People / ハンセン病に向き合う人びと
「自治会がなにをしているかは知っていましたが、
自分が関わるようになるとは思っていなかったです」。
そう語る山本さんが自治会役員となったのは、
入園から20年近くが経った1979年のこと。
そして架橋運動が、翌1980年から実現へ向けて大きく動き始める。
「人間回復の橋」と呼ばれる邑久長島大橋。
全長150メートル足らずのこの橋は、どんな意味をもっているのか。
Profile
山本 英郎氏
(やまもと ひでお)
1940(昭和15)年生まれ。1960年、20歳のときに発症し、京都大学でのちに邑久光明園園長となる原田禹雄氏からハンセン病の告知を受ける。同年、邑久光明園に入所。1979年の自治会選挙で指名され、副会長に抜擢された。就任直後から邑久長島大橋架橋が具体的進展を見せ、一連の運動でも大きな役割を果たした。
礼拝堂と娯楽室を兼ねて1939年に建てられた光明会館。収容人数およそ千人で、当初は礼拝堂と呼ばれていた。現在の建物は95年に新築されたもの
20歳です。1960(昭和35)年でした。発症したとき、子どものときから知っているかかりつけの町医者に行ったんですが、最初はなんの病気かわからなかったんです。その病院には夜になるとインターン(医学研修生)が来てまして、その人の勧めで京都大学で精密検査を受けることになりました。病名の告知などはされませんでした。
何日か経ってから京大の皮膚科で診察を受けたんですが、ちょっとだけ診察して、すぐ研究施設の方に回されました。京大にはハンセン病の患者が入院できる施設があったんですね。そういう施設は、当時京大にしかなかったんじゃないかと思います。
電子顕微鏡で菌検査をして、これはハンセン病に間違いないということで告知をされました。このとき私に告知をされたのが、のちに光明園に来られる原田禹雄(はらだ・のぶお)先生です。(※のちに光明園医師、長島愛生園医師を経て光明園園長)
病気のことはよく知りませんでしたが、これは人生終わりだと思いましたね。国道を後ろから大きなトラックが走ってくるのを見て、あれに飛び込んだら一巻の終わりということになるんかなと、そんなことも一瞬だけ考えたりしました。
それで京大に入院して数日経ってから「これからどうするか」と訊かれるわけです。ずっとここで治療するか、それとも療養所へ行くか、という意味ですね。京大に入院して治療を続けることもできるんですが、その代わり治療費は実費負担になるんですよ。
たしかベッド代が210円くらい。10日ごとの精算で毎月7500円。当時は高卒の初任給が6000円くらいでしたから、これは経済的にとても無理だと、すぐわかりました。うちの親父は、ぼくが中学2年のときに病気で亡くなっていましたし、母親もいません。兄弟姉妹5人だけで生活していましたから。
光明園に着くと福祉課の職員が2名、それから自治会役員が2名迎えにきていました。最初に言われたのは「本名にしますか、それとも偽名にしますか」ということでした。「宗教は何にしますか」とも訊かれました。これは後々わかったことですが、当時園内の葬儀は各宗教団体がとり仕切ることになっていたんです。それで宗教を決めてくれと言われたわけです。ということは、宗教に所属していないと葬儀ができないということです。
名前は偽名にしました。山本英郎という名前は、そのとき自分でつけたものです。宗教は家と同じような宗教にしとこうということで、浄土真宗を選びました。
それから各科の検査を受けるために2週間ほど収容所(予診室)におりました。検査を受けたあと軽症者棟へ移ったんですが、当時の舎は大部屋で15畳の部屋に6人が暮らすという状況でした。気心もなにもわからない40代、50代の人たちと寝食をともにするというのは、かなりきつい経験でしたね。
最初にやった患者作業は風呂の脱衣係。当時、園内には視覚障害者の方がたくさんおられましたが、この人たちが月水金の週3回、朝風呂に入る。そのときに衣類の脱着を手伝う係です。それを朝2時間やって賃金がたしか34円でした。
患者作業では付き添い業務もやりました。あとよくやったのは和文タイプと印刷業務です。自治会からの要請で公文書を打ったり、給食の献立表を打ったりして、輪転機で印刷する。和文タイプは患者作業で印刷をするようになってから覚えました。
もっぱら海釣りです。2時間仕事したら、もう釣りに行ってしまう。冬場だったらイイダコ釣りやボラ釣り。夏になってくるとキス釣り。このあたりだと小さいメバルも釣れましたし、あとはアイナメですね。夏場になると15畳の大部屋に竿をずらっと並べて、竿の手入れしたりもしました。最近はさっぱり釣れなくなってしまいましたけどね。
公文書を和文タイプして印刷してましたから、自治会でいまなにやってるかとか、そういうことは知っていました。施設に対する要望書、各園への公文書とか、そういう書類を目にしていましたからね。でも、そのときはあまり関心はもっていなかったです。仕事片付けて海釣りに行く方が大事でしたから(笑)。
2008年から会長を務める屋猛司さん(左)と。全国の自治会では若手と呼ばれる2人だが山本さんが77歳、屋さんが75歳。高齢化は邑久光明園自治会にとっても切実な問題となっている
1979年の自治会選挙で役員になる人がいなかったんですよ。自治会は普通、総務、厚生、生活委員の3役員がいて、その上に自治会副会長、自治会会長という組織構成になってます。1979年は全患協の支部長会議がある年で、前年に会長をやっていた方が「支部長会議に出るのは体調の問題もあって無理だから、他の人にやってもらいたい」といって望月(拓郎)さんを推薦したんですね。当時の光明園自治会は役員になる人もいない、選挙管理委員も人手不足、そんな状況でした。
役職どころか私はヒラの寮長で、自治会にすら入ってなかったんです。ぼんやり望月さん大変やなあと思っていたら、なんと「山本君、こうなったら君が副会長をやらないかんぞ」と言われました。驚きました。ヒラの寮長がいきなり自治会副会長だっていうんですから。普通だったら、そんなことあり得ないわけです。
ところが当時自治会の役員候補は、私を入れても4名しかいなかったんです。総務、厚生、生活委員長、3名の役員は決まっている。あとは君が副会長やらないとしょうがないぞ、と言われましてね。それで自治会に足を突っ込むことになったわけです。釣りばかりしていた当時の自分からしたら、思ってもみないことでした。
79年からは2期(※光明園自治会の役員任期は1年なので2期=2年)やって1年休む、また2期やって1年休む、というサイクルでずっと自治会に関わってきました。85年にも副会長をやって、翌年86年は自治会長もやりました。自治会の仕事を休んでいるときは全患協の瀬戸内中央委員もやりましたね。
中央執行委員をやっていると、全患協運動のこともわかってくる。同時に各園の支部長会議で全国の自治会長と会ったりしていくうちに、各園の状況もわかってくるわけです。そうやって段々にはまりこんでいったという感じですね。こうなったらもう縁を切れないですよ。そういった流れのなかで邑久長島大橋の架橋運動にも、ごく自然に関わっていったんです。
架橋までに20年近くの年月を要した邑久長島大橋。橋長150メートル足らずの橋だが「長島が孤島でなくなる」ことには大きな意味と意義があった
山本さんは和文タイプや印刷の仕事を通じて、邑久光明園の自治会活動、文芸などに長年接してきた
そうです。長島と対岸の虫明の間にある「瀬溝」はだいたい30メートルですから、歩道橋を架けたらいいんじゃないか、というところから話が始まりました。70年に光明園で支部長会議があったんですが、このときに光明園の整備費を使ってもいいから瀬溝に歩道橋を架けようじゃないか、という話が出たんですね。当初は光明園が自分のところの予算でやるという計画でした。
ところが歩道橋といっても、そう簡単じゃないんです。、第一に瀬溝を通行する漁船が通れるようにしなければいけない。そうするとかなり高いところを通す必要がある。思ったよりも予算がかかりそうだ、ということがわかってきた。
もうひとつは、どうせ橋を架けるのだったら自動車も通れる橋にしようじゃないかという意見がありました。そこで72年に愛生園と光明園合同で「長島架橋入園者促進委員会」というものをつくって、そこで構想を進めていくことになったんです。本格的な要請が始まったのは、ここからでした。
ちょうどその頃、地元虫明の中学生が書いた詩が岡山県の児童生徒詩文集に取り上げられて、話題になったんです。長島のお祭りに虫明の人が行くことはなく、虫明のお祭りに長島の人が参加することもない。それはどうしてなのか。なぜ長島に橋を架けないのだろうという疑問をつづった詩で、これが大きな反響を呼んだんですね。「交流祭(むすびまつり)」という詩で、書いたのは裳掛中(現・邑久中学校)の一年生だった野崎やよいさんという方です。詩の冒頭はこんな感じです。
虫明と長島の間には
呼べば届くほどの
狭い瀬戸内海の流れだけど
でも
虫明と長島の間には
もっともっと大きなへだたりがある
長島と大阪の学生より
もっと距離がある
やよいさんは素直な目で見て、率直な気持ちを書いているわけですよね。この詩は70年、岡山市民会館で開かれた「らいを正しく理解する集い」でも朗読され、山陽新聞などでも取り上げられました。
まだ自治会に関わっていない時期でしたが、たいへん勇気づけられました。事実、この詩がきっかけとなって架橋を要求していこうやないか、という話が具体化していったんです。全患協の要求項目でも長島の架橋問題がトップにくるようになったそうです。ひとつの詩が長島に橋を架けようという連帯を生んだんですね。
それで地元邑久町、岡山県、国会議員、厚生省(現・厚生労働省)などに対して要請を始めました。ところが架橋運動はまったく進展しなかった。毎年、国会議員要請に行ってもいい返事はもらえない。地元選出の国会議員も、この地区だと5名ほどおられるんですが、陳情に行ったときは、「よし、わかった」と言ってくださるんですが、なんの進展もない。
私が自治会に入った79年当時も、まわりの人たちから「まだ割り箸委員会とかいうもんをやっとるんか」と、さんざんからかわれました。最終的に橋が架かるまでに19年かかったわけですからね。
状況が変わってきたのは、園田直さんが厚生大臣になった80年。このとき、大臣への直接交渉が初めて実現したんです。このときは愛生園と光明園から貸切バスを連ねて出かけていきました。大臣室を訪ねていくと報道陣が詰めかけていて、カメラマンもたくさんいる。明くる日に新聞でも大々的に取り上げられたんですが、蓋を開けてみるとやはり進展はなかったです。
結論としては、それまでと同じく架橋問題は公共事業方式でやるべきである、ということでした。地元負担の大きい公共事業方式では予算的に無理だと邑久町は最初から言っていましたから、これではまったく話が進んでいないわけです。
81年の年末です。地元岡山選出の国会議員、橋本龍太郎さんから東京の復活交渉に来てほしいという連絡がきて、長島2園の自治会長、架橋委員長、邑久町長、岡山県の担当などが一緒に東京へ出かけていきました。このときに橋本さんから「架橋問題は公共事業方式では難しい。大蔵省と厚生省に働きかけようと思っている。全国の療養所、残り11ヵ所の意見をしっかり取りまとめてほしい」と言われました。
年が明けると予備調査費もすぐ認められて、これは大きく前進したなと感じましたね。厚生省単独の予算で橋を架けるというのは、それまで前例がなかったわけで、そういった意味でもすごいことだったと思います。
さまざまな反対がありました。橋が架かる前、地元のテレビでドキュメンタリー番組がつくられたことがあったんですが、そのときも「病気が治ったのなら、生まれ故郷に帰ってもらったらいいじゃないか」「病気の人たちが橋の上を通るのは不安だ」という声がまだまだありました。
光明園内の署名運動でも、地元から来ている看護師さんは署名してくれなかったですね。地元に架橋反対という人が多くいましたから、署名をするわけにはいかないんですよ。署名したことがわかったら、地元の人たちから非難される。
ですから橋ができるまでに一番苦労されたのは当時、邑久町町長をしておられた木下さんだったと思います。これは後々知ったんですが、町の助役さんなども毎晩遅くまで住民の説得に行ってくださっていたそうです。住民のほとんどが漁師さんですから、昼間行っても会うことができない。それで夜出かけていくわけです。
そんなこともあって1988年5月9日の開通式は、まさに感無量でした。天気は快晴、光明園、愛生園とも当時はまだ入所者数も多かったですから、とても華やかでした。まず邑久高等学校の吹奏楽部がパレードして、それから愛生園と光明園の最高齢者、男女4名が先頭になって渡り初めをしました。そういえば橋が開通した当時、まだ園内道路は舗装されていなかったです。88年でもそんな状況だったんですよ。
お世話になった方には虫明焼の猪口と徳利、各園には邑久長島大橋の絵が描かれた湯飲み10個セットを送りました。開通式のあとは園内で紅白餅をまいたり、鏡開きしたりもしました。夜は恩賜会館に全員集まって大祝賀会です。楽しかったですねえ。
一番最後まで議論になったのは長島側にゲートをつくるかどうかです。当初はゲートをつくるという話になっていて、すでにコンクリート製の検問ゲートも完成していました。つくった理由は夜間の安全確保と遊漁者(※釣り客、貝掘りをする人など)の規制。昼間は開けておいて、夜間だけ閉めておこうということになっていました。
ところがこれが新聞、テレビで取り上げられて「地域社会との交流という架橋の目的からすると、検問ゲートをつくるのはおかしいではないか」という話になっていったんです。それでいろいろと話し合った結果、最終的に検問ゲートは撤去することになりました。
そうかもしれません。それでゲートを撤去して、代わりに案内所をつくりました。当初はロータリーがあって大型車は通れなかったんですが、これも後に改修して入れるようにしたんです。開通当時調べたときは1日1500台の車が通行していたんですが、今はもっと多いでしょうね。
2016年に竣工した「せとの夢」。国立療養所の敷地内に特別養護老人ホームができるのは全国でも初の事例。各種行事への参加など交流活動も進んでいる
いつでも好きなときに島から出られる。これはやはり大きな違いです。以前はどこかへ出かけて帰ってきても、最後は船に乗らなければならなかった。昔は虫明地区に駐車場を借りている人が多かったです。出かけるときは瀬溝の渡し船に乗って虫明まで行って、そこから自分の車を運転して出かけていく。帰りは駐車場に車を止めて、荷物だけもって渡し船に乗って帰ってくるんですね。その必要がなくなったのは、やはり大きな違いですよ。
花見、納涼祭、カラオケ大会など催しがあるときはおたがいに招待して、積極的に交流しています。邑久光明園の考え方は「施設ごと社会復帰しよう。そのなかで地域との交流を深めていこう」というものですから、その考えにも合っていると思います。こういったこともすべて橋があるからできたことですね。
邑久長島大橋開通から来年(2018年)で30年。自治会としても来年は何かしないといけないなと思っています。20周年のときも「邑久長島大橋 祝20周年」というアーチをつくってお祝いしてるんですよ。邑久光明園の平均年齢(※2017年8月現在86歳)を考えても、40周年を自治会主催で祝うことは難しいでしょうから、ぜひ盛大にやりたいと思っています。
取材・編集:三浦博史 / 写真:長津孝輔