ハンセン病制圧活動サイト Global Campaign for Leprosy Elimination

Leprosy Sanatoriums in the World / 世界のハンセン病療養所

Asilo-Colônia Aimorés / Brazil

アイモレス療養所

ブラジル

中央集権体制を背景に生まれた
ハンセン病防御のための施設

アイモレス(Asilo-Colônia Aimorés)は、ブラジル南部サンパウロ州内陸の広大な土地に、ハンセン病患者隔離収容のモデル施設として1933年に開設された。そのレイアウトはアメリカ南部のカービル療養所をモデルとして、患者地帯と非患者地帯を厳格に分けた中で、大病棟に多くの患者を収容するのではなく、小規模な病棟、居住棟、戸建て住居等を中心に、一般社会から切り離された新たな小社会を作り出すことを意図したものであった。
 
サンパウロ州には19世紀の初頭から小規模なハンセン病施設が生まれていた。コーヒー農園の移民労働者の増加と劣悪な労働環境から病気が蔓延し、ハンセン病の患者も増えていた。当時ハンセン病は隔離の対象とはされていなかったが、働けなくなった患者が行き場を失い救護されるという実態があった。患者の入退所は自由で、収入を得るために放浪して物乞いをし、道路わきに患者小屋が並ぶという状況もあった。

1916年、第一回アメリカ大陸ハンセン病会議(リオデジャネイロ)で、ブラジル代表のカルロス・シャーガスは、ブラジル全体のハンセン病対策一元化の必要性を認め、全国的な患者調査、ハンセン病対策諸法の整備統合、療養所の建設など、統一的なハンセン病対策の実施を提唱。次いで1920年に連邦政府の公衆衛生省(Departmento Nacional de Saude Publica)が生まれ、その下にハンセン病防御(予防)査察部(Inspectoria de Prophylaxia da LepraのちのDPL - Departomento de Prophylaxia da Lepra)が発足、全国的なハンセン病対策が強化されていった。中でもサンパウロ州は豊かな経済力を背景に、「社会を病毒からまもるため」の強力な防御活動組織を作り上げ、1930年代のヴァルガス革命による中央集権的「新国家」体制のもと、軽症者を含むすべての患者を強制的に隔離収容する「サンパウロ型」ハンセン病対策を推進した。有効な治療法がなかった時代、隔離は最善の「防御策」であるという立場から強権的な隔離政策が展開された。

アイモレス ハンセン病療養所

http://leprosyhistory.org/geographical_region/site/aimores-sao-paulo

ブラジル
設立年
1933年
  • アイモレス・コロニー 1930年代(写真提供 ILSL)

Chronicleアイモレス療養所のあゆみ

  • 16世紀末―17世紀初

    ポルトガルから移住し定着したヨーロッパ移民がブラジルにハンセン病をもたらし、アフリカ人奴隷たちの間で広がったとされている。

  • 1640年

    ハンセン病患者のキャンプがバイア州沿岸部にあった。

  • 1696年

    リオデジャネイロ知事がハンセン病の蔓延状況調査を指示。

  • 1697年

    ポルトガル王にハンセン病病院の建設許可を嘆願。

  • 1740年

    ポルトガル王はリオデジャネイロのハンセン病調査を命じ、ブラジルのハンセン病対策の立案を指示。その結果3人のリスボンの医師により、ブラジル最初のハンセン病対策法が策定された。ハンセン病は、臨床的症状に違いがあるものの伝染病であり、診断確定した患者はすべて隔離することを推奨した。

  • 1744年

    ラザロ病院(後のフレイ・アントニオ療養施設-現存)がリオデジャネイロ州知事(伯爵)により開設され、52人の患者が海岸近くの小屋に隔離収容された(蔓延を防止するためとされた)。

  • 1787年

    バイア州にハンセン病患者救護施設。

  • 1789年

    ペルナンブコ州にハンセン病患者救護施設。

  • 1815年

    パラー州のべレムにハンセン病患者救護施設(Santa Casa Misericordia)。

  • 20世紀初頭

    ハンセン病患者の増加にたいする対応策として、「患者がコロニー内で、健常者と同様の生活をおくることを原則としたコロニー型救護施設(Asilo-Colonia)」が提案されていた。

  • 1916年

    第一回アメリカ大陸ハンセン病会議(リオデジャネイロ)

  • 1920年

    連邦政府公衆保健省創設。ハンセン病の予防査察課設置。

  • 1929年

    患者数、推定24,000人(人口3,600万人中)。主たる多発地域は、アマゾナス、パラー、マラニョン、ミナスジェライス、サンパウロの各州。

  • 1930年

    ジェトリオ・ヴァルガス大統領の時代 ~1945。権威主義的政権による強制隔離政策強化。

  • 1933年

    8月 アイモレス コロニー療養所設立。

  • 1946年

    ブラジル全土のハンセン病実態調査。恒常的な新患者の増加傾向を確認。従来からの3重点対策-①療養所への患者の隔離②外来診療所での接触者・軽症患者の治療と監視③患者の子どもたちの予防養育施設収容だけでは不十分であることが判明。

  • 1948年

    ダプソン治療開始。

  • 1950年―1963年

    全国的ハンセン病患者発見キャンペーンを展開。ハンセン病対策は連邦政府から各州に委譲。

  • 1949年

    患者の子どもたちの収容強化(法律610) 。

  • 1962年

    連邦政府は強制隔離法の廃止を決定(法律68)。1950年以降の国際会議の結果を反映したもの。サンパウロ州のみ隔離を継続。

  • 1963年

    国際ハンセン病学会(第8回)リオデジャネイロで開催。「LEPER」という言葉を医学の分野では使わないということが決議された。

  • 1967年

    サンパウロ州、強制隔離政策を廃止。

  • 1974年

    アイモレス療養所の名称をラウロ・デ・ソウザ・リマ研究所に変更。

  • 1981年

    ハンセン病当事者組織MORHANがサンパウロ州で誕生(Movement for the Reintegration of People Affected by Hansen's Disease ハンセン病回復者の社会復帰運動)。

  • 1986年―1990年

    全国皮膚病対策として、ハンセン病患者の早期発見運動が全国的に展開された。

  • 2002年

    労働者党のルイス・イナシオ・ルーラ大統領が就任(2011年、同党のジルマ・ルセフ大統領が就任(2016年弾劾))。

  • 2002年

    国際ハンセン病学会(第16回)北部バイーア州のサルバドールで開催。ブラジル・ハンセン病の歴史部会報告がまとめられ、翌2003年発刊された。

  • 2004年

    MORHANの主導、連邦政府支援により、第一回全国ハンセン病療養所入所者シンポジウム開催。126の要請項目を決定公表。その後、MORHANの主導により強制隔離被害に対し国による賠償を求める訴訟が起こされた。

  • 2007年

    法律11520により、過去の隔離の被害に対して賠償金として年金を支払うことが決定された。

  • 2010年

    ハンセン病患者の第2世代も「予防」施設等への強制収容と人権侵害などに対する賠償を請求。全国保健評議会(NHC)は国による賠償が妥当とする意見を発表。訴訟は現在進行中。

Colony/Sanatorium/Asylumについて(M.Virmond communication)
ブラジルではハンセン病院の名称には療養所(Sanatorio)が使われて来た。アイモレスの場合も開設当時の門にはアイモレス療養所(Sanatorio Aimorés)と表示されている。当時は療養所と病院とは同じ意味に理解されていて、療養所は結核やハンセン病といった特定の疾患の患者を対象にする場合に用いられた。一方救護施設・コロニー(Asilo-Colonia Asylum-Colony)という表現は、医療と住む場所の双方を必要とする場合で、コロニーColonyという言葉には居留地・街といった正常な居住の場の感覚が伴っていた。Asylumと単独で使われるのは重度精神的障害者の病院や身寄りのない高齢者の救護施設などで、初期をのぞきハンセン病の場合には当てはまらない。

Historyブラジルのハンセン病政策

ハンセン病がブラジルにもたらされたのは16世紀末から17世紀始めにかけて、ヨーロッパからの移民人口とアフリカからの奴隷が増えたことによるとされている。18世紀には感染の広がりとともに、北東部のレシフェ、サルバドールからリオデジャネイロなど、大西洋沿岸の都市にハンセン病患者を対象とした施設が生まれていった。多くはカトリック教会が運営管理する施設で、教会の慈悲と慈善活動の象徴となっていた。サンパウロ州に最初の施設ができたのは1802年であった。

ノルウェイのA.ハンセンによるらい菌の発見(1873年)により、この病気が遺伝ではなく感染によるものであることが世界に広く認識され、国際らい会議(第一回1897年ベルリン/第二回1909年ベルゲン)は予防対策として患者の隔離を推奨した。その結果世界の各地で隔離施設の建設が進められた。この国際的な動向はブラジル政府のハンセン病対策にも重要な影響を与えた。ブラジルにおける隔離政策の進展は主として次の5つの時期に分けることができる。

第一期
1890-1920 初期防御(予防)政策の時代。
第二期
1921-1930 連邦公衆衛生省の誕生とハンセン病防御(予防)査察部の設置。対ハンセン病「規則」(regulations)が制定され、病型による隔離の必要性の有無に関する議論が激化。1923年ハンセン病患者強制隔離「法令」の制定(Decree no.16300)。
第三期
1931-1945 ジェトゥリオ・ヴァルガスによる中央集権的「新国家」体制の時代。患者隔離の強化。大規模療養所の建設。そしてサルフォン治療の発見。
第四期
1946-1967 サルフォン剤による治療の導入と拡大。国際らい学会による隔離政策批判と隔離解消の推奨。1962年、連邦政府が強制隔離政策を廃止。サンパウロ州のみ強制隔離継続。
第五期
1967- サンパウロ州強制隔離政策廃止、外来治療に転換。

(Monteiro 2003)

1923年に始まったハンセン病患者強制隔離法は、1962年にはサンパウロ州を除く全州で廃止され、ハンセン病対策は連邦政府から各州政府に移管された。サンパウロ州での強制隔離は1967年に廃止された。しかしながら、強制隔離法の廃止後も実質的な隔離は終わることはなく、州によっては1980年代まで続いた(Maciel 2007)。法の廃止が即社会一般の理解につながる状況はなく、退所した元患者たちが新たな居場所を見つけることは極めて難しかった。「政府が政策の誤りを認めて強制隔離を廃止したとき、社会の偏見が元患者たちの隔離を継続した」(Poorman 2006)、「強制隔離が公式に終了したのは1986年。2007年連邦政府による国家賠償法(11520)が成立したとき、1986年以前に収容された入所者が賠償の対象となった」というレポートもある。(MORHAN 2017)

1948年にサルフォン剤治療が可能になったが、1949年、全患者の隔離政策に加えて患者の子どもたちを親から切り離して施設に収容する制度が強化された(法610)。

1936年 ハンセン病関連施設の分布 ソウザ・アラウージョ作成(写真提供 ILA History)

アイモレス以前の救護施に保護されていた患者たち(サンパウロ州 1928年)(写真提供 ILSL)

1905年開設のサンラザロ救護施設(サンパウロ州)(出典 História da Lepra no Brasil Vol.2)

History「サンパウロ・モデル」と絶対隔離

「予防」という名の排除

連邦政府が感染性とされる患者のみを隔離の対象としたのに対し、サンパウロ・モデル隔離政策は、ハンセン病と診断されたすべての患者を隔離の対象とした。1929年の州法改正で知事の権限が強化され、ハンセン病診断時の届け出が義務化されたばかりでなく、ハンセン病予防局DPL (Departament de Prophylaxia da Lepra)の指定医以外は診断にかかわることが禁じられた。患者は診断即収容となり、通院治療の余地はなくなった。

サンパウロ・モデルは、特権的な力と独自の予算を与えられた州政府が、予防という名の下に行った強制的隔離政策だった。

『患者を直ちに強制的に社会から排除し、基本的人権を奪い、特例法のもとにコロニーに隔離し常時監視下に置いた。一旦収容されると患者番号が与えられ、生涯にわたって個人の情報を管理するファイルが作られ、近親者も同様にDPLの監視下に置かれた』
(Monteiro 2003)

路際に住む患者たち。収容後焼却される患者住居(写真提供 ILSL)

隔離のネットワーク

サンパウロ型の大規模な全患者隔離を徹底するためには、州全体の関連施設の緊密なネットワークが必要であった。州は強力な政策と豊富な財源に支えられて、次々に大規模収容施設を建設していった。ハンセン病施設を新しく建てるには土地の住民の抵抗も強かったが、結果的には患者を抱える各市町村が財源をそれぞれ分担供出するかたちで、4カ所の大型コロニーと1療養所に集約することで解決していった。このほかに患者の子どもたちを親から切り離して養育する予防施設(Preventorio)、教育施設(Educantorio)という名の収容施設2カ所を加えて、サンパウロ州ハンセン病隔離のネットワークが完成していった。州DPLの中央集権的管理でサンパウロ州は突出して多くの患者の隔離収容を行い、1942年時点で、全国41の隔離施設の収容患者総数16,726人中、サンパウロ州は8,692人(52%)を占めていた。

「特別仕様の巡回診療車が廻って発見した患者を即コロニーに送り、患者の家族や近親者には定期的な報告を義務付けて監視した。一般住民も疑わしい症状を見つけた場合は当局に報告するように促された。州政府予防局(DPL)の車が首都や内陸部を廻り、在宅している患者を即収容してその住居は焼き払い、村などにかたまって住んでいる患者や古い施設の患者も収容して施設は閉鎖し、患者村は破壊していった」「メディアはDPLの活動をあたかも、‘らい’という疫病にたいする戦争ででもあるかのように報じ、病者に対する暴力行為ともいうべき措置も、疫病に立ち向かう政府の強い決意の証明であるかのように報じた」
(Monteiro 2003)

参考:

  • サンパウロ州の隔離ネットワークを構成した施設
  • Santo Angelo Colony  1928年カトリック団体が開設。1933年州に移管
  • Padre Bento Sanatorium 1931年既存の療養所を拡大して開設。57ha(17万坪)
  • Pirapitingui Colony 1931年開設。48市町村合同で建設。330ha(100万坪)
  • Cocasis Colony 1932年開設。36市町村合同で建設。
  • Aimorés Colony 1933年開設。64市町村合同で建設。970ha(300万坪)
  • Jacarei Prevention Center  児童予防(養育)施設
  • Santa Terezihna Preventorio 児童予防(養育)施設 1927年開設

患者収容の特別列車(1944年)伝染病・危険と書かれている。(出典 História da Lepra no Brasil Vol.2)

アイモレス コロニーへの門(写真提供 ILSL)

アイモレス単身女性用の居住棟(カービル)。一棟に11の部屋。一部屋2~4人用。全棟が廊下で食堂などともつながっている。(写真提供 ILSL)

中間地区にあった「談話室」。訪問者が低い壁の向こうの入所者と対面している。(写真提供 ILSL)

「もう一つの世界」のレイアウト World Apart

サンパウロ・モデルはすべての患者を、新たに創り出した「もう一つの世界」に終生隔離することによって、一般社会を感染から「防御」しハンセン病を根絶しようという倒錯したロードマップが描き出したものであり、そこには共通するレイアウトがあった。

すべてのコロニーは、健常者地区・中間地区・患者地区という3つの地区に分けられていた。ときには清潔地区・中性地区・感染地区とよばれることもあった。健常者地区には事務・管理部門や機械、貯蔵、車庫などがあり、中間地区には来訪者の受付、来訪者と入所者が壁を隔てて対面する場所があった。健常者地区と患者地区は厳格に分けられ、数百メートルの緩衝地帯が設けられていることもあり、患者地区の住民が健常者地区に行くことは、極めて例外的なことだった。患者地区への門をくぐると、その先には「もう一つの世界」が広がっていた。患者地区には病棟地域があり、一棟20床の病棟が整然と並び、隔離室、不自由者居住棟、診療室、歯科、患者用調理室等があった。このほか、男女別の軽症単身患者用の集合住宅が並んでいる地域には、一棟に11室の台所とベランダがついた長屋形式の建物が並んでいた。これはアメリカのカービル療養所の単身者棟に倣ったもので、カービルと呼ばれていた。

この他に、2軒長屋形式の夫婦患者用の家屋が並ぶ地域もあり、この他に司祭や教師、所長が任命する患者代表のための1戸建住宅の地域もあった。

住居の他に学校、図書館、映画館、教会、劇場、ホールなどが整備されるのが基準だった。監禁棟は精神疾患のある患者用の病棟と同一建物の左右を分けていた。

医療体制も健常者地区と患者地区は別々に運営されていて、患者地区の医療はほとんどすべて患者である看護者が担当するのが通常で、医師の関与は極めて限られていた。

アイモレス アサイラム・コロニー(Asilo-Colônia Aimorés)

アイモレスは970ha、約300万坪に及ぶ広大な敷地の中にあり、家族から切り離された社会的背景も異なる多様な人々からなるアサイラム・コロニー(救護施設・定着地)であった。1933年8月13日の開設当初は317人であった入所者は、急速に進む隔離政策を反映して増え続け、最大収容人員は1300人に達した。患者地区の中央公園には円形舞台があり、傍らのカジノとよばれる大型の建物は、映画、演劇、音楽、ダンスパーティなどが催される入所者の日常生活の中心であった。アイスクリームパーラー、バーの他に政府公認の慈善団体が運営するレストランがあった。各種スポーツ施設や水泳可能な池もあり、モデルコロニーであるところから、政治家や内外の専門医、有名人の訪問視察も多く、州政府は環境の保持に配慮し、宣伝映画も制作された。敷地の一角に監禁棟があり、さらに林の奥に墓地があった。

コロニーの運営、入所者の生活はサンパウロ州政府の管理下にあったが、入所者たちは患者地区の運営、看護、介護に従事するほか、木工、板金・鋳物、印刷、製陶、仕立て等々の作業や農業や牧畜など、療養所を維持するに必要なあらゆる作業に従事した。後年、これらの作業に従事した期間に応じて、州政府雇用が認められ一定の年金が支給された。

参考:

コロニー、療養所から研究機関へ

1933年に救護施設・定着地(Asilo-Colonia)として発足してから80余年の歴史の中で、アイモレスはいくつかの変遷を経てきた。ハンセン病治療の進展にともない、1949年には名称がコロニーから療養所(Sanatorio) に変わり、1969年には、アイモレス病院に。1967年には強制隔離は廃止されたが、1970年代を通して患者の入所は続いた。1974年には強制隔離を想起させるアイモレスから、ハンセン病の治療に大きな貢献をした医師の名をとってラウロ・デ・ソウザ・リマ研究所(ILSL)と名前を変え、1989年以降はサンパウロ州および連邦政府のハンセン病と皮膚疾患の専門医療研究機関という位置づけにある。

女性患者たち 1938年(写真提供 ILSL)

サンパウロ祭りの準備をする子どもの患者たち 1937年(写真提供 ILSL)

クリスマスに帽子のプレゼント 1947年(写真提供 ILSL)

歴史遺跡と認定されたカジノ(集会所)と教会(1951年建立)(写真提供 Prado)

ラウロ・デ・リマ・ソウザ研究所(写真提供 ILSL)

History隔離政策に人生を奪われた第2世代

ハンセン病が遺伝病ではなく伝染病であるという19世紀後半の医学的認識は、患者である親から子どもを切り離すことを正当化し、隔離政策が強化されたヴァルガス政権時代(1930‐1945)、患者隔離施設と子どもたちの収容施設(予防・教育施設という名称の孤児院)の建設が進められた。「患者は国家の建設に参画できない落伍者であり、その親たちから子どもを救い出すのは、父なる国の奉仕者とするため」と表現されたこともあった(Poorman 2003)。
両親から引き離された子どもの多くは養子として他家にもらわれて行くのが通常だった。着飾って数人ずつ籠に入れられ、「子犬」の品評会よろしく衆人の眼にさらされ、引き取られて行った。恵まれた家庭の養子となり教育を受けた例もあるが、施設での放任と虐待、さらに労働力として搾取され社会の最底辺で生きることを強いられた人生も多かった。ホセ・フェレイラも生後まもなく両親から引き離されて施設で育った。

「年に2度ばかり療養所にいる両親に合わせられた。分厚いガラスで仕切られた部屋で、係員が僕を膝に乗せて、『あれがお父さんよ、こっちがお母さんよ』と声をかけてくれたけれど、僕にはその意味がわからないのでよそ見していた」。施設では始終殴られ、農村で強制労働をさせられて少年時代を過ごしたホセは、19才の時行く当てもなく施設を出た。弟が2人いたが、母乳不足で命を落とした。その後ホセは85才になる母親の所在を見つけた。「療養所に母を訪ねることもあるが、肉親の愛情は感じない。育てられていないのだから。母も子どものころからずっと療養所生活で、それ以外は知らない人生だったから、今更外で生活することはありえない」。(Carolina Garcia - iG São Paulo 記事 12/09/2014)

こういった子どもたちの実態が表面化したのは、2007年ルーラ大統領の時代。当事者組織モーハン(MORHAN後述)の運動などにより、強制隔離政策の犠牲となった元患者に対する国家賠償が法律11520により決定したころであった。自らの過去を消されて孤児として生きてきた第2世代の人々はすでに50代~70代となり、「引き離された子どもたち」(Filhos Separados)と名乗って声を上げていった。

当事者組織モーハンは、「引き離された子どもたち」の支部を全国につくり、人権侵害に対する賠償を組織の運動として取り上げた。その結果、2010年7月国民保健評議会(National Health Council)は過去の強制隔離政策により第2世代が被った被害を賠償するべきだと政府に提言。2012年9月、大統領府国家人権事務局作業部会(障がい者の権利支援)も報告書を公表し、1927年から1986年までの59年間に30,320人の児童が収容されたと推定した。これとは別に、推定40,000人という数字を公表した報告もある。このうち現存者(2017年現在)は20,000人以下とされ、モーハンではこの人々に対する賠償を法制化することを最重要課題の一つとして取り組んでいる。2017年に下院委員会の一つで承認を得たが、今後の見通しはたっていない。

一方、モーハンによるデータベースの作成やDNA鑑定によって、各地で失われていたつながりを取り戻すケースもでている。2007年、自らの出自を公表し、第2世代被害の問題を先頭にたって糾弾してきたテレサ・オリヴェイラさん自身、2人の妹との再会を果たし、自らの人生を「遅れた誕生日」と題して出版した。

テレジナ予防養育施設の子どもたち(出典 História da Lepra no Brasil Vol.2)

復権を求めてテレジナ予防養育施設に集まった第2世代の人々 2011年(写真提供 MORHAN)

第2世代の復権運動のリーダー テレサ・オリヴェイラさん(右から2人目)とTシャツー「引き離されて苦しんだ。でも、今はみな一緒だ!」(写真提供 MORHAN)

「引き離された子どもたち Filhos Separados」人形をシンボルに被害を訴える第2世代の集会 2011年リオデジャネイロ(写真提供 MORHAN)

Peopleアイモレスの保健政策・医療・研究・福祉に関わった人々

ユーニス・ウィ―ヴァ― Eunice Sousa Gabi Weaver (1902-1969)

サンパウロ生まれの社会活動家。米国の大学で社会事業学を学び、ハンセン病患者支援協会を設立。1935年ヴァルガス大統領にハンセン病問題を訴え、全国に25の患者の子どもたちの収容施設を建設。1932年から30年間患者支援とハンセン病対策協会の会長を務め、国内外の賞(1963年ダミエンダットン賞含む)を受賞した。
(写真提供 Mundo Espirita)

カルロス・シャーガス Carlos Chagas, MD (1879-1934) 

Carlos chagas 2

ブラジルを代表する感染症の研究者。彼の名をとってシャーガス病と名付けられたトリパノソーマ寄生虫症の発見者。1920年-1930年代、連邦保健省のトップとして、ハンセン病患者強制隔離政策の成立に関与。
ハンセン病の研究にも数多くの功績を残し、国際的研究の推進にも貢献。1913年と1921年の2度、ノーベル医学賞の候補者に推薦。

ソウザ・アラウージョ Heráclides César de Souza Araújo, MD (1886-1962) 

ジョンズホプキンズ大で公衆衛生学、ロンドン大学で皮膚科学を収め、研究面、政策面からブラジルにおけるハンセン病の研究と疾病対策に指導的役割を果たした。その役割は隔離政策の推進であった。全世界をまわりハンセン病状況を視察し、ハンセン病の医学、疫学、対策状況を調査報告。国際らい学会の創設にも貢献し副会長を務めた。オズワルドクルツ研究所の微生物・免疫学教授。WHOハンセン病専門家を歴任。
(写真提供 ILSL)

ディットール・オプロモーラ DVA Opromolla, MD (1934 – 2005)

1959年アイモレス療養所の皮膚科専門医として着任、終生アイモレスの専門医として勤務。とくに1970年代からリファンピシンの試験的投与を行い、サルフォン、リファンピシンの薬剤耐性の研究も行った。また研究・研修部門責任者として、ハンセン病専門の研究所ILSLへの転換に大きく貢献した。またILSLにリハビリテーション科を創設。1978年には回復者の社会復帰を目的とするNGO、SORRIの共同設立者ともなっている。連邦・州政府ハンセン病対策専門家の他、WHOハンセン病化学療法研究部会のメンバーでもあった。
(写真提供 ILSL)

ラウロ・デ・ソウザ・リマ Lauro de Sauza Lima MD(1903-1973)

サンパウロ州のパードレ・ベントハンセン病療養所の医師。有効な治療法がない時代の患者たちに、終始温かい態度で接し、患者たちから父親のように慕われていたといわれる。1989年、病者からの敬愛の念の深い医師を顕彰して、アイモレス療養所はラウロ・デ・ソウザ・リマ研究所と命名された。
(写真提供 ILSL)

マルコス・ヴィルモンド Marcos Virmond MD, PhD (1950‐  )

現ラウロ・デ・ソウザ・リマ研究所(ILSL)所長。外科・形成外科医。
前ブラジルハンセン病学会会長。
2008年から2期8年にわたり国際ハンセン病学会(ILA)会長。会長就任中に、1933年から2000年まで刊行されたInternational Journal of Leprosy (国際らい学会誌)の全巻全号をデジタイズして学会ホームページで公開。同時に音楽学の博士号を持つ研究者であり、演奏家(ピアノ)、作曲家・指揮者でもある。
(写真提供 ILSL)

People当事者とボランティアが支える社会運動 モーハン MORHAN

モーハンの正式名称は、Movimento de Reintegracao das Pessoas Atingidas pela Hanseniase、すなわちハンセン病当事者の社会復帰運動。

「ハンセン病は治る!」「みんなでハンセン病を制圧しよう!」。
中央に、手をつなぐ人が2人、その 真ん中にくっきりと浮かぶハートの形がモーハンのロゴ。ブラジル人の持つ明るさ、強さ、シンプルさを象徴する。Tシャツの背中には、「ハンセン病について聞きたいことがある?」とモーハンにつながる無料電話「テレハンセン」の番号が。発信し続けるモーハンの活動。現在、全国27州中の18州に合計39の支部があり、1380人の登録ボランティア活動家によるネットワークと、公選された8名の代表からなる全国本部が動かす。モーハン活動の特色は、回復者と第2世代とボランティアのネットワークの中に、有名人たちが無償で、長期的に関わり、支援のすそ野を広げていることだ。特異なマスクの女優エルケさん( Elke Maravilha)、歌手のネイ・マトグロッソさん(Ney Matogrosso)、毎年選出されるミス・ブラジルなど。

《モーハンの誕生》 ~トムとバクラウの出会い~

モーハンの誕生は1981年6月1日のサンパウロ。ブラジル社会運動の黄金期で初の国際障害者年でもあった。モーハンは、それぞれの立場から偏見と差別に挑戦する、国も背景も違う2人の人物の出会いが生み出したものであった。この運動がブラジル全土に拡がるのに時間はかからなかった。その一人は(旧)アイモレス療養所の人々の社会復帰を進めるなかで、ハンセン病への偏見が大きな障害となっている現実を知り、その「変革―transformation」の途を探っていたトム・フリスト(Tom Frist)。もう一人は、出身地アマゾン州の療養所から足の手術のためにラウロ・デ・リマ病院(ILSL 旧アイモレス療養所)に入院していたバクラウ(Bacurau)であった。

左)左から2人目アルツール・クストディオ (モーハン前事務局長 後述)
左中)左から3人目 女優 エルケ・マラヴィーリャ(1945-2016)
右中)ミス ブラジル2016
右)歌手 ネイ・マトグロッソとクリスチアーノ・トーレス (モーハン前 議長 1939-2017)
(写真提供 MORHAN)

トム・フリスト Thomas Ferran Frist (1945- )

1973年ブラジルに入り、アイモレスの入所者と定着団地に住む退所者を中心に社会的偏見の調査をし、ハンセン病当事者が社会の正当な構成員として生きる―統合Integration-の途を探ってきたフロリダ生まれのアメリカ人社会運動家。後にアメリカ救らい協会(ALM)会長、国際救らい団体連合(ILEP)会長も歴任した。
障害者運動自体の中にハンセン病の障害者に対する差別があることに気づいたトム・フリストは、「社会の偏見と闘っている障害者自身が偏見を持っているとはどういうことだ。ハンセン病が治れば、もはや患者ではないし、単なる障害者じゃないか、、、。この状況を変えるには、アメリカ人で障害者でもなくハンセン病でもない自分ではなく、『ブラジル人のハンセン病当事者・障害者』が闘いの先頭に立たつべきだ。自分は全力でその人を支えよう。」と考え、入院中のバクラウに出会った。
(写真提供 Thomas Ferran Frist)

フランシスコ・ヌーネス 通称バクラウBacurau/Francisco Augusto Vieira Nunes(1939-1997)

アマゾン州に生まれ、10人兄弟の貧しい生活のなかで6才の時に発病。14才で隔離収容され、通算21年を隔離のコロニーで生き、自治会活動などを主導。1976年結婚して退所。独学で教員資格をとり、小学校教師となる。教会音楽から子守歌まで多数の詞と曲を残した。 長年の当事者体験から、偏見と差別と闘うための当事者組織の構想を抱いていた。1979年から足の手術のためにILSL病院(旧アイモレス療養所)に入院中に、モーハン設立の基礎となった文書「社会的統合のための視点」を書く。トム・フリストと出会い、モーハンの設立を実現した。「モーハンは痛みと苦しみと必要からうまれた。一個人のアイデアではなく、偏見と闘うための組織を作りたいと考えていた。コロニーに住む我々は、不平を漏らすと、哀れな反逆者と云われ、声をあげる権利もなかった。モーハンは我々の自由へ道だ。偏見は社会の無知が創り出す。無知は正しい知識と教育でのみ治すことができる。」

1981年モーハン設立後、初代の全国代表となる。1984年ハンセン病当事者が初めて参加した第14回国際ハンセン病学会(オーランドUSA)で「レパ―:倒錯したアイデンティティ」と題して報告。その後、1995年サンパウロ州で当事者の国際連帯IDEAを設立し、会長となった。1996年には中国の当事者組織設立にも招かれて参加したが、すでに肺癌に侵されていて、翌1997年逝去。アマゾン地方アクレ州の住居は「バクラウの家Casa de Bacurau」として保存公開されている。英語とポルトガル語のホームページがある。 http://www.casadebacurau.org.br/home/o_surgimento_do_morhan
(写真提供 MORHAN)

《モーハンの足跡》
~第一回全国コロニー会議から国家賠償訴訟へ~

モーハンの活動の中で特記すべきものに、2004年11月、政府保健省と共催で開催された、「第一回全国旧ハンセン病コロニー会議」(リオデジャネイロ)がある。そこで合意された126項目に上る提言は、その後のモーハンの活動の基本となった。その第86項は「コロニーの居住者は“公衆衛生政策による追放者”と認定し、日本の例のように、補償を受けるべきであり、他の未払いの権利に対して累積年金を支給されるべきである。」と述べている。
http://pfdc.pgr.mpf.mp.br/atuacao-e-conteudos-de-apoio/publicacoes/saude/Hansrel_colonias_v2.pdf
ブラジルハンセン病国家賠償は、2007年法律11,520/07号として実現した。1986年までの時点で隔離収容された全ての元患者に対し、国による賠償を義務付けた。すでに約9,000人が結審したが、賠償訴訟は現在も進行中。賠償は過去に遡及して被害を認定して決定された一時金の他に、年金の形で継続支給される分がある(US$300.00/月程度)

これとは別に、両親から切り離されて施設で育ったハンセン病第2世代の人々(20,000人弱と推定)の中には養子縁組などで出自を失い、血縁の兄弟姉妹との絆も失った人々もあり、復権と賠償の法制化が課題となっている(前出)。

~「ハンセン病は治る」~

モーハンの活動の主要な目的の一つは、ハンセン病に対する正しい知識を広く社会にとどけることにある。正しい知識をとおして偏見と差別をなくし、同時に病気の疑いを持つ人が抵抗なく受診できるように支援し、早期の治療につなげるという活動である。新規患者が依然として年間2万人を超え、早期診断、早期治療が重要なこの国で、ハンセン病当事者組織が、行動目標に病気の知識と理解の普及をかかげる姿勢は極めて優れている。この活動の有効なツールが無料の電話とネット相談「テレハンセン・ウェブハンセン」で、知識の普及と早期診断へつなげるツールである。2004年から日本財団が支援するモーハンのプロジェクトの一つ。

~「ハンセン病」を正式名称へ~

偏見と差別への闘いの一環として、モーハンは病名レプロシーをハンセン病に変更することを主張。ブラジルでは、皮膚科学会と保健省主導で1976年にleprosyを廃し、ハンセン病を正式名称とする法律(第165号)が成立していたが、現実には依然としてleprosyが使われることが多かった。これに対しモーハンなどの努力でより強制力のある法律9010が1995年に成立。正式名称ハンセン病が徹底した。

アルツール・クストディオ Artur Custodio Moreira de Sousa (1967- )

モーハンの創設者バクラウの信頼を得て、全国代表(コーディネーター)を引き継いだ。リオデジャネイロ出身。信仰厚い母親の影響で幼いころからハンセン病療養所の慰問に同行し、入所者や活動家に親しんで育った。16才からボランティア活動家としてモーハンの活動にかかわり、創立者バクラウの熱い信頼を得て、バクラウの引退後第2代のモーハン全国代表に選出された。以後今日まで、全国のモーハンメンバーやボランティアの信任を得て全国代表の座にある。当事者への真摯な対応、公正で強い正義感、巧みなメディア発信、あらゆる場面に常にモーハンのロゴTシャツで人前に立つ独特の活動スタイルで全国的支持を受け続けている。連邦政府の全国保健評議会のメンバーでもある。2017年、指導部の世代交代への布石として副代表となった。
(写真提供 MORHAN)

~歴史保存 ハンセン病の記憶・記録・遺跡を保存する~

第一回全国コロニー会議(2004年)が結論とした126項目の提言の内、実に19項目は記憶の保存に関するものであった。これはモーハンを構成する当事者たちの基本的な価値観の表明に他ならないが、具体的な成果には至っていないのが現実。全国に40か所あった旧療養所・コロニーの現状は一様ではないが、各地で建物や墓地の荒廃が伝えられ危機感が共有されている。その中で、ただ一人ボランティアとしてサンパウロ州(旧)アイモレス療養所の記憶を残す努力を続ける人がいる。

ハイメ・プラード Jaime Prado (1953-  )

1976年からアイモレス療養所(現ILSL研究所)に勤務した元職員。写真、映像記録にすぐれ、ジャーナリスト協会の会員でもある。歴史に強い関心があり、アイモレス療養所に関する数万点の写真をデジタル保存している。複数の身内(叔母)がハンセン病でアイモレスに収容されていた影響もあって、アイモレスの入所者たちと親しく交わり、アイモレスの生き字引。仕事上、療養所の昔の写真を含め多くの写真を個人的に保存し、個人のホームページやフェイスブックを通して、アイモレスの歴史的情景を広く発信している。MORHANサンパウロ州の熱心なボランティア活動家。
https://www.facebook.com/jaime.prado.9638
(写真提供 Prado)

Present最終章を迎えた療養所
―歴史遺産の継承という課題

1933年の開設から84年を経過したアイモレスは、ハンセン病療養所としての最終章を迎えている。現時点で旧患者地帯の介護棟で療養生活をつづける入所者は12人。このほかに、住居地帯の長屋や一軒家に住む元患者の人々が約30人。第一世代の患者の大半はすでに亡くなり、第二、第三世代が住み続ける家屋もある。第一世代の人々には国の賠償金が年金形式で、個人の年金に加算して提供されている。

  現在の中心はラウロ・デ・ソウザ・リマ研究所で、皮膚科・リハビリテーション科を中心に治療と研究と訓練コースがあり、ハンセン病専門の研究治療機関の一つである。

一方旧患者地帯の教会、集会堂、病棟、住宅群は、1997年9月に歴史的に重要な建造物群としての認定を受けた。それを機会に、かつてカジノとよばれた集会堂の一部は歴史博物館となった。このほか、アイモレス・コロニー時代からの医療記録、入所者の生活記録、フィルム、写真、スライドなど膨大な資料が残されている。これらはサンパウロ型強制隔離政策が生み出した「もう一つの世界」の記録であり、total institution(全面的収容施設)の研究資料でもある(leprosyhistory.org) 。ただし、資料の多くは未整理で、ハイメ・プラド氏の個人的な情熱がこれらの資料の保存を支えているという現状は、問題なしとは決して言えない。

アイモレスの広大な敷地に隣接する土地に、サンタ・テレジナ団地がある。そもそもは療養所を退所した人たちが定着して切り開いてきた住宅地であるが、今日ではバウル市の郊外住宅地として市内からも多くの人が移り住み、ハンセン病とのつながりはすでに薄れ、郊外住宅団地になりつつあるという。

前述(People)のとおり、モーハン(MORHAN)が2004年11月に開いた第1回元ハンセン病コロニー代表者全国セミナーは、126項目に上る要請事項を公表した。その中の19項目で歴史と記憶の保存に触れており、墓地を含む主要な建造物の保存、人々の語りの保存、資料の保存と博物館の建設などを訴えた。それから13年を経た現在、具体的な進展は聞こえてこない。一方で療養所の閉鎖や老朽化の進む建物や墓地の荒廃の情報が届く。世界のハンセン病の歴史の中で特異な展開を示したブラジル。その歴史は負の部分を含めて人類共通の遺産に他ならない。若い世代のボランティア活動家たちのエネルギー、発信力に優れたブラジルの当事者運動、研究者、法律家、政治家たちとの連携で、ハンセン病の記憶と記録の保存を含め、嘗ての療養所の新しい役割の構築を期待したい。

尊厳回復運動のシンボルでもあったバクラウは、世界の回復者運動の合言葉を残して逝った。

When a person dreams a dream, it is only a dream.
But when that dream is shared by others,
for certain that dream will come true.

一人で見る夢は ただの夢にすぎない。しかし、
みなで一緒に見る夢は、きっと実現する。

現在のアイモレス療養所に残る建物(写真提供 ILSL)

歴史的史跡の指定をうけた、集会所を含むアイモレスの中心部(写真提供 Prado)

アイモレス療養所・コロニーの墓地(写真提供 Prado)

参考資料:

  • “Prophylaxis and exclusion: compulsory isolation of Hansen’s disease patients in Sao Paulo” Yara Nogueira Monteiro (2003)
  • “The Hope of Redemption”: Science, Coercion, and the Leper Colonies in Brazil” Elisabeth Austin Poorman (2006)
  • “Memories and history of Hansen’s disease in Brazil told by witnesses (1960-2000)” Laurinda Rosa Maciel, Maria Leide Wond-del-Rey de Oliveira, Maria Eugenia N. Gallo, Mariana Santos Damasco (2003)
  • ”Some news the History and preservation of documentary about leprosy in Brazil” Laurinda Rosa Maciel  (Oswaldo Cruz Foundation – Brasil),(History Symposium in Tokyo, 2016)
  • "História da Lepra no Brasil Vol. II" , Heraculides-Cesar Souza Araujo (1948)