People / ハンセン病に向き合う人びと
「2001年5月11日、国賠訴訟の勝訴判決が出た日は、私にとって人間回復の誕生日ですよ」
今年でやっと16歳、と笑う上野さんのことばには、ほんのりと沖縄なまりがある。
石垣島に生まれ、学校の先生に憧れた少女時代。夫、清さんと過ごした敬愛園での日々。
厳しく長かった国賠訴訟勝訴までの道のり。90歳を迎えた上野さんの目に映る景色とは。
Profile
上野 正子氏
(うえの まさこ)
1927年、沖縄県石垣島生まれ。1940年に沖縄県立第二高等女学校に入学するも、ハンセン病を発症し同年12月に星塚敬愛園に入所。1998年のハンセン病国家賠償訴訟(※らい予防法違憲国家賠償訴訟)では第一次原告団13名のひとりとして名前を連ねた。小説『あん』(ドリアン助川著)の主人公、徳江さんのモデルとしても知られる。2013年より敬愛園自治会副会長。各地での語り部活動にも精力的に取り組んでいる。
上野さんが敬愛園にやってきたのは12月の寒い日だったという
私は1940(昭和15)年に敬愛園にやってきました。出身は沖縄の石垣島です。沖縄女学校時代、すねにちょっとしたできものができて病院に行ったところ、鹿児島の病院へ診察に行きなさいと言われ、父と二人で船に乗りました。港へは母と1歳と2歳の弟が見送りにきてくれました。2歳の弟がもみじのような手を振りながら、「ねぇね(お姉ちゃん)早く帰ってこいよー」と大きな声で叫んでいた光景が、今でも目に焼きついています。
鹿児島に着いてタクシーに乗ろうとしたんですが、タクシー会社の人は敬愛園へは行きたくないといって、私たちを乗せてくれませんでした。前にお客さんを乗せて行ったら、その人がハンセン病の患者だということがわかり、タクシーを真っ白になるまで消毒されたんだそうです。「車も一週間ほど使いものにならなくなった、敬愛園はきらいだ、行きたくない」と言われました。
町営バスが出ているから、それに乗って大姶良村(おおあいらむら)というところで降りればいいということでしたが、そのバス停が見当たりません。しかたなく私と父は県道を歩いていきました。日が暮れると、あたりは真っ暗闇です。街灯もなく、夜中に私たちは足を滑らせて崖の下に落ちてしまいました。そこに大きな木がそびえていたので、その下で夜を明かしました。
翌朝早く、牛車に堆肥を積んだお百姓さんが通りがかったので、父は敬愛園への道を教えていただけませんか、と話しかけました。すると「うちの田んぼは敬愛園のちょうど前にあるから、ついでに連れていってあげましょう」と言って荷台の堆肥を寄せて、父と私を荷台の後ろに乗せてくれました。垂水から敬愛園までどれくらいあるんでしょうと訊いたところ、45㎞くらいはあるだろうということでした。
このとき私は人に親切にすることの大切さを、しみじみと感じました。どんな立派な車より、あの牛車の汚れた荷台がどんなにありがたかったか。77年前のことですが、忘れられません。今でも講演をするたび、「人に親切にすることはとても大事なことだよー」と必ず話しています。
敬愛園に着いて応接室に通してもらいましたが、私は喉が渇いてしかたがありませんでした。父が職員の方に頼んでくれたのですが、コップに入った水を飲もうとすると職員の人が、「あっ危ない、診察を受ける人はそのコップには触らないでください」と言うのです。どうしてですかと訊くと、病気がうつるかもしれないから、入園者用の水道で飲んでくれということでした。
父は「まだ病気だと決まったわけでもないのに、コップにすら触るなというのか。そんな差別があるか」と怒りました。そしてコップを使わずとも水を飲む方法はある。手を出しなさい、と言って私の両手にコップの水を注ぎ、私は手の汚れも気にせずコップ一杯分の水を飲みました。私は偏見・差別ということばの意味はよく知りませんでしたが、それよりも前にそれがどんなものか、身をもって体験したわけです。
社会復帰するため、入所者作業に積極的に取り組み、お金を貯めた。賃金は園内専用のブリキのお金で支払われた
当時、敬愛園の自治会長をしておられたのは徳田祐弼さん(※敬愛園2代目会長)という方で、私と同じ石垣島出身でした。自治会長のことは昔は総代と呼びました。その徳田さんが「2ヵ月経って島に帰るとき、敬愛園にいたことが他の人に知られては、よくない。偽名を使うことにしなさい」とおっしゃって、須山八重子という名前を考えてくださいました。
八重子というのは石垣島のある八重山諸島からとったのだと思います。私は須山八重子、須山八重子と何度も繰り返して、新しい名前を一生懸命になって覚えました。徳田会長は「困ったことがあったらなんでも言いなさい。私が親代わりになって助けてあげるから」と言ってくださいました。
次の日の夜明け頃、目が覚めたので隣にいるはずの父に「お父ちゃん、夜が明けたよ」と声をかけましたが、もう父はいませんでした。いいお父さんだと思っていたのに私を捨てたのだと思い、私は父を恨みました。
私が入った少女舎には全部で60人くらいの女の子がいて、園内には学校もありました。私は学校が大好きだったので窓から教室をのぞいてみたのですが、目に入ったのは竹とんぼをつくって机に上って遊んでいる男の子、下を向いておはじきをしている女の子たちの姿でした。先生が黒板に字を書いていても見ている子は誰もいない。私はこんな学校では勉強したくないと思い、学校には行かないことに決めました。
その後、学校へ行かないのだったら看護婦さんの手伝いをしなさいと言われ、治療部員として働くことになりました。当時、敬愛園の病棟には白鳥、孔雀、鶴、オリオン、小熊、南の冠、羊、琴というように星座の名前がつけられていました。星塚という園名にちなんだものです。病棟に入っている患者は、それぞれ10名程度でした。
治療部員のお給料は1ヵ月50銭。もらえるのは厚生省の文字が入ったブリキのお金で園内でしか使えないものでしたが、そのお金を一生懸命貯めました。絶対に社会復帰するんだ、と入所したときから心に決めていましたが、そのためには、お金が必要だと思ったからです。
お金を貯めるために治療部員の仕事以外にも作業をいろいろとやりました。大人の患者が使ったおむつを洗う、これはあまりやりたがる人がいないので月に1円もらえました。たらいにお湯を入れて洗濯板で洗うのですが、あるときバケツに手を入れたら、そこに入っていたのは熱湯でした。
急いで医務室に行ったところ、そこにいた見習いの看護婦さんが大丈夫、大丈夫と言いながらガーゼを指にはさんで、その上から包帯で巻いてくれました。ところが、このときの治療が原因で指が曲がったままになってしまったんです。それまで手の変形など、まったくなかったのに。
その後、整形外科の先生に「親指を整形した方が生活するのに便利になる」と言われて手術を受けたのですが、それでますます見苦しい手になってしまいました。国賠訴訟の原告に名前を連ねたい、人間回復のために立ち上がりたいと思ったのは、このことも理由のひとつだったかもしれません。
清さん手作りのちゃぶ台(写真手前)は現在、敬愛園の社会交流会館に展示されている
ある日、グラウンドでバレーボールをしていると、制服制帽にサーベルを下げた警察官が立っていました。何か事件があったのかな、と思って見ていると、その人が「娘さーん、娘さーん」と私のことを呼ぶんです。行ってみると敬愛園の事務所のある場所を教えてください、と訊かれました。
明くる日、治療部員の仕事で病棟に行くと、今まで見たことのない人が棒縞の着物を着て窓際に立っている。新患者の方ですかー、と訊くと、はいと答えたので、体温を測ろうとしたら、私が事務所に案内した警察官の人でした。顔に2㎝ほどのピンク色のできものができたので診察に来たらしく、2週間もしたら帰れますと言われたそうです。この時、私は、きっとこの人も2週間どころか、2ヵ月、3ヵ月経っても帰れない人だと思いました。
それから少しして療養所にいた宮崎出身の人から「八重ちゃん、あなた結婚する気はないか」と訊かれました。私は「指の曲がった人とは結婚しませんが、元気な人だったら結婚します」と答えました。どの人ですか、と訊いてみると、私と結婚したいというのは、あの警察官の人だったんです。
その場ではい、結婚します、と答えましたが、そのとき私の頭にあったのは「あの人がハンセン病だというのは誤診に違いない。一緒になれば社会復帰できるだろう」という思いでした。上野清という名前だということも、そのあともらった手紙で初めて知りました。とてもきれいな毛筆で書いた手紙でした。
結婚が決まり、私は家から持ってきた風呂敷包みとトランクをもって乙女舎から夫婦舎へ移りました。夫婦舎といっても12畳の部屋があるだけで、壁もなければカーテンも障子もありません。そこで4組の夫婦が共同生活するんです。朝方、目が覚めると隣のご主人が私の目の前で寝ているなんてこともありました。まるで漫画のような生活です。
主人は「こんな生活じゃ駄目だ。ぼくは付き添い介護の仕事を辞めて木工部に入ることにする」と言って、鉋の研ぎ方から習いに行き、丸いちゃぶ台を3ヵ月くらいかけてつくってきたんです。脚が折りたためるようになっていて、夜は片側2本の脚を畳んで、ついたてのようにして隣との仕切り代わりに使いました。
主人は、これは自分の手作りだからといって、このちゃぶ台をずっと手元に置いていました。当時の夫婦舎がどんな環境だったかを説明するために裁判所まで持っていったこともあります。裁判官の方もそんな生活だったんですか、と感じ入っていましたよ。今は社会交流会館の資料室に置いてあります。
夫婦舎に移った翌日、洗濯物を洗おうとすると、ふんどしに血と消毒液がいっぱいついていました。それを見て主人が断種の手術を受けたということがわかったんです。どうして手術を受けたのかと問い詰めると、職員の人から「あなたの奥さんになる人は健康だから、きっと妊娠するでしょう。ここでは子どもは産むことはできないので断種をしなければいけない」と言われ、手術台に乗ったのだと言っていました。家庭をもち、子どもを育てることが夢だった私は、とてもがっかりしました。
主人は口下手で国賠訴訟でも「証言台には、よう立たん」とずっと言っていました。そこで私は「それなら横に立っているだけでいいです。私があなたの代わりに、園内で子どもを産むことは許されないので断種手術が必要だと言われました。そのために兄妹のような夫婦生活になってしまった、と証言しますから」と言いました。主人は、「そんなことをみんなの前で公表するのか、そんなことはいかん」と抵抗しましたが、裁判に勝つためには、なんとしても言わなければいけないことなんだといって説得したんです。
主人はとても物静かな人でした(※清さんは2006年逝去)。まわりからも「ホトケの清さん」と呼ばれて信用も篤かったです。人の悪口も絶対に言わない、心配りの濃やかな人。ただ目立つことは徹底していやがりました。結婚したのは1946年のことで、私は19歳、主人は8つ上の27歳。私にとっては社会復帰をしたいがためにした結婚でしたが、とてもやさしい人でした。いい人に当たってよかったですよ(笑)。
でも家のことは何にもしなかったです。冷蔵庫から何か取ってきて、と言っても冷蔵庫の開け方すらわからない。黙って座っているだけ。ただ、立ち振る舞いや作法については厳しかったですね。新婚当時、私は行儀作法の先生と結婚したんかな、と思っていたくらいです。
小説『あん』原作者のドリアン助川さん、映画で主役を演じた樹木希林さんからの手紙。小説のモデルになることなど、上野さんは想像もしなかったという
訪れてきた人に必ずふるまうサーターアンダーギー。講演先などにももっていくため、100個単位でつくることもしばしば
私は小さいときから学校が大好きで、高等女学校(※沖縄県立第二高等女学校)に入学したときも大きくなったら先生になりたいと思っていました。療養所に入所してその夢は破れましたが、今では全国各地の学校で講演活動をして、夢が叶ったと思っています。2009年には、私の生い立ちと国賠訴訟裁判のことを書いた『人間回復の瞬間(とき)』(南方新社刊)という本も出すことができました(※のちに上野さんの著書を読んだドリアン助川さんが、小説『あん』の主人公、徳江さんの内面的モデルを上野正子さんにすると決めたという)。
小説『あん』が出てからしばらくして、敬愛園に樹木希林さんという人がやってくるという話を聞きました。私はテレビを観ないので樹木希林さんが誰なのかも、まったくわかりません。当日は大雨が降っていて、私はずぶ濡れになって帰ってきたところでした。手近にあった服に着替えていると、「上野さーん」と声を掛けられ、女の人と、竿の先にカメラみたいなものをつけて撮影するスタッフさんがいらっしゃいました。私は、どこのおばちゃんかなと思って、「どこから来た人ですか」と訊きましたが、名前も言わない。
「変なおばちゃんだねー、近くの農家の人かなんかかねー」と思いながら部屋に上がってもらい、てんぷらを食べさせてあげたんです。その様子がテレビで流れたそうです。あとで聞いたら、その女の人が樹木希林さんだったそうです。
テレビを見た沖縄の家族からは電話がかかってきて、「あなたは全国各地で立派に講演活動をしていると聞いているが、いつも家ではあんな格好をしているのか。もう少しましな服はないのか」と文句を言われました。そのとき着ていたのは穴の開いたようなシャツと半ズボンでしたからね。
原作者のドリアン助川さんとは鹿児島で開催された『あん』の上映会でお会いしました。このときも天ぷらをいっぱいつくってもっていきました。この人が主人公のモデルです、と言って舞台の上で紹介してくれました。ドリアンさんは私のような者にも丁寧に挨拶してくださる、とても立派な方です。最初は、「どこのおじさんかねー」と思って見ていたんですけどね(笑)。
国賠訴訟のときは朝3時半に敬愛園を出て、裁判所のある熊本まで通った
自治会長の岩川洋一郎さん(左)と。かつては自治会などなくてもいい、と思っていたが、2009年に女性初の自治会役員となった
上野さんのライフストーリーは紙芝居にもなっている
国賠訴訟の裁判のときは朝3時半に敬愛園を出て、裁判所のある熊本まで通いました。私はとても乗り物酔いをするので、毎回洗面器をもって車に乗るんです。判決が出た2001年の5月11日は遺書を書いて、貯金通帳と一緒に机の上に置いて家を出ました。裁判を起こそうと立ち上がったとき、まわりのみんなに反対されて、いろいろ迷惑をかけました。負けたら生きていられないと思ったんです。
裁判が始まった当時、私は敬愛園の図書室で図書係をしていました。そこで本を借りにくる人たちに「国賠訴訟の原告になってもらえませんか」と話をしていたんです。それが理由で図書係も辞めさせられました。当時の自治会長さんとも大げんかをしました。そんな経験から自治会なんてない方がいいのではないかと、ずっと思っていたんですね。
そんな私が自治会に関わるようになったのは、自治会長の岩川さんから入所者の生活や待遇改善のために、自治会はなくてはならない存在なんだと教えていただいたからです。国賠訴訟でお世話になった弁護士の先生からも、もう裁判は終わったんだし、自治会の人とも協力していくべきですよとアドバイスされました。
まわりの人から笑われても構わない、今まで誤解していたのだから、つぐないのためにもやらなければと思いました(※上野さんは2009年に敬愛園初の女性自治会役員となり、その後、自治会副会長に就任)。今では自治会の活動に無関心だったことを後悔しています。私は今年90歳ですが、副会長をやる人がいないということで、さらに2年引き受けました。まだまだがんばらなければいけないですよ。
もし病気でなかったら、ひめゆり平和祈念資料館で同級生と一緒に、おかっぱ頭の写真で飾られていたと思います。あそこには沖縄戦で亡くなった同級生の写真が何人も飾られているんですよ。私もあのなかにいたかもしれないのに、病気を得たために鹿児島へ来て、長生きをした。講演活動、啓発活動というかたちで子どもの頃の夢だった先生のようなこともしています。なにか使命のようなものがあってハンセン病になったのだろうか、今はそんな風に理解していますよ。
ふるさとのことは、いつも思っています。沖縄本島には何度か行ったことがあるんですよ。今年(2017年)の2月にも行く予定です。鹿児島県庁舎訪問、県内めぐりに行くときは、いつも琉球のお祭り衣装にミルクのお面(※ミルク神。八重島の祭りに登場する善神で弥勒が語源といわれる)を被って踊るんですが、私は13歳までしか沖縄にいませんでしたので、踊りの方は自己流。沖縄ではよう踊らんかったですよ(笑)。
石垣島には77年間、帰っていません。両親のお墓参りもしたいと思っていますが、石垣島には敬愛園を出て社会復帰した人がいて、私が帰ることで迷惑をかけるのではないかと心配しています。病気が治ったといっても、手が曲がっているといって認めない人もいるでしょう。私の手は火傷の後遺症で曲がったものなのにね。帰るべきか、やめるべきか。今の気持ちは、ふたごころですよ。
講演活動は要請があれば、全国どこへでも出かけていきます。北海道に行ったこともあるんですよ。一昨日は佐賀まで8時間かけて行ってきましたし、明日は福岡で講演があります。敬愛園を朝6時に出発する予定ですが、国賠訴訟のときのことを考えれば全然つらくありません。藤田三四郎さん(※栗生楽泉園自治会長)が「一生青春・一生勉強」と、いつも言っていますが、私もその思いで、がんばっていきたいと思っています。
取材・編集:三浦博史 / 撮影:川本聖哉