Culion / Philippines
クリオン療養所
フィリピン
Leprosy Sanatoriums in the World / 世界のハンセン病療養所
Culion / Philippines
フィリピン
マニラから南西320キロの海上にあるクリオン島は、面積約400㎢(小豆島の約2.5倍)、決して小さな島ではない。
「生ける屍の島」「絶望の島」などとよばれ、世界のハンセン病の歴史にその名を刻んだクリオン療養所・コロニーの歴史は、1989年の米西戦争に続くアメリカの植民地統治とともに始まった。新しい統治者は、当時フィリピンに蔓延していた数多くの病気の中から、あえてハンセン病を選び、全患者の隔離と治療法の研究開発という双方向からその根絶を目指した。のちに世界最大のハンセン病隔離の島として知られるようになったクリオンの歴史は、一孤島の歴史にとどまることなく、不治の病いと別離に苦しんだ病者たちと家族、そしてその対策に取り組んだ医師や研究者たちの歴史でもあった。
1899年3月に始まった米国のフィリピン統治は、何よりも現地の深刻な保健衛生問題に直面し、即対応をせまられることとなった。
「衛生環境は底なしの泥沼状態で、疾病対策は皆無。マニラと周辺都市ではペストが蔓延し、地方では天然痘が広がっていた。あちこちの路上に住みついているらい患者たちは、何の対策も治療もなく放置されている。マラリアや赤痢も都市部にひろがっていた。」「1902~1905年のコレラ禍で200,222人が死亡。そのうち6万人は子どもであった。」(Legacy of Public Health)
この状況に対処するため、1901年には植民地政府に保健庁がおかれ、ハンセン病対策としては、まず第一に患者の一斉調査、次いで島への隔離が検討された。当時ハンセン病の感染性は国際学会で確認されており、アメリカ本土ではカービル療養所、ハワイではモロカイ島カラウパパ半島への隔離も知られていた。1902年に内務長官としてフィリピンに赴任したヴィクトル・ハイザーの案は、全国のハンセン病患者を集めて、最南端スールー海の孤島、カガヤン・デ・タウィタウィ島に収容するというものであった。(地図参照)この島は先住民も少なく、新しい定着村をつくることが可能だとされたが、この地は元来モロ(ムスリム)の地であり、すでに植民地政府とは敵対関係にあったことが判明。かわって隔離の島として選ばれたのが北パラワンのクリオン島であった。1904年EO35号により「クリオンらいコロニー Culion Leper Colony」の設立が決まり、1906年「クリオン」の歴史が始まった。
クリオン療養所、ニッパ椰子の病者の家。(写真提供 Culion Museum and Archives)
各地で病者が集められ、沿岸警備隊の船でクリオンに移送された。(1906年)。(写真提供 Culion Museum and Archives)
サンラザロ病院が開設(マニラ イントラムロス)。カトリックによるハンセン病患者救護施設が存在した。
日本人ハンセン病者130人(150人説あり)が、長崎から船で追放されたキリシタン大名とともにマニラに到着し保護された。
米西戦争。フィリピン革命軍による独立戦争の後、アメリカによる植民地軍事政権樹立。
植民地政府ハンセン病対策を重要視。患者隔離のためカガヤン・デ・タウィタウィ島とクリオン島を調査。
クリオン島ハンセン病者隔離施設正式決定(行政命令35号)
植民地政府保健局開設。ヴィクター・ハイザー保健局長着任。
5月26日クリオン島への隔離開始。病者370名到着(年末までに800名に)
クリオン評議会発足(院長を補佐するための病者代表組織)
軽症者に対する労働の義務化―1日2時間、月に2日
小学校開設(男子64名、女子27名)
布告1711「らい隔離法」公布。保健局長の権限で全国から病者を強制隔離。
パロール(仮解放・仮退所)制度の適用開始。5名が仮解放となる。
病者による「保安官制度 Constables」発足。郵便局開設。大風子油の経口投与。
島内を「病者地区」、「非病者地区」に分離する法令公布。
病者の結婚を許可。
「メルカド調剤」(大風子油とカンファ―)の筋肉注射開始。
病者数2000人(収容患者累計5,000人、内3,000人近く死亡、逃走、解放)
園内専用通貨(硬貨)の導入。クリオン音楽隊誕生。
内務長官とハイザー保健局長のクリオン訪問。クリオン評議会による民主化要求。 クリオン憲法の誕生とクリオン諮問委員会の発足。 仮解放者(無菌者)のための定着村を島内につくる。
公共図書館開館。病者500名以上コロニー外に農地を取得。
バララ乳幼児院開設(在籍42名)。病者たちよる企業化‐漁業・野菜栽培・氷製造。
各種実験的治療の治験続く。
病者たちの企業(漁業・製氷・発電)により24時間の電力供給が可能になった。
スペイン風邪により、病者216名死亡。
クリオン・ラジオ放送開始。
医師4名増。メルカド調合剤(大風子油エステル)治療の最盛期。
レオナルド・ウッド総督 最初のクリオン訪問。
クリオン年間予算100,000ペソに増額(国の年間保健予算の3分の1に相当)
クレオナルド・ウッド フィリピン総督に就任。クリオン収容患者6000人。
ウッド総督がウェイド(Wade)医師をクリオン主任医師(代行)に任命。
カジメロ・ララ医師着任。
マヌエル・ケソンとマヌエル・ロハスによる上院査察委員会がクリオンの査察開始。
非感染児童の養護施設ウェルフェアヴィル マニラ郊外に開設。クリオンから児童81名が送られた。
レオナルド・ウッド総督死去。
レオナルド・ウッド記念アメリカハンセン病協会設立。
政府保健省評価委員会によるクリオン評価。一か所の療養所に全国の病者を集約することの弊害が指摘され、他に7か所の療養所設置が決定された。
レオナルド・ウッド記念研究棟(現クリオンハンセン病博物館)竣工。
バララ幼児院閉鎖。
レオナルド・ウッド記念国際ハンセン病会議(マニラ)。国際ハンセン病学会(ILA)創設。クリオン25周年記念にウッド記念碑序幕。
クリオン男性患者による女子寮の襲撃「マンチュリア」事件勃発(3月25日)11月結婚禁止令を解除。
クリオン男性患者による女子寮の襲撃「マンチュリア」事件勃発(3月25日)11月結婚禁止令を解除。
クリオン収容者数 6,928人(約7,000人)、世界最大の療養所となった。
大風子油とエステル混合治療の結果、仮解放が多く出るようになった。
太平洋戦争、日本海軍ミンドロ海峡を封鎖。食料調達困難。患者1,256名脱出。
バララ幼児院閉鎖。
食料の調達が完全封鎖。
推定餓死者(1942‐1945) 2,250名
米軍による医薬品・食料の空輸。太平洋戦争終了。
戦時下の推定餓死者 2,250名
サルフォン治療(プロミン)導入(一部)。
バララ幼児院再開。医師2名、看護修道女4名、訓練を受けた児童保育者12名。
プロミン治療本格化。全患者の2分の1がプロミン治療を受けた。
マニラのサンラザロ病院の入所患者全員、中央ルソン療養所(タラ)に移転。
隔離法改正(RA753)。在宅治療が可能になった。事実上の強制隔離の廃止。
無菌による解放者のための定着村建設が進む。
らい解放法(RA4073)Leprosy Liberation Law 初期症状患者の隔離収容を禁止。
外来治療を認める。
レオナルド・ウッド記念研究室、セブのエヴァスレイ・チャイルズ療養所に移転。
この頃から患者の子どもたちも両親の下で育てられた。
コロニー地区を分けていた検問所撤去。クロファジミン治療開始。
大統領令384(マルコス)自治体化を拒否。保健省管轄地に戻る。
リファンピシンの試験的投与開始。
WHO がMDT(多剤併用療法)を推奨。
バララ乳児院閉鎖(開設以来 児童400名バララ乳児院にて養育。)
MDT 多剤併用療法をクリオンに導入
RA6659により、クリオンの住民がパラワン州選挙での投票を認められた。
クリオンを地方自治体クリオン(ミュニシパリティ)とする法律(RA7193)、コラソン・アキノ大統領署名により成立。
クリオン全人口の血清学的判定Sero-epidemiological assessment を実施。
保健省令72により、「クリオン療養所及びクリオン総合病院」に転換。
クリオン ミュニシパリティはパラワン州の一自治体となった。
第一回自治体首長選挙(同時に市議会議員選挙も同時実施)。入所者ヒラリオン・ギア氏が初代クリオン町長に選出された。
血清学的判定の結果に応じて、治らい薬の予防内服実施。
第一回バランガイ選挙。
クリオンハンセン病博物館・資料館整備。
クリオン自治体のハンセン病制圧宣言
以降新患0 高度蔓延の島からハンセン病のない島へ。
クリオン療養所100周年記念式典。クリオン博物館・資料館正式開館。
RA9032、クリオン療養所をクリオン療養所及び総合病院に格上げ。(近隣4島自治体も対象となった。)
国立歴史委員会(NHCP)がクリオンを歴史的遺産に認定。
国立歴史委員会(NHCP)の予算によりクリオン島の歴史的建造物の保存・補修が開始された。
クリオン療養所入所者総数の内、6000名の氏名をクリオン博物館内に記名展示。
南シナ海と太平洋にはさまれた、7,100あまりの島々からなる国、フィリピン。人口は2015年に1億95万人と1億の大台を超えた。16世紀半ばから19世紀末までの300年あまりスペインの植民地とされカトリックが浸透した。19世紀後半から独立運動があり、1898年の米西戦争時に一旦独立を達成するが、独立を認めないアメリカとの戦争となり、同年アメリカの植民地となった。1942年~1945年の日本占領期を経て、第二次世界大戦後の1946年に独立を回復した。
公衆衛生の面では、スペイン時代とアメリカの植民地政策には大きな違いがあった。
「前者にとって保健問題は教会に任せておけばよいマイナーな問題であったが、後者にとっては、政府の主要な課題であった。スペイン統治にとっては、魂を救うことの方が身体を救うことより重要とされ、結果的には、病院よりも教会の方が多く建てられた。」(Escalante)
スペイン統治時代(1578-1898) の1603年、マニラ郊外にフランシスカン派によるハンセン病患者のための救護所が建てられていた。1632年、江戸幕府三代将軍家光の時代、キリシタン禁制によりマニラに追放されたキリシタン大名とともに150人のハンセン病患者が日本からフィリピンに送られた。通常なら穢れた病者として追放されるところであるが、マニラの施設で手厚く看護されたという。ハンセン病の守護聖人である聖ラザロの名を冠して、サン・ラザロ病院と名付けられたこの病院の土地は、もともと裕福な中国系フィリピン人商人でハンセン病を病んだ人が寄贈したもので、この土地からあがる収入を不幸な患者たちのために使うようにという遺言によるものであった。(Legacy of Public Health )
アメリカ植民地の時代、サンラザロ病院は、クリオンに送られる全国の患者の集積所でもあった。
「癩の病棟はその一部であるが545人の病友がいた」「学校道具を抱えて診てもらひに来て再発と云われ一緒に来た母親と無理やり引き離されて泣き叫ぶ男の子の聲を聞いた」「治療をしても一寸無菌にならぬと思われるものは纏めて年二回クリオン島へ送る。1932年には400人送ったが進んでいくものは6割位のものと云う。無菌の最後の宣告はクリオンの試験室からくるのであるが私の居る間にも一婦人に無菌性の報が来たので狂人の如く泣き叫び同室の女患者全員が貰ひ泣きする情景に接した」
(1933年、世界のハンセン病状況視察の途上、マニラでサンラザロ病院を訪れた林文雄 愛生園医官)
サンラザロ病院は、その後保健省のハンセン病リハビリ病院となった。400haに上るこの土地は、現在サンラザロ・コンパウンドとよばれ、保健省、研究所、サンラザロ総合病院など保健関連施設が集中している。
ハンセン病対策はアメリカ植民地政府の最優先課題の一つとされた。とくにアメリカが怖れたのは13万人近いフィリピン駐屯米兵たちへの感染と、彼らのアメリカ帰国時に病気が持ち込まれることへの怖れだった。1904年にはクリオン島にハンセン病患者の隔離コロニー(定着地)をつくる行政命令がだされた。軍医出身のハイザー保健局長は「完全隔離は残酷なものではあるが、その被害者は少数だ。しかし隔離をしなければ、その影響は全人口におよぶ。隔離はらいの感染を防ぐばかりでなく、患者自身にとっても最も人道的な措置であることを確信する」と述べている。(Culion Island 2003)
1906年5月27日、沖合に泊まった汽船から2隻の小型船に分乗して、370名の患者がクリオン島に到着し、「生ける屍の島」「失われた楽園」とよばれたクリオン療養所の歴史が始まった。この年クリオンに収容された患者は800人であったが、その3分の1は、栄養失調と衰弱のため12月末まで命を長らえることはなかった。
1907年に施行された法律1711号は、全国の患者をクリオンに強制隔離する権限を保健局長に与えた。隔離は一般社会を感染からまもると同時に患者をまもり、ひいてはフィリピンからハンセン病を根絶するための正当な手段であるという理解であった。この法律は衛生検査官に警察権に相当する拘留、逮捕などの権限を与え、組織的に「らい患者狩り」の展開を可能にした。その結果、クリオン島の収容者数は増え続け、1928年には5,330人、1935年時点では6,928人に達し、世界最大のハンセン病隔離コロニーとなった。
マニラ サンラザロ病院のハンセン病患者たち(写真提供 Culion Museum and Archives)
マニラ サンラザロ病院の女性患者病棟内部(1903年)(写真提供 Culion Museum and Archives)
保健省関連施設がある、現在のサンラザロ コンパウンド。(写真提供 Culion Museum and Archives)
1906年5月27日 クリオン島に到着した第一陣の患者たち。沖合に泊まった汽船から2隻の小舟に分乗して到着した370名。暖かく迎えるフランシスカン修道会の修道女たち。1996年 ジョン・リスボア氏(第2世代)が制作しクリオン博物館に展示。(写真提供 Culion Museum and Archives)
隔離の地クリオン島は、その内部にも分断を抱えていた。医療関係者や作業員などが住む健常者地帯「バララ」地区と病棟や研究室、患者の宿舎が並ぶ「コロニー」地区に分断されていて、山側と海側の道路にはそれぞれに検問所があった。検問所を通るには許可証が必要であり、消毒が義務づけられた。病院、学校、郵便局、教会など生活に必要な全ての施設は、「バララ」と「コロニー」の両地区にそれぞれつくられていて、島の中に二つの世界が出現していた。死後の世界も同様で、墓地は患者用、非患者用と東西に分かれている。
唯一の例外は、17世紀スペイン統治時代の要塞の中に建つカトリック教会で、これは患者地区の中にある。新たにバララ地区にも教会が建てられたが、壮大な礼拝堂には健常者(サーノ)の信者も参列した。教会堂の内部は健常者席と患者席が区別されており、ミサにあずかる順番も健常者が先であった。
クリオン・コロニーは内務省保健局の管轄下にあり、医師である所長が運営の最高責任者であった。しかし、フィリピン全土から収容されてくる病者たちは慣習も方言も多様で、集団生活の運営は困難であった。そこで開設当初の1906年から所長を補助してコロニーの運営をスムーズに運ぶため、病者の代表者からなる評議会が組織された。「初期クリオンにおける病者の自治と尊厳への要求の反映でもあった」しかし、特定地方出身者が多数をしめる評議会の構成に不満が出た結果、より公正な代表選出を規定するクリオン憲法がつくられ、1914年以降は2年に一度、18才~60才の男女入所者を有権者として、全国10地方からそれぞれ1人、合計10人の代表によるクリオン諮問委員会が発足した。
病者の増加に対応する設備の建設、運営を補助するため、軽症者には一定の義務労働が課せられ、わずかながら労働の対価が支払われた。病者たちは、個々に漁業や農作業を行っていて、中央調理部の食糧品の大半は病者からの購入で間に合った。基本的な食品は、コロニーの中央調理部から配布されるシステムであった。
患者代表で構成されたクリオン評議会のメンバー。所長(医師)を補佐して療養所の運営管理にあたった。(前列2名は医師)(写真提供 Culion Museum and Archives)
病者地区と健常者地区を分けた検問所の前で。病者の警備隊員。(写真提供 Culion Museum and Archives)
イマキュラーダ大聖堂。1740年建造。内部の祭壇及び天井画は、クリオンのミケランジェロとよばれたベン・アモーレス(病者)によって描かれた。(写真提供 PASTOR HERMIE VILLANUEVA)
病者の代表「クリオン諮問委員会」委員の選挙の日(1925年)(写真提供 Culion Museum and Archives)
クリオン島への隔離は、「隔離と実験的治療のみがハンセン病根絶を可能にする」というハイザー保健局長の構想がその背景にあった(Planta)。ハイザーはクリオン開設前からマニラのサンラザロ病院のメルカド医師と治療法の開発に熱心に取り組み、1906~1910年までは大風子油の経口投与、1910~1914年は精製した大風子油の皮下注射、さらに1914~1921年は、メルカド調剤として知られた大風子油エチルエステルと2%ヨードの調合液が症状の軽減に有効であるとして広く使われた。たしかに治癒例の報告もあるが、当初の期待に反して再発率も極めて高かった。1918年の報告では、1912~1916年の間に治療を受けた1922名の患者の内、3%のみに確実な改善が見られ、73%は変化なし、21%は治療を中止している。
1921年ハイザーの旧友で医師のレオナルド・ウッドがフィリピン総督に就任したことにより、ハンセン病対策は植民地政府の眼玉政策となった。就任演説の中でウッドは、「らいの患者たちを治すことが肝要。なぜなら、大半の患者は治るのだから」とのべ、クリオンへの予算措置を大幅に増加、医師・看護士の増員や治療法の研究と治療の徹底をはかった。他の保健問題が未解決な中での「ハンセン病に対する過大な執念」は、「アメリカの努力でクリオンを変え、らい患者を進歩した市民に変える進歩的植民地政策の文明開化事業」とされた。(Planta)
1947年、からサルフォン剤プロミンが導入され、1950年にはDDS治療が始まり、治癒となる患者が増えていった。1964年の「らい解放令 Leprosy Liberalization Law」により、在宅での外来治療が可能となり、結果的に「らい隔離法」は廃止された。しかしながら、菌陰性・治癒とされても病者の多くはクリオンにとどまることを選択した。後遺障害を抱えている、家族との縁が切れている、退所しても生活の見通しが立たない、クリオン帰りということで偏見にさらされるなど理由はいろいろあるが、クリオンで「同じ病の病友たち」との過ごした年月は、多くの人々にとってこの地がすでに故郷になっていたことを物語っていた。
1982年、WHO推奨の多剤併用療養(MDT)が導入された結果、多くの患者が治癒となった。しかし、新患は次々と発生しつづけた。特に15才未満の子どもの新患が後を絶たなかった。1986年、ハンセン病担当医としてクリオンに赴任したA.クナナン(後述)は、患者の早期発見を徹底するために、島内全家族のハンセン病発症歴の地図を作成し、感染経路の分類を行い、これらの情報をもとに患者の早期発見と治療を徹底した。結果的に後遺障害もなく治癒するケースが増えたが、一方で新患が発生する状況は変わらなかった。つまり、クリオンの人々は一般に患者との接触の機会が多く、未発症の潜在的な患者が多いという現実があった。
感染と発症の循環を断ち切るためには潜在患者への対策が必要と判断したクナナンは、1992年政府保健省の同意を得て、クリオンの全人口12,000人(当時)の中の5才以上を対象に、血清学的検査を複数年にわたり繰り返しおこない、発症の可能性が高いと判断された人々に対する予防的内服を実施した。予防内服はROMのコンビネーションで、毎月1回、6ヵ月服用であった。予防内服をしたグループから新しい発症者は一人も出ていない。
その後もクリオンでの新規患者の発生はなく、2006年創立100周年の年、クリオンのハンセン病は根絶されたと宣言するにいたった。
大風子油の注射。(写真提供 Culion Museum and Archives)
大風子の実。中の種を取り出して絞り、精製する。(写真提供 Culion Museum and Archives)
ハンセン病根絶対策の一環として、治療薬の予防的内服が行われ、対象に選ばれた人々には、予防効果を徹底するため、栄養補食が提供された。(写真提供 Culion Museum and Archives)
初期のクリオン収容者は比較的重症者が多く、長旅と栄養不良で命を落とす人も少なくなかった。クリオンが「生ける屍の島」などとよばれたのもそのためであった。しかし、それでは隔離を怖れて逃れる病者や、隠そうとする家族を説得することはできない。このため「らいは治る」というメッセージをかかげて「狩り出し」が行われ、一定期間の無菌が証明された患者は「パロール・仮解放」として出身地に戻れる制度が初期から運用されていた。出身地に戻った病者は3年間、定期的に治療と観察を受けることが条件ではあったが、多くの病者は観察を逃れ、行方がわからなくなるのが現実であった。 パロール・仮解放の例は少数ながらすでに1907年から見られ、1929年あたりからは年間500人近くに達している。パロールの評価は当時専門家の間では疑問視されており、1923年にクリオンを訪れた光田健輔(当時全生園園長)も否定的であり、1933年に1ヵ月近くクリオンに滞在した林文雄(愛生園医官)も、1906年から1932年までにパロールの対象となった2,263人のその後の状況について詳しく分析して次のように述べている。
「フィリピンでは、初めから癩は全治すのスローガンをかかげて病者を狩り出しクリオンに送った。全治すといった以上退院せしめねばならぬ。そのため解放制度を造った。」「解放制度に関してはフィリピンの癩学者は悲観論に傾いている。しかし、家に隠れていた病者をして進んで診察に来たらしめ、またマニラから2百哩もある絶海の孤島に行かしめたのは『癩は全治し得』という標語と解放制度の賜物と云って差し支えあるまい。早く帰るということがいかに病者及び社会の人々を動かしたかわからない。」(林文雄)
コロニー内での男女の関係はクリオンでも少なからぬ問題を提起し続けた。当初から男女別の病棟、未婚の女性用の女子寮、有刺鉄線で分けた男女別居住区など、性を管理する当局の意向は明らかであった。しかし現実は、
「内縁、同棲関係は手に負えない状況となり、1906~1910年の間に教会の祝福を受けない子どもが70人も生まれ、道徳的危機状態にあった。」「1910年、より自由な男女関係の容認を求める正式要請を所長に提出し、同年9月、政府はコロニー内での結婚を許可するに至った。その結果同年末までに13組の男女が夫婦の誓いをあげた」
(CULION)
出産に対する制限や禁止は特になかったが、「クリオン生まれの子どもから患者を出さない」ことは医師たちの共通の願いであった。しかし現にクリオンで生まれた子どもの発症例(2才未満の例も)も出たため、親から「隔離」してバララ地区の幼児施設で育てることになった。しかし母乳に替わる栄養源の補償がないため、当初は2才まで母親のもとに留めたが、次第にこの期間は短縮され、1930年には生後間もなく親からきり離された。6~7才までバララ幼児院で育てられ、その間に発症した場合や疑われる場合は親の元に、疑いのない場合にはマニラの児童養護施設ウェルフェアヴィルに送られた。
1933年にクリオンのバララ幼児院とマニラ郊外のウェルフェアヴィルを訪問した林文雄は、次のように報告している。
「(バララには)32人の2才以下の幼児がいた。縁側の遊び場そこを半分仕切った食堂一方広いのが寝室である。ベッドについて衰弱しているのが4、5人もいる。皆腸を悪くしているので自分の居る間だけでも4人位の死亡があった。1932年の小児の死亡37人主に消化不良、脚気、気管支肺炎などである。」「バララは3人のカトリックのシスター、14人の子守とで見ている。一週二回は親が面会できる。」ウェルフェアヴィルでは「孤児院の女子寄宿舎の二階に行った。下では丁度女子から出来てる音楽のオーケストラ、三〇人位のものが本式に演奏をやっている。呼ばれた子供が一人一人階段を上がって来て裸になって初期症状を見せてくれる。二つ位の子供もいるが一人も泣かない。その慣れていること驚くばかりである。約十人、既に初期の知覚脱失斑紋がある。この子供など親から七か月目に離したという。」「隣の建物はまだ二年以上幾許もたたない赤坊の家で四五十人欄干から手を出して騒いでいた。」「お庭では八歳、十歳位の男の子がセッセと庭造り。石油缶の水を二人で担いだり面白くやっている。男の大きな子供の靴製造室、女の子のミシン室などある。運動場にもすべての運動器具が具わっている。小学校もある。親類其の他が引き受ければいつでも引渡すので然らざるものは十八歳で外に職を求めてだす。」
病者同志の結婚式。(写真提供 Culion Museum and Archives)
健常者地区にあったバララ乳児院。(写真提供 Culion Museum and Archives)
バララ幼児院(写真提供 Culion Museum and Archives)
ウェルフェアヴィル マニラ郊外の非感染児童施設。(写真提供 Culion Museum and Archives)
ウェルフェアヴィルの女生徒たち。施設には18才まで滞在できた。(写真提供 Culion Museum and Archives)
1910年、結婚が許可された結果、病者の生活にはやや安定感が生まれ、目的意識をもって働く環境が出現した。1911年の結婚数は100件、出産数は30件であったが、1926年には出産件数は96件と増え、幼児施設は満杯状態。子どもへの感染、母親の病状の悪化への懸念もあり、1928年には再度結婚禁止令が出された。しかし一片の禁止令で事態をコントロールすることは不可能であった。病者たちの抗議も無視され、蓄積された不満が日頃男女の交際を厳しく禁じて来た修道会管理下の女子寮を目当てに爆発的な反乱がおこった。
1932年3月25日夜半、200人近い男性が大挙して女子寮を襲った。女子寮からは、これに応える女性たちもいて、40人ほどが寮をでて男性たちに合流した。反乱は翌日もつづき、男性たちは他の女子寮にも火をつけると脅かしたので、2日間で600人の女性が女子寮を去った。この反乱は、前年の日本軍による満州侵略にちなんで「マンチュリア」とよばれている。5月に入って15人の男性首謀者と85人の女性たちが他の療養所に移転させられたが、結婚禁止にたいする皆の不満は解消せず、義務労働の拒否、治療の拒否などの抵抗を示し、「非常なデプレッションがコロニーを支配した。それが1932年のすべての統計に表されているのは驚くべき事である。そして遂に11月に結婚を許す事になった」(林文雄)。予想通り、翌1933年の結婚数は前年の17件から244件に跳ね上がった。出生数も翌1934年の155件に始まり、1940年まで連続して100件台を続けた。
結婚禁止令に反発した抗議活動マンチュリア(1932年)。女子寮に外部から侵入した男性たち。(写真提供 Culion Museum and Archives)
1941年末から45年までの太平洋戦争はクリオンにも厳しく悲惨な日々をもたらした。日本海軍によるミンドロ海峡の封鎖により、医薬品は言うまでもなく、食料、燃料(船と発電機用)が不足し、病院の機能は著しく低下した。病者も住民も自給自足を迫られ、自力で船を操ることができる者たちが近隣の島に食料を求めて漕ぎ出し、日本軍に射殺される例も出た。南部の米軍から食料緊急支援の運搬船が出されたが、2隻とも日本軍の銃撃で沈没し、食料補給の望みが絶たれた。 戦争中のクリオンの死者の多くは銃弾に倒れたのではなく、栄養不良や餓死によるものであった。死者を墓地に葬る人手も余裕もなく、現在の小学校前の広場に掘られた穴に次々に葬る状況であった。戦争中の逃亡者は1,800人、死者は少なくとも2,250人、餓死者が多数であった。1940年に5,658人であった病者の数は、1945年には1,791人にまで減少した。
ハンセン病が治る時代になり、保健省管轄下のハンセン病療養所から一地方自治体としてクリオンの将来を描こうという動きが生まれた。当時は、クリオンという名前に対する社会の偏見が強く、名産のカシューナッツにクリオン産と表示すると買い手がつかないということもあった。クリオンという名前を捨てるという議論もあったが、最終的にはクリオンの名とともに新しい自治体となる、という住民の合意で運動が行われ、1992年の法律第7193号により、北パラワンの1地方自治体クリオン・ミュニシパリティが誕生した。
新しい法律の下で人々は初めて自らの権利を行使して自治体の長や代表を選出した。この時、初代の町長選挙に立候補して見事当選を果たしたのは、ハンセン病の回復者であるヒラリオン・ギア氏(後述)であった。
1995年 クリオン・ミュニシパリティの初代町長に選出されたヒラリオン・ギア氏(中央のバロン姿)(写真提供 Culion Museum and Archives)
レオナルド・ウッド Leonard Wood (1860-1927)アメリカ 軍医、フィリピン総督
ハーバード大学で医学を修めたレオナルド・ウッドは、1899年から3年間キューバで軍司令官を務め、黄熱病根絶などの成果を挙げて、1921年から1927年までフィリピン総督を務めた。フィリピンでは旧友のハイザー保健局長とともに、ハンセン病根絶をアメリカ植民地統治のシンボル事業とするという使命感をもち、隔離と研究と治療を推進した。在任期間中クリオンに潤沢な予算をつけ、自らも16回クリオンを訪れた。クリオンへの予算の偏重はフィリピン人指導者たちの批判を生んだが、クリオンの病者たちにとってウッドは「チャンピオンであり、恩人であり、偉大な指導者であった」。死後、病者たちの寄付でウッドの記念像がクリオンの中心部に建てられた。1928年後継者たちにより「レオナルド・ウッド記念ハンセン病財団」が設立され、1930年には2階建てのウッド記念研究所が完成、ハンセン病治療の研究が続けられた。
(写真提供 Culion Museum and Archives)
ハーバート・ウェイド Herbert Windsor Wade (1886-1968)
1916年、病理・細菌学者としてフィリピン大学医学部に招かれ、1922年からその死までクリオンですごし、ハンセン病の病理研究に数々の成果を残した。1927年ウッドの死後、レオナルド・ウッド(LW)記念ハンセン病財団の医療部長となり、1931年自ら議長としてマニラで開催したハンセン病会議は、国際ハンセン病学会(International Leprosy Association ILA)の創設へと発展した。ウェイドは学会機関誌の編集長として1933年第一号を発刊し、ハイザー(米)、マルソー(仏)に次いで第3代の学会長を務めた。
ドロシー・ウェイド夫人(作家・詩人)も1922年からクリオンに住み、研究資金のための募金活動を積極的に展開。ウッドの死後1927年に設立されたレオナルド・ウッド記念研究財団と研究所の活動資金は夫人の募金努力に負うところが大きい。共にクリオンの墓地に葬られている。
(写真提供 Culion Museum and Archives)
アルトゥール・クナナンJr. Artur Cunanan Jr.(1958‐ )
クリオン島生まれの3代目。母方の祖父母、父の姉妹など親族にクリオンに隔離された病者がいた。クリオンに生まれ、クリオンに育ち、奨学金を得てマニラの大学へ。マニラまでの船賃を工面するために飼っていた豚を売った、という生活状況のなかから、サントマス大学医学部を卒業して医師となった。外科医になってハンセン病の後遺症治療を、という夢を実現する直前、クリオン島で新しく始まるMDT(多剤併用療法)担当チームへの参加を誘われた。
「君はクリオン出身だ。クリオン出身者がきちんとクリオンの人のために働かなかったら、出身でない人がどうしてクリオンのために手を貸してくれるんだ」「私は彼に言われた言葉を反すうしました。研修を受けて外科医になるという選択肢もありましたが、外科医になるためにはまだ時間がかかります。でも今すぐ島に帰れば、とくに子供たちが罹患するのを防ぐことができ、障害を持たなくて済むだろうと考えたんです。1986年、28歳でハンセン病専門医としてクリオン島に帰りました。」
https://mainichi.jp/articles/20150218/mog/00m/040/006000c
若いクナナンは精力的に島民を説得し、あたらしい治療と発症予防を徹底して(前出ー治療)、クリオンの次世代をハンセン病から解放することに貢献した。2000年には島内の全ての患者の治療が終了し、クリオン島のハンセン病は終わった。
現在、クリオン療養所および総合病院 (Culion Sanatorium & General Hospital) は保健省の州レベル総合医療機関として北パラワン地方25万人の保健医療の拠点となっている。クナナンは院長であり、同時に保健省のハンセン病対策委員。さらにWHO専門家として南太平洋諸国のハンセン病対策の支援等に広く活動している。
一方、後遺症を抱えて生活の保障を必要とするハンセン病回復者たちへの支援も忘れることなく、クリオンの回復者組織ACHIの信頼を得ているほか、全国ハンセン病回復者組織CLAPも、クナナンなくしては成立に至らなかったといっても過言ではない。さらにクリオンを含む全国8か所のハンセン病療養所の記憶と遺産の保存、フィリピン歴史委員会による歴史遺産認定への働きかけなど、クナナンの視線は未来にも注がれている。
ヒラリオン・ギア Hilarion Guia (1940-2016) 教師、初代クリオン町長
ルソン島の出身。兄の一人がクリオンに強制収容されていた。自分も顔に斑紋があり、家に閉じこもる生活だったので、クリオンでは隠れずに暮らせるという兄の言葉に動かされ10才でクリオンに移った。小・中学校を卒業後、タラ(マニラ郊外)の療養所に移り、大学に進学、教育と科学の学位を取得した。卒業後の1965年、教員としてクリオンにという誘いを受けて戻り、60才の定年を過ぎてもクリオンで教員として教えた。
保健省直轄のクリオンの生活環境、教育環境整備の遅れなどに疑問を抱き、同様な考えをもつモレタ神父などと共に、クリオンを地方自治体に転換するという将来構想の実現に努力した。1972年マルコス大統領の戒厳令で活動は中断したが、1992の法改正で地方自治体化が確定。具体的な実現は1995年であった。
ギアにとり、クリオンを一地方自治体にするということは、生活環境の向上ばかりではなく、「保健省直轄のハンセン病の島クリオン」につきまとうスティグマを払拭し、普通の市民として生きる場所にするという願望の実現だった。若年人口の多いクリオンには何よりも教育が必要で、クリオンがコミュニティとして発展していくために自分に出来ることは何かを考えた末、クリオン初代町長選挙に立候補した。見事当選して3年間自らの描くクリオンの実現につとめた。「いつまでもハンセン病の悲劇の島であってはならない。クリオンはもう立派な一般社会の一部なのだから」。
http://www.smhf.or.jp/hansen/lifestory/lifestory10/
ベン・アモーレス Ben Amores (1934‐1988) クリオンのミケランジェロ
1950年、16才でクリオンに隔離収容された。病気は進行し、手指もすべて失っていたが、才能に恵まれ、絵を描く意欲を失ったことはなく、1978年にはオラザバル神父の要請を受けて、クリオン要塞の中のイマキュラダ教会の天井画を描いた。指のない手に絵筆を結び付けて、1日8時間、地上30フィートに組まれた櫓の上に座ったり、寝転がったり、数か月かけて書き上げた。「不可能ということはないよ」という言葉を残して1988年54才で死去。クリオンのミケランジェロとよばれた。
(写真提供 Culion Museum and Archives)
100年前、マニラから2昼夜の船旅だったクリオンは、今では半日の旅となった。マニラから空路ブスアンガ島まで70分、空港からコロン港まで車で30分、最後に海上をアウトリガーのボートで70分、緑の山肌にフィリピン保健省の鷲と蛇のマークが白く埋め込まれたクリオン島が見えてくる。歴史と対面する印象的な到着となる。
1906年の隔離開始以降、この島に送られた病者は4万5千人。「生ける死者の島」「ノーリターン・(一度来ると)引き返せない」の場所とも呼ばれてきた島は、1992年、周辺40余りの島々とともに地方自治体クリオン・ミュニシパリティとなった。20,000人を超える人口の75%は先祖にハンセン病者がいるが、1980年代以降、治療と啓発の徹底と世代交代が進み、もはやこの病気が人々を分断することはないという。病院もハンセン病専門の医療機関から、パラワン州北部25万人を対象にした州レベルの総合病院に変換され、クリオンの行政も医療も大きく変貌した。人口は若く、活気に満ちている。
2006年クリオンは隔離の島開設100周年を迎えた。100周年記念行事は、海外からの帰郷組も加わって、全島挙げて過ぎ去った一世紀を振り返る企画となり、隔離の島の歴史を見据えつつ、新しいクリオン像を祝い宣言するものであった。100年前に最初の患者たちが到着した場面の再現から、クリオン歴史博物館・文書館の開設まで、「謙虚に過去に学び、この島に追放された人々が遺した廃墟のなかから、力強く新生クリオンを担う人々が生まれ、楽園の復活をなしとげる」姿を強く印象づけた。企画責任者の一人であったクナナン(前出)は、100年間の歴史と変化は「隔離から統合への変換(Transformation)を反映した、まさにクリオンの変貌(メタモルフォーシスMetamorphoses)をあらわしている」と述べている。
新しい世紀に船出をした地方自治体クリオン。圧倒的に若い人口構成を抱えているが、さしたる産業も見当たらない。しかし、近年クリオン島を含むコロン湾に点在する島々が、「フィリピン最後の楽園」「絶景のビーチ」など新しい観光の人気スポットとなり、島めぐりの中にクリオン島とその歴史を訪ねるプログラムが生まれている。クリオンの第2世代の中には、「クリオン歴史ガイド」として観光客に島を案内するグループも生まれている。
https://www.facebook.com/HermieVillaueva/?pnref=lhc
コロン湾内の島々には大小各種のリゾートが増えつつあり、クリオンの若者の就業先も広がりつつある。
クリオン島を訪れる観光客たちにクリオンの歴史を誰がどのように伝えていくかは大きな課題である。これに関しても重要ないくつかの動きがあった。一つは、2014年、国の歴史委員会(NHCP)がクリオン島を歴史的遺産に認定したこと。さらに、2016年、同委員会は若い歴史研究者たちによる「フィリピンのハンセン病史 HIDDEN LIVES CONCEALED NARRATIVES」を刊行した。そして2017年5月、歴史委員会はクリオンの歴史関連施設の修復、再建、再開発のための特別予算を確保し、国家予算でクリオンを歴史遺産として復興・再建する。
その意図するところは何か、クリオンの未来にどのように関わってくるのだろうか、具体的なイメージはまだ見えていないが、歴史を観光の要素として動き始めたクリオンの将来に期待を持たせてくれるものであることに違いない。
そして最後に、2017年7月、ハンセン病であった両親のもとに生まれた一人の青年が、奨学金を受けてフィリピン大学医学部レイテ校を卒業した。クリオンの医師となることを希望し、クナナン医師を目標としているという。オディン・ダヤグ君。ダヤグ君の医師への途は、日本の伊波敏男氏が2003年に個人の資産で始めた奨学金制度「クリオン虹の基金」によって拓かれた。今日までに同基金で進学した17人の若者たちの中での最初の医師の誕生であった。
( http://rainbow.culion.jp/ http://www.kagiyade.com/?p=4081)
今クリオン博物館では、一つの新しい企画が進んでいる。それは入り口ホールの両側の壁面に、クリオンに生きた全ての人々の名前を刻むプロジェクト。5万人近い人々の名前とともに、クリオンが目指す未来へのあゆみが始まる。
「クリオンは、強く、生気あふれるコミュニティとして蘇った。過去の歴史を輝ける未来に生かして着実に進みつつある。隔離と孤立から融合と統合への〈意味あるあゆみ・道程〉が始まった」。(クリオン博物館)
クリオン パラワンの真珠
全能の神の与えたまいし
海・山・野原 たぐいなき美しさ
犠牲と絶望は消えて
悲しみと嘆きの歴史 癒し慰める
希望は人々にあり 若者の知と勇気にたのみ
いのちまもり来し島
友よ、クリオンをたたえよう
パラワンの真珠 クリオン
「クリオン文化遺産ツアー」を企画運営する、Pastor Hermie Villanuevaたち第2世代グループのプロモーション写真(写真提供 PASTOR HERMIE VILLANUEVA)
クリオン博物館・文書館。旧レオナルド・ウッド記念研究所。1930年建造。(写真提供 Culion Museum and Archives)
クリオン博物館・文書館は、2017年、隔離の島クリオンで命を全うした人々の名前を銘記するプロジェクトを開始。名前が判明した6000名の名前の展示を始めた。(写真提供 Culion Museum and Archives)
クリオン博物館・文書館前で。回復者団体ACHIのメンバー。多くがクリオン博物館の語り部として活躍中。最後列中央、クナナン院長(写真提供 Culion Museum and Archives)
クリオン虹の会会長 伊波敏男氏とクリオンで医師となる予定のダヤグさん(2017年)(写真提供 伊波敏男氏)
参考資料: