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久保 瑛二(東北新生園入所者自治会代表)

春には満開の桜が、夏には5000発の花火が、地域の人びとを楽しませる風物詩となっている東北新生園。
ここで50年にもわたって自治会長をつとめる久保瑛二さんは、かつて函館の港町からたった一人でやってきて、
療養所の大人社会になじめずに、ちょっとすねていた少年だった。
入園者が誰もいなくなる将来を見据えて、これまでどのような思いで自治会を営んできたのか、
スポーツ万能の“武勇伝”の数々とともに、話をうかがいました。

Profile

久保瑛二氏
(くぼ えいじ)

1933(昭和8)年、函館に生まれる。1947(昭和22)年、14歳のときに東北新生園に入る。33歳より入所者自治会長。2004(平成16)年に「東北新生園将来構想」を策定し、以降新生園のセンター施設の整備や、地域住民のための施設づくりを進めている。

桜と楓の里づくりをめざす将来構想

いま、こちらの新生園には何人くらいいらっしゃるんですか。

  • 1986(昭和61)年に竣工した霊安堂。屋根のかたちは中尊寺に着想を得て設計されている。

今日現在でいうと71人です。平均年齢は86歳を超えました。昭和30年代の一番多い時代には600人くらいいたんですが、どんどん減ってきました。亡くなった人の数は833人です。自分たちもいずれいなくなって、そこの霊安堂に納まることになるわけです。霊安堂は昭和61年に新しく建てたもので、1000人分のお骨を入れられるようにつくってありましてね。

ここは11万坪あるんですよ。平米数でいうと35万平米、東京ドームが5つか6つ入るくらいの土地があります。そこに、亡くなった方への鎮魂の意味を込めて桜を植えようということで植樹も始めました。「どうせなら千本桜にしてくれ」って声もあるもんですから、千本めざしてやっていこうかなと思ってます。2週間前に「いったい何本くらいあるのかな」と思って、自分の足で敷地内の野山をかけずりまわって1本ずつ数えてみたんですよ。そうしたらすでに855本ありました。新生園開設当初に植えられた桜も、ほとんど枯れかけていますが、ありますよ。千本桜ももう来年あたりには完成するんじゃないかな。

まあ、自治会長というのは、そういうことをいろいろ考えてやっていかなくちゃならないのでね。

ここの敷地に入ってきたときに、建物が整然と並んでとても美しいところだなと思いました。将来構想にもしっかり取り組んでこられているそうですね。

いま皆さんがいるこの建物(第1メープルセンター)もね、全国に先駆けて居住施設と医療やケアの施設を集約しようということでつくったものですよ。平成16年に予算をいただいて、平成21年までかかってつくりました。東日本大震災のときは、すでに皆さんを一カ所に集約していたので、ほとんど影響もなく済みました。職員も含めて皆さん、「おかげで助かった」って言ってくれましたよ。

名前を「メープル」としたのも、将来的にここが一般の障害者の方や高齢者のホームになったときのイメージを考えて、「不自由者」といった言葉は使わないようにしようということで、このあたりに多いカエデにちなんで名づけました。

千本桜もそうですが、将来構想には、地域の方々に恩返ししたいという思いを込めているんですよ。渡辺和子さんの『置かれた場所で咲きなさい』という本があるんですが、それがすごく自分の心に残っていましてね。自分たちは桜の花のように、ひと花咲かせて潔く散っていく。でもここにつくったものは、地域の方々のためにずっと残せるものにしていきたい。

地域の方々とはいい関係を築いてこられたんですか。

  • 地域の夏の風物詩となっている花火大会
    (写真は東北新生園提供)。

町のなかでいっしょに住んでいるような感じで、行き来もありますし、訪ねても来てくれます。夏にはここで花火大会をやるんですが、大勢が来てくれます。ああ、そうだ。皆さんも私の写真なんか撮りに来るより、花火大会の写真を撮りに来てくれればいいのに(笑)。今年は7月22日、7時から1時間くらい、5000発くらいあげますよ。この地域の風物詩になっています。

そういった地元の方々との関係は昔からですか。

昔から偏見差別が少なかったですね。このあたりはもともと山だったんです。昭和30年代にお米の増産を国が計画したときに、このへんの山も切り崩して田んぼにするという話になりましてね。当時の入所者たちが「俺たちが手伝おう」といって、何から何まで引き受けたんです。東北の農家の出身者が多かったので、どうやって開墾すればいいのかよくわかっていた。そういうことがあって、地域の皆さんと親しくなったんです。いまもこの周辺の農家の方は、秋になると収穫したお米を届けに来てくれますよ。もうお孫さんの世代の人たちですが、「皆さんにはたいへんお世話になりました」と言ってね。

写真奥の手前の建物は総合会館「さくらホール」、その後ろの建物が「第1・第2メープルケアセンター」。いずれも将来構想に根差してつくられた。新生園の敷地に接して地元の方が管理する水田が広がっている。

誰も守ってくれなかった―少年時代の思い出

久保さんがこちらに来られたのはいつのことですか。

  • 「しんせい資料館」に展示されているかつての新生園の模型。

昭和22年の5月、14歳のときに、結核だと言われてここに来たんです。2年もおとなしくしていれば帰れるからと騙されて、胸のポケットに「青森駅に着いたら鉄道員に聞け」って書いたメモをもたされて、一人でここに来ました。それで着いてみたら、こんな何もない山のなかでしょう。私は函館の都会育ちでしたから、ショックでしたよ。親を恨みましたね。毎日のように山に行って北海道のほうに向かって「ばかやろう、ばかやろう」って叫んでました。そしたら「お前、ばかだな、北海道はそっちじゃないぞ」って言われて(笑)。それで「あいつはヘンなやつだ」って有名になっちゃった。

部屋の大人たちからはよくいじめられましたよ。お父さんやお母さんといっしょに来たような子どもは、いじめに合わないんです。食べ物に苦労することもない。だけど私みたいな子どものことは、誰も守ってくれない。北海道から来たから、東北の人たちの話す言葉もわからなかったし。

プロミンが届くようになってからも、いつもくじ引きで「はずれた」と言われて、なかなか私には回ってこなかった。大人は「お前たちはまだ子どもだから、俺たちが先に(注射を)打ってみるから」って言ってましたけど、「嘘だ。それが大人のやることか」と思っていた。でも自治会長をやるようになってから、少しそういう大人たちの考えることがわかるようになったというかね。600人もいるところに、ほんの少ししか薬が届かないとなると、いったいどうやって分ければいいのか、やっぱりああするしかなかったのかなとも思うんです。日本では、プロミンがみんなにいきわたるようになるのが、あまりにも遅かったということもあったんですね。

でも、そんなことがいろいろあって、いまから思うとちょっとふてくされて、ぐれてしまいましたね。武勇伝もたくさんありますよ。

武勇伝って、いったい何をやらかしたんですか(笑)。

むかしここに30メートルほどの高さの煙突が立っていたんですが、「あそこに登れば、ここのことがよく見えるかな」と思って、上まで登ってしまったとかね。ここへ来てからずっとアリのように地べたに這いつくばって生活していたから、ここがどういうところなのか上から見てみたいと思ったんですよ。そうしたらみんなが煙突の下に集まって来た。心配して泣いている人もいた。「あの子、自殺するつもりだ」って思われちゃったんですね。それで降りてきたら、顔も手足も真っ黒ですよ。そのまま自治会に連れて行かれて、こんこんと説教されました。

町の子どもたちとよくケンカもしましたよ。いじめられてたわけじゃなくて、こっちがいじめてた(笑)。やっぱり自分たちのような境遇にいると、町の子が妬ましいんですよ。しょっちゅう野球をやっていっしょに遊んでいたんだけど、野球しながらいじめたりしてね。いまもあのころ遊んだ連中がここに遊びに来ますが、「久保さんにいじめられた」って話をよく聞かされます(笑)。

ここに住んでいる人間は、門から外のことを「社会」っていうんです。これって刑務所に入っている人しか使わないような言葉ですよ。たまに町に行くと、つい「やっぱり社会はいいなあ」なんて言ってしまう。町にいる人たちはギョッとしますよね。若いころは町に行きたくてもお金がない、だからよく仲間と門のあたりでたむろしていました。そうしたら通りがかったバスに乗っていた人から「ここはなんだ、少年院か」って言われたこともあります。昼間から少年たちが集まってたむろしているんですから、異様に見えたんでしょうね。

園内では仕事をさせられたりもしましたか。

  • 火葬場跡にたつ石碑。火葬は入園者たちの仕事とされていた。

朝起きるとまず部屋の掃除、それから水汲みに行かされる。それが私の役目でした。背が小さかったこともあって、本当につらかったですよ。バケツが重くて肩が痛くなるので、バケツの水を半分くらいにするんだけど、そうすると二回行かなければいけない。そのあとは畑仕事ですよ。函館のコンクリートジャングル育ちの私は(笑)、それまで畑なんて見たこともなかったのに。

火葬場の仕事もありました。昔は人がなくなると園の中の火葬場で焼いてましたからね。その仕事が順番で大人の方にはまわってくるんです。でも火葬の任に当たる方々から白米のおにぎりを食べさせてもらえるんです。ふだんは麦飯しか食べられないから、それがうらやましくてね。火葬があると、「あ、白いご飯が食べられる」って卑しいことを思うわけです。怖いとかいった気持ちはぜんぜんなかったです。四六時中お腹を空かせてたから、欲ばかり強くなってしまってね。

ところがね、当時の火葬場は火力が弱くて、なかなか焼けないんですよ。そういうのを見ていると、やっぱりつらくてね。みじめな気持ちになってきました。あの時代は職員の数も少なくて、いまでは医師法違反だとか言われるようなことまで平気で入所者がやっていました。

外出にはさほどうるさく言われなかったんですか。

ここは他の療養所とは違って、塀も何もないですから、どこに行っても咎められるということはなかったですね。園内通貨(註)もなくて、普通にお金をやりとりしてました。ただ、汽車に乗ろうとすると駅員から連絡が入って職員が迎えにくるということはありました。療養所から逃げ出すんじゃないかと思われたんですね。「外出証明書」に行先や連絡先を書いて、「何日には帰ってきます」という誓約書のようなものを書いて出せば外泊も許されるんですが、それは親きょうだいが亡くなったときだけという条件があった。そもそも病気が重い人には医者が許可しなかった。やはり「らい予防法」が生きているあいだは、そういう面があったんです。

昔はここに「留置場」もあったんですよ。たまたま自室の部屋長さんが、無断外出してそこに入れられまして、ごはんを運ばされたことがあります。外側が壁で囲まれていて、中に入ると建物があって「心身鍛錬道場」と書いてありました。無断外出したような人が1週間とか10日とか入れられるところということで、みんなは「留置場」と言ってました。

そんななかで、久保さんは何か夢中になって取り組んだことはありましたか。

野球とかテニスに熱中しましたね。部屋の仕事をちゃんとやるならいいと言われて、それだけはちゃんと守って、グラウンドに行ったら人が変わったように暴れてました(笑)。野球の試合で6割2分5厘打ったこともありますよ。よく「イチローなんか問題にもならない」って自慢話したもんです(笑)。

あと夢中になったのはマラソンです。毎日かかさず園のまわりを7キロほど走ってました。東北六県あちこちに行って、フルマラソンやハーフマラソンにも出ました。大会では5キロを17分で走らないと何にももらえないんです。だから私は17分をオーバーしたことないですよ。職員たちは私といっしょに走るのを嫌がる。「会長の嘘つき。いっしょに走るって言ってたのに、一人で先に行っちゃって」って(笑)。

ああ、久保さんはゆっくり走れない人なんですね(笑)。

とくに景品を見たらもうダメです。野球でもテニスでも景品があると目の色変わっちゃう。だからよく賞金泥棒って言われてました。短距離も得意でしたよ。昔は100メートルを11.6秒くらいで走ってました(註:このタイムは中学生の陸上選手並みの速さ)。運動会では「お前は2、3メートルうしろからスタートしろ」なんて言われて、差別されてました(笑)。ハンデをもらっても大人に負けませんでしたよ。

野球やるのもマラソンするのも、私にとっては遊びじゃないんですよ。やっぱりそういうものに夢中になることで、病気のことをなんとか忘れたかったんですね。

註)ハンセン病療養所では、感染防止や逃走防止のために、入園者に対して園内だけで通用する特殊通貨を持たせるケースが多く、日本では1919年に多磨全生園が最初に特殊通貨をつくった。

自治会が企画し、職員の皆さんの手づくりによって美しく整備されたパークゴルフ場。無料開放している。

500人の死者を見送ってきて思うこと

園内にはパークゴルフ場もあるそうですね。

  • 子どもたちが野球やフットサルを楽しむグラウンドには、応援席も設えられている。

パークゴルフ場は職員の手作りなんですよ。だんだん園内で畑をつくる人が少なくなって、どんどん空き地が増えて、雑草が生い茂るのでなんとかしてほしいと皆さんから言われましてね。それでパークゴルフ場をつくったらどうかと考えたんです。元職員のOBとか地元の方たちとか、平泉の中尊寺のお坊さんたちが訪ねて来てパークゴルフを楽しんでますよ。ここは国立ですから、使用料なんか取りませんしね。誰でも無料で使っていただいてます。いま18ホールありますが、あと2ホールほど増やしたいと思っているんです。

グラウンドのほうも整備し直しました。子どもたちから野球だけではなくフットサルもやりたいと言われたので、グラウンドの土もぜんぶ入れ替えて、子どもたちがケガをしないように柵も作り直しました。いまは毎年、地元の少年少女の野球大会をここでやっています。2~3年前の大会では、震災で被害を受けた三陸の子どもたちを招いたんですが、その子たちがあっというまに優勝しちゃってね。そういう夢みたいなこともおこりました。

じつは楽天(プロ野球チームの東北楽天イーグルス。宮城県をフランチャイズとする)ができたとき、第1回の野球教室をここでやってもらったんですよ。野村(克也)監督と奥さん(沙知代夫人)に「なんとか地元の子どもたちに野球教室を開いてほしい」とお願いしましてね。日本財団が協力して実現してくれました。100人以上も子どもたちが集まってくれましたよ。いま楽天は各地で野球教室をやっていますが、最初はここだったんです。

もちろん、ゲートボールも盛んなのでしょう。

  • 高松宮杯、寛仁親王妃殿下杯を競って東北六県からチームが集まるゲートボール場。

毎年6月後半に、高松宮杯というゲートボール大会をうちで開催しています。昭和59年に高松宮がここにおいでになったとき、「何かできることがあれば」と言われたので、高松宮様の記念杯が欲しいっていってお願いしたんです。以来延々と、今年でもう34回目になります。東北6県から、もちろん地元からも、50チームくらい、1チーム6人だから300人くらい集まってきます。それと寛仁親王はもう亡くなりましたが、東日本大震災以来お見舞いに来てくださっていた御縁で、信子妃殿下にお願いして「寛仁親王妃殿下杯」という、女子だけのゲートボール大会も9月にやっています。こちらも30チームくらい集まってきます。

少年少女野球大会でもゲートボール大会でも、最初に必ず私が会長として挨拶をして「ハンセン病というのは治る病気です」ということを挨拶でお伝えするようにしているんですよ。

お話をうかがっていると、地元の方々のために本当にいろんなことをやって来られてるんですね。

私たちは昔は「らい」って呼ばれて忌み嫌われていた病気にかかって、「らい予防法」によって強制収容されてきたわけですが、そんな私たちのことを受け入れてくれた地域の方々に少しでもお礼することができればと考えてきました。私たちがこの世からいなくなったときには、ぜひここの建物も皆さんのために使ってほしいと、市や県に申し入れをしているんですよ。

私はもう50年もここの会長をやっています。先輩たちから「お前がやれ」ということで無理やりやらされて、いまは副会長のなり手もいなくなって、なんでも一人で決めてやらないとならない。代わってくれる人がいるなら今日にでもやめたいですけどね。ほかになり手もいないですから。

会長になってからいままで、500人ほど野辺送りをしてきました。誰かが亡くなると、会長として必ず野辺送りをして火葬場までいっしょについて行ってあげるんです。そういうときには、つい「お前、よかったな」という言葉をかけてやりたくなる。人が亡くなったというのに「よかったな」はないだろうと思うでしょうけど、昔はここの仲間うちでは、「24歳まで生きられたらいいほうだ」と言われてたんですよ。だから亡くなっていく人には、「お前、よかったな」と言ってやりたくなる。

私ももう84歳になりました。「もし病気にならなかったら何をやりたかったか」と、いままで歴代の園長から聞かれてきたんですが、一度だけ「やくざ」って言ったことがあるんです(笑)。まあ半ば冗談ですけど、私が生まれた函館の港町にはそういう“やくざ”な人がいっぱいいて、子どものころよく見ていたので、とっさにそういうふうに答えてしまったんですね。14歳かそこらでここに入ってから、社会に出たことがないんだから、「病気にならなかったら何をやっていたか」なんて想像もつきませんよ。

いやな思い出もいっぱいありますけど、いまはもううらみやつらみは消えました。平均余命から考えると、私たちがここでこうしていられるのも、あと4年かな、5年かな。もうそんなに長くはない。そういうことを繰り返し繰り返し反芻しながら、この場所に何を残していきたいかということを、ずっと考えてやってきたんですよ。

取材・編集:太田香保 / 撮影:川本聖哉