Umbaki / Azerbaijan
ウムバキ療養所
アゼルバイジャン
Leprosy Sanatoriums in the World / 世界のハンセン病療養所
Umbaki / Azerbaijan
アゼルバイジャン
大コーカサス山脈の南、カスピ海に面したアゼルバイジャン共和国。エネルギー資源に恵まれた人口約1000万人のこの国は、1991年独立までの70年間ソビエト社会主義連邦の一国であった。ソ連邦南コーカサス地方で唯一のハンセン病隔離施設は、1926年首都バクーに開設された。その後、数回場所を変え、1957年にバクーの南西約80キロ、ゴビスタン砂漠の中のウムバキ集落のはずれに移転した。
ウムバキ療養所は主として南コーカサスの3カ国、アゼルバイジャン、ジョージア(グルジア)、アルメニアの患者が対象で、当時は300人近い患者が収容されていた。
旧ソ連邦地域のハンセン病に関する情報は限られているが、地域内では治療法などを巡る文献が多数蓄積されていることは、一部英訳された報告などからも推察される。
旧ソ連邦のハンセン病対策と研究・治療の中心は、ロシア南部、カスピ海に近いアストラハンのハンセン病研究所であった。このほかソ連国内には極東のヤクーツク、コーカサス黒海地方のアビンスキ、コーカサス、チェチェン国境に近いテルスキ、ドン河下流のロストフ・ナ・ドヌの各療養所、加えてソ連邦内のウクライナ、ラトビア、カザフスタン、アゼルバイジャン、タジキスタン、カラカルパクスタン等の療養所医師たちとの間でハンセン病の症状、治療などの情報の交換が行われていたことが報告されている。1950年代のサルフォン剤の導入で、1955年の後半までに、48%の患者が療養所を退所し、外来治療となっていた(S.F.Shubin)。
しかし、サルフォン剤治療は長期の観察を必要としていたこともあり、いずれの国でも患者は生涯にわたって登録され、外来患者として管理された。ロシアの場合、退所した患者は定着村に戸建ての住居が与えられて、年金と生業により自立が可能であったが、担当医には常に患者の所在の把握と定期的な検診が義務づけられていた。1960年代にはアストラハン郊外の荒野を切り開いて、約1000人規模の定着村ウォストクノエが開設された。この村も今日ではハンセン病歴を持つ家族は十数戸となっている。
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現在、この地域の保健衛生情報はWHOヨーロッパ地域事務局が集約している。ヨーロッパ、ロシア、中央アジアの53カ国の保健情報がを集められているが、毎年WHOが公表する世界のハンセン病統計にこの地域の状況は反映されていない。新しい患者の数が極めて少ない現状から、詳細な統計把握の対象から外されているものと思われる。しかしながら、今もなおハンセン病による障がいをかかえ、差別と排除の中で生きる少数の人々がいるということは、統計の有無とは異なった現実として忘れてはならない。
首都バク―からカスピ海沿岸に沿って石油関連施設が続く
アゼルバイジャン、ソビエト連邦の一部となる。
ハンセン病患者の隔離収容施設をバクーに開設。
ウンバキ村のはずれに療養所を移転。
アゼルバイジャン共和国独立。
独立後、トルコのハンセン病専門医トゥルカン・サイラン、国境なき医師団などが訪問。
ロマーナ・ドラビク医師訪問(第1回目)MDT薬品を携行提供。
アゼルバイジャン全体の登録患者95 (一部非入所者含む)。
ロマーナ・ドラビク医師訪問(第2回目)。
入所者の生活必需品のほか、所長の通勤用車両Ladaを提供。
Community Shield Azerbaijan (コミュニティ・シールド・アゼルバイジャン バクー在住英国系企業駐在員によるボランティア組織)による支援が始まる。
バクーのジャーナリストによる記事「アゼルバイジャンの隠されたらい患者」がIWPRのホームページに載る(入所者数36人。全国的には55人登録)。
ロマーナ・ドラビク医師訪問(第3回目)。
保健副大臣のウムバキ療養所訪問を実現。
バクーのボランティア組織Community Shield Azerbaijanによる居住家屋の全面改築が完了した。
(エストニアのクーダ療養所閉鎖)
(ラトヴィアのタルシ療養所閉鎖)
WHOハンセン病制圧大使 笹川陽平氏訪問(入所者数30人)。
ウムバキ療養所を舞台にした映画「Məhkumlar」(囚われた人)が公開された。医師と患者の恋愛、中絶、殺人、自殺などセンセーショナルな内容であった。
ロマーナ・ドラビク医師訪問(第4回目)(入所者数11人に減少)。
保健省の担当医とバクーへの移住を含む介護環境の改善を協議。
1936、英国王立医師会関係者のソ連訪問報告によると、①ハンセン病患者は登録が義務づけられている。②感染性患者は強制隔離、非感染性患者には外来診療が可能であるが、おおむね患者は入所を選択する。③ソ連邦全体の登録患者数は約3000人。内訳はコーカサス700人、トルキスタン1000人、アストラハン600~700人、極東ロシア(ウラジオストク)100人、ヤクーツク30人。④非感染児童(収容患者の子ども)の宿舎が療養所の外にある。療養所内で出生した場合は、生後9カ月で両親から離す。⑤ソ連ではハンセン病対策は危険業務とみなされていて、医師の給与は通常の倍である、等がわかる。
ロシアでは、アストラハン地方、北コーカサス、シベリアの一部(ヤクーツク)などハンセン病患者が多い地域では、伝染病だという認識があり、患者を隔離する小屋が建てられていた。しかし19世紀末以前の医師たちにはハンセン病は非感染性、遺伝性という認識が多かった。
ロシア帝国で最初にハンセン病が記録されているのは18世紀末。当時国境に展開していたドン・コサック隊は、独自の組織を持ち、医療施設も備えていた。ドン・コサック隊の北コーカサスの領地に「ワシリエフスキー・ハウス」という20〜25床のハンセン病の療養施設があった。コーカサス地方のミネラル水や温水、泥療法が傷の治療に有効だとされ、1830〜40年には傷病兵のための温水治療所が開かれていた。1835年ドン・コサック隊に関する規則が公布された。その中には、ハンセン病を感染症とする医師たちにより、ハンセン病院の創設が提言され、患者の隔離、接触の禁止、患者をかくまった家族に対する罰則、罰金が定められていた。
ノルウェイのハンセンによるらい菌の発見については1880年代に専門文献から知られるようになり、ハンセン病は感染症か遺伝性疾患かが、専門家の間で激しく討論された。その結果、当初は遺伝性論が優位であったが、19世紀末には、ほぼ全ての医師が感染症であることを認め、ハンセン病療養所の設立が支持されるに至った(Jushchenko)。
ウクライナ 黒海沿岸のオデッサに近いクチュルガン療養所の入所者の住まい
今は人影も少なくなった、ロシア コーカサス地方テルスキ療養所の病院内部
1998年、ウムバキ療養所を一人のドイツ人内科医が訪れた。ドイツ西部ディンスラーケン市(デユッセルドルフの北約50㎞)の開業医ロマーナ・ドラビクである。ロシア語が堪能であったので、1991年のソ連邦崩壊直後からバルト三国をはじめとする旧ソ連邦諸国のハンセン病状況の把握と支援活動を行っていた。訪問当時アゼルバイジャン全体の登録患者数は95人。若干の外来患者以外はウムバキ療養所に収容されていた。治療はダプソンのみ。ドラビクの訪問により、この国に初めてMDT(複合化学療法)が導入された。
2007年10月この地を訪れたWHOハンセン病制圧大使の笹川陽平氏はその時の印象を次のように綴っている。
アゼルバイジャンのムンバキ(原文ママ)・サナトリウムは、バクーからカスピ海を左に見て舗装道路を南下すること40km。ムンバキ(バクーの母の意)の道路標識をみて右折。ゴビスタン砂漠ならぬ土漠地帯の悪路に入る。全身マッサージを受けているようなガタガタ道を走ること約1時間。突然遠方にこぢんまりとした、木々に覆われたオアシスのような集落が見えた。やっと着いたと安堵したところ、「あの集落にはサナトリウムはありません。少し離れたところに孤立してあります」との説明。しばらく行くと黒い屋根のムンバキ・サナトリウムが現われた。
50年間も改装なしで使用された部屋は、窓は壊れ天井には小鳥の巣がある全くの廃墟であった。幸い、バクーのNGO(非政府組織)の協力でリニューアルされた棟には、小奇麗に飾った部屋に老婆が生活しており、暖かく迎い入れてくれた。入所者は老齢者が多く、グルジア、アルメニア、ロシア、アゼルバイジャンの人達で、現在30名がここで安らぎを得ている。1960年代には170~250人の収容者がいたという。現在のサナトリウムは数百本の柿、ザクロの果樹園の中にひっそりと佇んでいるが、「昔は毒蛇の生息地で真夏の温度は50度を超え、訪ねてくる人もいなかった」と、年老いた回復者が語ってくれた。
http://blog.canpan.info/sasakawa/archive/1153 より
笹川陽平氏のウムバキ訪問は、ロシアと中央アジアのハンセン病問題を追うロマーナ・ドラビク医師の活動と結びつき、2013年、アストラハン(ロシア)でのロシア語圏ハンセン病担当者の会議やハンセン病アトラスのロシア語版出版へとつながった。
アストラハン地方の定着村でハンセン病回復者の女性との再会をよろこぶロマーナ・ドラビク医師
ロシア コーカサス黒海地方のアビンスキ療養所の入所者の住まい
ウムバキ療養所の入所者の住まい
乾燥した荒野のなかのウムバキ療養所。背後に小さな川がある。天然ガスと電気は供給されており、井戸がある。
2002年、バクー在住の英国人ボランティアグループCSA(Community Shield Azerbaijan)が、国際エネルギー関連企業のBPや英・ア両国の友好組織などの支援をうけてウムバキ療養所の支援を開始した。荒廃していた入所者の居住棟を3年計画で一新したほか、5棟の貨物コンテナーを提供し、検査室、洗濯室、シャワー室用に転用。その他発電機、医薬品、バクーに住む所長の通勤用の車両などを提供した。
検査室など用に改造した貨物コンテナーを贈呈。中央は前所長のDr.ヴィダディ アリエフ
ロマーナ・ドラビク Romana Drabik(1936- )
1976年、旅先のケニアで出会ったハンセン病患者の姿に衝撃を受け、医師としてハンセン病にとりくむ決意をした。それから40年、今も旧ソ連邦・中央アジアの国々の患者を訪ねる旅は続いている。ドイツ西部の小都市ディンスラーケン(人口68,000)で開業医をつづけながら、はじめはインドへ、1991年以降は旧ソ連邦諸国へと活動を拡げていった。旅費は原則としてすべて自費。支援物資は、地元ディンスラーケン市民の支援。学校と教会を中心に、今も続く息の長い市民運動が彼女の活動を支えて来た。薬剤師であった夫(2007年没)は欠かせない協力者で、時には陸路をトラックで物資を運ぶという活動にも常に同行していた。
ドラビクは、1991年から2016年までの25年間に旧ソ連邦の16カ国をすべて訪れ、その時点で存在していた全ての療養所を訪問し、ニーズを把握して支援をつづけた。この地域の諸国に、1980年代以降の基準治療であるMDT(複合化学療法)を初めて届け、WHOに対するMDT要請の書式のロシア語版を作成して政府からWHOに要請する道を付けることもした。また、ドイツ救らい協会(DAHW www.dahw.de/)の支援を受けて、医師の交流を実現し、国際会議を通じて旧ソ連邦諸国の医師たちを世界につなげていった。
しかし、ロマーナ・ドラビクが最も心を注いだのは、適切な処置もないままに後遺障がいに耐えて療養所で生きる患者の姿であった。白衣をまとった現地の医師や看護師が見つめる中、ロマーナは普段着のままいつも入所者のグループの中に身を置き、手を取り、足の状況を診て処置を考える。医師たちのなかには、繰り返しロマーナ・ドラビクに接した経験から、医師としての基本的な姿勢を教えられた、と語る人も少なくない。
詩人マハムード マムドフ Mahmud Mahmudov(1939-2016)
アゼルバイジャンの南、アルメニアとの国境近くのレチンの生まれのマハムード。父は第二次大戦に出たまま戻ることはなく、母と二人集団農場で働いた。12才の時から詩を書き始め、新聞にも載った。ウムバキ療養所でも詩を書いているマハムードをボランティアグループCSAのメンバーが知り、2003年に手動タイプライターを供与した。書き溜めたられたアゼリー語の詩はBPの支援を得てCSAにより出版された。故郷を懐かしむ詩が多いという。
ウムバキ療養所の終わりのかたちは定かではない。2003年に訪問したバクーのジャーナリストは「アゼルバイジャンの隠されたらいの患者たち」のなかで、36人の入所者に対して職員が30人。大半は隣接するウムバキ村の村民で、療養所はこのあたりでは唯一の安定した職場である現状から簡単に閉鎖にはならないだろうと記している。隠され、忘れられていくウムバキ療養所とそこに生きた人々。その一方でハンセン病とウムバキを題材に小説が書かれ、歪められたイメージのままに国際舞台で上映された映画もある。
2015年に訪問し残る11人に面談したロマーナ・ドラビクは、バクーで担当のイリーナ・アミローヴァ医師と会い、介護が可能な首都圏の施設への移転の可能性も話し合ったというがその後の動きはない。
ウムバキ療養所の入所者の部屋に飾られていた家族の写真
Romana Drabik 25年間の活動報告(ドイツ語)から。
参考資料: