ハンセン病制圧活動サイト Global Campaign for Leprosy Elimination

Leprosy Sanatoriums in the World / 世界のハンセン病療養所

Purulia / India

プルリア療養所

インド

インド初のハンセン病患者のための
救護施設

140年の歴史を持つ、英国救らいミッション(The Leprosy Mission)が、インドに初めて開いたハンセン病患者のための救護施設。

インド東部の州、西ベンガル州の西の端、チャッティスガール州に近い農村地帯にあるプルリア県は、昔からハンセン病患者の多い地方であり、ヒンドゥの巡礼の地でもあった。病のため自分の村を追われて巡礼・放浪する患者が多く、当時インドで布教活動中であったドイツ・ルーテル派宣教師のハインリッヒ・ウフマンがその窮状に心をいため、1884年にクリスチャン墓地の一角に救護施設をつくったのが、プルリア療養所の始まりである。

1888年ドイツ・ルーテル派から英国救らいミッション(TLM)が運営を引き継ぎ、広大な土地に医療施設、住居、教育施設、生産、農耕・牧畜など関連施設を徐々に整備し、患者たちが定着して、療養しつつ生計を立てられるように計画された一大療養所となっていった。

Chronicleプルリア療養所のあゆみ

  • 1874年

    アイルランド出身のウェルズレイ・ベイリー(Wellesley Bailey)によって、らい者救済ミッション(Mission for The Lepers、後の英国救らいミッション The Leprosy Missions)が創設され、インドでの患者救済活動がはじめられた。

  • 1884年

    ドイツ ルーテル派宣教師、ハインリッヒ・ウフマンが放浪するハンセン病患者のための施設をプルリアに開く。

  • 1888年

    英国救らいミッション(TLM)がプルリアの救護施設の運営を引き受ける。

  • 1906年

    プルリア療養所の敷地内に60の各種建造物が完成していた。

  • 1925年4月

    マハトマ・ガンディーがプルリア療養所を訪問。

  • 1935年

    宿舎や施設が増築され、入所者が800人に達していたが、押し寄せる入所希望患者全員を受け入れられない状況が報告されている。

  • 1940年代

    DDSによる治療が開始された。障がいの重い患者を除き、症状の改善された患者は外来診療に切り替えて、入所待ちの重症患者を受け入れた。

  • 1948年

    ハンセン病院・療養所のモデル施設として国内外に知られるようになる。

  • 1952年

    エディー・アスキュウ(Eddie Askew)がプルリア病院・療養所の所長に就任し、医療水準の向上に力を注いだ。南インドのヴェロア医科大学から、画期的な形成外科手術法を開発したポール・ブランド博士(Paul Brand 英国人)を招聘。形成手術とくに腱移植による手足の機能回復術を実施。同時にプルリアで現地の医師に対する技術研修を行い、2年後にはプルリアの病院の医師による腱移植術が行われた。

  • 1950・60年代

    サルフォン剤(DDS)の治療効果により、プルリアは終生滞在型の療養所から医療中心のハンセン病専門病院へと徐々に転換を図っていった。

  • 1982年

    MDTの導入。

History1935年当時の記録より

プルリア療養所は街から2キロあまり離れたところにあり、周囲を囲む外壁や出入りを遮断する門もないけれど、街道から病院に至るまでの長い一本道は、社会との隔絶を象徴するには十分であった。開設から47年後の1935年、当時の牧師夫人はプルリア病院・療養所の様子を次のように記している。

長い一本道を辿ってたどり着く病院は、先人たちの努力で菩提樹の大木や沙羅の樹々の豊かな緑に囲まれています。中央通りの両側には高い並木が連なり、その左右には男性宿舎、女性宿舎がずらっと並んでいます。一つの宿舎には部屋が3つあり、一部屋に4〜5人ずつ、全体で800人近い人々が住んでいます。その先の白い建物は注射室で、トレーニングを終了した男女の患者たちが医師の指導の下で注射を担当しており、近くの薬局では患者の息子たち(健常者)がトレーニングを受けたうえで処方をしています。中央通りのずっと先には唯一の売店があります。敷地の真ん中には大きな「良きサマリア人教会」があり、朝と午後の礼拝が守られています。その先の低い建物は傷の洗浄と手当てをする処置室です。10年ほど前までは入所者たちが働くということは考えられませんでしたが、治療の効果が出て、いろいろな仕事が出来る人が増え、心身の健康のためにも働くのが望ましいと考えられるようになりました。病棟の建設や庭園の管理ばかりでなく、病棟での介護をすすんで手伝う人もでてきました。外来治療棟や遠方から注射に通ってくる患者のための短期宿泊所も入所者たちの努力で出来ました。このほか子どもの患者のために男女別の寄宿舎と学校があり、成人患者たちが聖書を読めるようにと識字学校もできています。この他に、男性用、女性用別々に藁ぶきの小さなあずまやがあって、相談事とお祈りの場となっています。牛舎や鍛冶場、製靴作業場の他、入所者たちはみな看護や傷の処置、注射介助、教師、庭師、農業、大工、煉瓦工など、それぞれ自分の役割をもって生活しています。1906年までに60棟の建物が建てられていました。

療養所内にはこの時期までに、①患者宿舎、②子どもの患者宿舎、③経過観察児童宿舎、④未感染児童宿舎の合計4種の宿舎があり、そのいずれもが男女別に作られていた。施設内での性別による隔離は厳しく「プルリアでは、男女は中央を壁で仕切られた建物の両側で暮らしていた。施設内の店ですら、片側は男性用に、もう一方は女性用になっていた。」

入所者が増加した背景には、各地で患者の就労禁止、職業制限などの規制がすすみ、患者たちが生きる場所を失っていった現実があった。その一方で、療養所の大規模化には、施設維持のための労働を入所患者に依拠せざるを得ないという双方向の利害が合致していたという面もあった。

Historyプルリアと子どもたち ―
「経過観察児」ホームと「未感染児童」ホーム

子どもへの感染を防止することは創設当初から医師たちの大きな関心事であった。「病気になってしまった人たちを救うことは出来ないとしても、予防することは可能なのではないだろうか」。親から子への感染の防止が、究極的にこの病気を無くすことにつながるのではないかという当時の知見もあり、プルリア療養所でも「非感染児童」のための男女別のホームが、患者地区からはやや離れた、医師や職員居住区に近い台地に建てられていた。この他、すでにハンセン病が疑われる子どもたちには「経過観察」のためのホームもあり、これも男女別に作られていた。

親子間の感染防止は1906年以降の国際ハンセン病学会でも繰り返しテーマとなり、重要視されていた。英国救らいミッションでは、1930年代以降、非感染児童を育成し、その中からプルリア病院・療養所を支える技能職を養成するという方針をとっていった。その結果、技能訓練を受けた彼らは社会復帰の成功例となり、施設外に定住して家庭を持ちつつプルリア病院・療養所を支えていった。

Historyプルリア病院・療養所での治療

手の形成外科手術を受けた子どもたち。手術と術後とリハビリ指導中は入院する。

プルリア病院の創設当初から大風子油による治療が行われ、一定の効果を示していた。大風子油およびその誘導体の治験では世界的に知られた医療機関であった。1940年代にサルフォン剤が発見されると、プルリア病院・療養所は直ちにサルフォン剤効果の測定にかんする国際的な中心機関となっていった。

サルフォン剤の治療効果により、1950〜60年代以降、プルリア病院・療養所は長期入所型施設から、形成外科、潰瘍の処置、らい反応や神経炎への対応、眼科処置など、治療を主とする専門性の高い病院への転換の時代を迎えていった。

インドでは今も、新しくハンセン病と診断される患者の20人に一人は、診断時にすでに手や足などに変形がみられる。これは、病気の発見の遅れを意味しており、すでに神経がらい菌に侵されて変形がおこり、薬で復元することはできない。いうまでもなくハンセン病特有の手足の変形は、偏見と差別の対象となる。それだけに、腱移植術など形成手術とリハビリで少しでも正常な形を復元し機能も回復させることは、病者の将来にとり極めて重要である。プルリア病院は形成手術専門病院としても大きな貢献をしている。

Present周辺地域のハンセン病コロニー

入所患者を両親にもつ健康な子どもたちが療養所内で育ち、教育や訓練を受け、病院・療養所のスタッフとなって療養所の外に定着する一方で、療養所の敷地内で自立生活を営んでいた患者たちも、治療の完了とともに徐々に周辺地域に移住し、定着村・コロニーを形成していった。その結果、今日のプルリア県(人口は約300万)とそれに隣接するバンクラ県(人口370万)にはハンセン病の定着村・コロニーが多く生まれ、回復者の主導でコミュニティを形成しているところが多い。

プルリア県にはシマンプール、ジャムナバンダ、マニプールと3つのハンセン病コロニーがある。なかでもマニプール・コロニー(MLRC)は県の福祉NGOとして登録されていて、回復者のスワパン・バナジー、ナバクマール・ダスの両氏が回復者の生活改善と自立、子弟の教育、就労などの活動を維持しつつ運営に努力している。隣接するバンクラ県にも5つのハンセン病コロニーがあり、県レベルのリーダーはジョーゲン・ダス氏。

MLRCのスワパン・バナジー氏は西ベンガル州全体のコロニー組織をつなぎ、生活の向上、住居の改善、教育、権利の戦いを指導してきた回復者のリーダー。今日では、ダス氏たち後輩のリーダーが、第2、第3世代を中心とするハンセン病コロニーの将来像を求めて、地域の行政当局やNGOの支援を受けつつ努力を続けている。

プルリア病院と英国救らいミッションが共同で、学生たちの手によるハンセン病の早期発見を促す宣伝活動を展開している。

Presentプルリア病院の今

浮浪する患者のための救護施設として開設してから130年後の今日、プルリア病院は、皮膚科、眼科、外科、産科、一般外科、整形・形成外科、義肢装具、理学療法科を備え、入院病床80をもつ県内の高度医療機関となった。年間外来は49,000人近く、その内ハンセン病関連は10,452人を数え(2013年)、治療とリハビリテーションと研修を含むハンセン病の専門病院であると同時に地域の総合的医療機関としての機能を果たしている。2013年には、プルリア病院で年間で797人のハンセン病の新患を診断。内127人は子どもの患者であった。当然ながら全員外来で治療が行われた。

(参考)
プルリア病院はThe Leprosy Mission Trust India(TLMTI TLMインド)が運営する医療機関。TLMインドは独立した組織として、The Leprosy Mission Global Fellowshipに加盟している。TLMインド はインド国内の9つの州で次のような施設を運営し活動を展開している。ハンセン病及び一般病院14、ハンセン病回復者・子弟職業訓練施設6、ハンセン病高齢者介護施設1、分子生物学研究室1、コミュニケーション研究所1、コミュニティプロジェクト10。これらの活動に従事する職員は900人である。