャンプへ行っとった連中が大学を卒業するというので、学生たちに会いに行ったんです。翌年は快復村のひとつ、桂林にあるピンシャン村を訪問しました。訪問の目的は陶伯(タアボ。本名・陶後譲。陶伯=陶じいさんは、キャンパーたちがつけた呼び名)という村人に会うことです。

原田 陶伯は、2005年にじいちゃんがピンシャン村に住み込んだとき、足を悪くして寝たきりになっていた村人です。じいちゃんは、ずっと陶伯のことを気にかけていたんですよ。

小牧 最初見たときから、とても危険な状態だった。傷が悪くなっていて歩けなかったし、黄疸の症状が出て身体が黄色くなっていた。熱もあった。村から帰ってくるときも、ぼくはこの人のことが気になってしかたがなかったんだ。

そこで燎太郎に頼んで「あなたの足は薬でもお医者さんでも治せない。悪いところを早く切り取って、元気になってほしい。でなければ、死んでしまうぞ」と伝えてもらった。そのときは足を切るなんて、とてもできないと言ってたけど、最終的には足を切断して義足をつけて、杖をついて歩けるようになった。再会したときは、うれしかったなあ。

ぼくは人間というものは、精一杯生きるために生まれてくると思ってるんです。もしそうだとすれば、たとえ病気にかかってもあきらめて死ぬんじゃなく、治療をして生きることを考えるべきでしょう。陶伯にも、そのことをわかってほしかった。

今回もピンシャン村を訪ねたそうですが、村は当時と比べて変わりましたか。

小牧 ぼくが住み込んでいた当時、村人の数は43名くらい。それが今回行ってみたら18名しかいなかった。25人もの人が亡くなっていた。住まいはよくなっても、この人たちの本当の姿というのは、なんら変わっていないんだと、あらためて思いましたね。

今回、講演会が開かれた蓬蒿(ポンハオ)劇場は、普段、演劇やアート関連のワークショップが行われることが多いと聞きました。この場所は、どうやって選んだんでしょうか。

  • 蓬蒿劇場は若者が集まる南鑼鼓巷の路地奥にある

  • 数年ぶりの再会を果たした小牧さんと慧慧(右)

原田 じいちゃんをもう一度中国へ連れていきたい、できたら講演会をやりたいという話を、じいちゃんと仲がいい頼慧慧(ライ・フイフイ。以下、慧慧)にしたら蓬蒿劇場でやったらどうか、と言って紹介してくれたんです。彼女は以前JIAでボランティアとして活動していて、蓬蒿劇場でマネージャーとして働いていたこともあるんですよ。

蓬蒿劇場は中国では数少ない個人経営の小劇場で(※定員80名あまり)北京在住のアーティストが集うコミューン的な場にもなっています。今回の講演会では劇場オーナー、王翔(ワン・シャン)さんが無料で場所を提供してくださいました。人権問題や差別問題といった枠を超えて広い視点でハンセン病について考えてもらうという意味でも、今回のような場所で講演会ができたことは、とても意義あることだったと思います。

小牧さんは、今までに中国で講演会をしたことはあったんですか。

原田 JIAの学生たちが集まったときとか、挨拶はよくしてたけど、講演会はなかったよね。じいちゃん、講演会をやるって決まったとき、どんなことを話したいと思った?

小牧 内容については、いくつか考えてはいたけども、事前にあれこれ考えてもしょうがない。当日になったら燎太郎が何か言うだろうから、それに応えて話していけばいい。そう思っとった。あとは慧慧たちが、どんな形の講演会にしたいかっていうのもあるしなあ。

慧慧と小牧さんは、どんな相談をしたんですか。

原田 それが慧慧は日本語わからないんですよ。

小牧 ぼくも中国語、まったくわからない。

原田 それなのに、2人はすごく仲がいいんです。最初に会ったのは、じいちゃんが中国で本格的に活動を始めた2005年で、慧慧はボランティアに参加したいとJIAを訪ねてきた学生のひとりでした。でも、じいちゃんと慧慧って最初に会ったときからけっこう仲よかったよね?

小牧 相性がよかったんかな。ことばはまったく通じないのに、不思議だなあ。お昼になると「おじいちゃん、お昼食べにいこう」って、慧慧が手を引いて連れていってくれたりするんだ。

原田 それがよかったんだ(笑)。

小牧 もちろん、それだけじゃないけど、それもあるかなあ(笑)。

原田 最終的には、じいちゃんがハンセン病を病んだ経験、快復村に住み込んだ経験を交えながら話をして、ぼくはJIAの成り立ちや中国での活動、団体の存在意義などについて話しました。

2日間とも観客席には若い人が多かったですね。

原田 2日間でおよそ140名の人たちが来てくれました。ワークキャンプ同様、若い人たちの参加は多かったですね。

JIAのワークキャンプには日本からも参加することができますが、日本の学生ボランティアは、どれくらい来ているんでしょう。

原田 じつはここ最近、ワークキャンプに参加する日本人学生の数は激減しています。今年(2017年)春のワークキャンプに参加した学生は、わずか5名でした。最盛期には1回のワークキャンプに50名ほど、通年で100名以上が参加していたんですが……。それでもワークキャンプに参加した日本の学生たちは、快復村での活動を通して、いろいろなことを感じてくれているようです。

講演の最後、小牧さんが来てくれたお客さんへのお礼ですと言って『琵琶湖周航の歌』をフルコーラス(※全部で6番まである)、無伴奏で唄いましたね。なぜあの曲を歌うことにしたんですか。

原田 じいちゃんが初めてJIAの活動に参加したのは、雲南省で開催されたワークショップ(2005年)ですけど、ワークショップが終わったあと、打ち上げで歌ってくれたのが、あの歌だったんです。みんなも大好きな歌なので、今回の講演会でも、ぜひ歌ってほしいとお願いしました。

小牧 ワークショップの打ち上げが終わったあと、なぜだかわからないけど『琵琶湖周航の歌』が頭に浮かんできて、そのとき「そうだ、キャンパーたちに、この歌をプレゼントしよう」と思ったんだな。それで、みんなを集めて道の真ん中で大声張り上げて歌いました。携帯で動画を撮ったりする人もおった。

でも、あとで動画を見せてもらったら、どれもこれも(録画が)途中からなんだ。次の日、歌の最初から録画したいから、もう一回歌ってくれって言う学生もいた。「気分も出ないのに、昼間から歌えるか!」って言ったんだけど、学生たちにどうしてもと頼まれると、よう断らん。結局もう一回、歌いました。あれは格好悪かったわ(笑)。

なぜ、『琵琶湖周航の歌』だったんでしょう。

小牧 小さい頃、お父ちゃんがよく歌っていてね、あまりにしょっちゅう歌うものだから、いつの間にか覚えてしまったんですよ。ぼくの家は兄が喘息もちだったので、母は兄につきっきりで構ってもらえない。だからぼくはお父ちゃんと過ごすことが多かった。だから暴れん坊になったんだ。この歌を歌うと、小さい頃のことを思い出すんですよ。

講演会の最後に『琵琶湖周航の歌』を熱唱する小牧さん

過去を振り返らず、つねに前を見つづける。2人の目指す未来は、その先にある

講演会にやってきたJIAのOB/OGの人たちとも話をしたんですが、「初めて会う人も多い
のに他人のような気がしない。家族みたいに感じる」「こういう親しい関係は、今の中国
では珍しいんじゃないか」と語っている人が多かったですね。

  • ワークキャンプに参加した中国の学生たちと

原田 JIAで活動していた人同士というのは、たとえ初対面でも特別な感情を共有することが多いみたいです。そのような関係をつくることも、ぼくらの大切な仕事のひとつだと思っています。

まず、ハンセン病快復者とキャンパーの間に家族のような関係ができる。「他人ごと」だったことが「自分ごと」になってくると、キャンパーはより村人のために頑張って活動するようになります。その姿を見て、地域社会の他の人たち(住民、メディア、企業、病院、政府など)も村に関わるようになる。地域社会との「つながり」ができていく。

このような活動を続けていくと、仲間同士にもつよい「つながり」が生まれて一生ものの友情が生まれます。なかには「戦友」と表現する人もいます。JIAのボランティアは現在およそ2千人。会員は1万人以上で、ワークキャンプなどの活動に参加した人は、延べ1万9千人以上になりました。こうしたOB/OGたちをどう組織化していくかも今後の課題ですね。

小牧さんは今回、JIAの桂林支部から栄誉賞をもらいましたね。ピンシャン村のある桂林は
小牧さんにとって、やはり特別な場所ですか。

  • JIAの桂林支部から授与された栄誉賞

小牧 栄誉賞、もらいました。でもあの賞状、「あなたのボランティア活動の功績をたたえ〜」っていう中国語のところ、もうちょっとだけ大きな文字で書いてくれたらよかったなあ。全体的なバランスが取れてないんだ(※こういう感想が出てくるのは小牧さんが書道もたしなむため)。あれ、今からもうちょっとどうにかならんかな。どうにもならんか(笑)。

話を元に戻すと、桂林の学生たちというのは、ものごとに対して生真面目に取り組む人が多いんです。言われたことだけじゃなくて、いろんなことを自分たちで考えて率先してやる。その桂林の学生たちが、心から信用しているのが、ここにいる燎太郎なんだ。おかげで、ぼくも桂林に友達がたくさんできました。足悪くする前は、もしひとりで中国に住むなら桂林がいいと思っとった。それくらい好きなところです。

原田 じいちゃんがピンシャン村に住み込んだのを知って、自分たちも週末、快復村に通うことにしようって言い出したのも桂林の学生たちだったよね。

小牧 そうだったなあ。土曜、日曜と村にいて村のことを手伝ったり、村人と話したりして帰っていく。毎回4人とか5人とか、それくらいの人数なんだけど、あれは本当に助かるんだ。12年経った今でも続いているそうです。

原田 今回久しぶりに中国に帰ってきたわけだけど、これから、どんなことをしてみたいと思ってる?

小牧 何もない(笑)。年を取って体力も弱ってきたし、だんだん自分のこともできなくなってきた。そろそろ引き際かなと思っとる。でも、お前に頼まれたら、やっぱりいやとは言えんわな。

ぼくは燎太郎には頭が上がらないんですよ。今まで、こいつがぼくにしてくれたことを考えると、涙が出てくる。燎太郎はいつも「じいちゃんから沢山のものを学んだ」と言ってくれるけど、助けてもらったのは、じつはぼくの方なんだ。

原田 ……いや、じいちゃん、そんなことはないよ。

原田さんから見た小牧さんって、どんな人ですか。

原田 典型的な九州男児というか、現代の日本人が忘れかけている、もしくは忘れてしまった「心のありよう」みたいなものを持ちつづけている人だと思います。じいちゃんからは、今もそういうものを学ばせてもらっている気がします。

小牧さんは原田さんに、どんな男になってほしいと思いますか。

小牧 人の上に立つということ、これは絶対にこれからもやっていってほしい。そしてJIAという組織を引っ張ってほしいんだ。中国でうまくいかなかったら世界を歩けばいい。それくらいの気概でやれば、どうとでもなるもんなんだよ。

今までの中国での暮らしを振り返ってみて、こうしておけばよかった、と思うことはあったりするんでしょうか。

小牧 ぼくはかなりのひねくれ者だから、いろいろ失敗しとるんだけど、中国語、もうちょっと覚えておけばよかったなあ。教えてくれる人はまわりに何人もおったんだけど、教えてくれというひとことが、よう言えんかった。しびれを切らして学生たちが中国語を教えに来てくれたこともあった。でも学生たちが一生懸命勉強して日本語で話しかけてくれるから、中国語を覚えなくても、なにも不自由しなかったんだ。

ピンシャン村では陶伯が簡単な中国語を教えてくれた。食堂でみんなで食事をしていたとき、よし、ここはひとつ中国語で挨拶してやろうと思って「謝謝(シェー・シェー=ありがとう)、不用謝(ブイ・ヨン・シェ=どういたしまして)」って大きな声で言ったんだけど、みんなに大笑いされた。あれは大失敗だったわ。

原田 じいちゃんが立ち上がっていきなり「ありがとう、どういたしまして」って言ったら、それは、みんなびっくりするよね。

小牧 そしたら陶伯が、奥からあわてて出てきて、そうじゃないだろって、ぼくのことを叱るんだ。謝謝と言われたら不用謝って答えるんじゃないか、お前はそれくらいのことも覚えられないのかって。あれはおかしかった。

中国に住んでいた頃は燎太郎と一緒にあっちの街、こっちの街と、本当によく出かけた。でも、それはそれ。みんな済んでしまったことで、今の自分にはなんにも関係がない。人生まだまだ、何が起こるかわからん。そんな気持ちで、これからも毎日頑張っていこうと思っているんですよ。

家 -Joy in Action- JIA
http://jiaworkcamp.org/jp/

取材・編集:三浦博史

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