ハンセン病制圧活動サイト Global Campaign for Leprosy Eliimination

世界の島は語る

小鹿島

日本の占領下で行われた隔離政策、定着村事業を経て、新しい共生の時代へ

韓国南部の全羅南道沖の小島。日本の植民地時代の1916年、当時の朝鮮総督府によりここに「小鹿島慈恵病院」が開設された。

入所者の強制労働により施設を拡張、1940年には最大6千名を超えるハンセン病患者を収容した。島内では患者地帯と職員地帯を分けるなど厳しい隔離を行うとともに、懲罰としての断種や職員からの暴力など院内の生活は過酷を極めた。

戦後、韓国政府が隔離政策を引き継いだが、1960年には隔離主義を法律上放棄した。
1960年頃から、差別や偏見のため社会復帰が困難であった回復者が、集団である土地に入植し、農業や畜産で生計を立ていく、「定着村事業」が開始され、社会参加が進んでいった。

2007年、小鹿島と本土との間に橋が架かったことにより、多くのボランティアが集まり、共生の歩みを始めた。2008年には日本占領下の小鹿島入所者に対し、賠償金が支払われた。現在、島には約400名の入所者が生活しているが、偏見と差別は依然根強い。

小鹿島(ソロクト)

国:大韓民国
面積:4.46㎢
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小鹿島更生園は四百九十六町部歩あるから長島の三百十八町歩よりは遙かに広い島で、全羅南道の鹿洞から三町の海峡に在る。
水道も島内で簡易水道が出来、電力は島内で火力発電である。そして収容癩患者六、〇〇〇名、男四、一一八名、女一、八八二名であるから男二人、女一人強、内地よりは女性が少し多い割合である。周防園長の話では大約六区に分けて、其一区を一看護長が統率して其看護長の命令のままに患者が服従して行き、衣食住の分配、管理、清潔保持、各種の作業等の日常生活が滑らかに行われる。
(中略)
要するに世界一と云われた比律賓「クリオン」に比するに収容人数は相同じであるが彼等の(クリオン)患者住宅は粗末なる小屋掛けが多く大風一過すれば吹飛ぶが如き棕櫚葺屋根である。更生園は一小家屋と雖も堅牢なる煉瓦造である。近来南米の「コロンビヤ」には七千人を入れる療養所が出来たと聞いたが恐らくは設備万端に於て更生園の右に出でるものはないであろう。

光田健輔 「愛生」1940年 より抜粋

※カッコ内は補足、仮名遣いも変更しています。

小鹿島(ソロクト)にまつわる写真

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小鹿島(ソロクト)の軌跡

1910年日韓併合

1916年小鹿島慈恵医院を開設

  • 療養所の職員 1928年

1931年癩予防法施行

1935年拡張工事開始 / 島内に刑務所設置

  • 患者作業により造られる道路

  • 患者作業により造られた煉瓦

1942年園長が入園者により刺殺

1945年日本、無条件降伏 / 朝鮮人職員による患者大虐殺

1947年DDS治療始まる / 最高入園者(6,254人)

  • 愁嘆場
    1950~1960年代、島を職員地帯と病舎地帯を分けていた。感染していない自らの子供との面会は月に一度、風上と風下一列に並び行われた。

1960年隔離政策の転換 / 定着村事業開始

1974年監禁室撤廃

1996年小鹿島80周年 / 小鹿島生活資料館開館

2006年日本統治下の入所者に補償が決定する