ハンセン病制圧活動サイト Global Campaign for Leprosy Eliimination

ハンセン病に向き合う人々

豊見山 一雄(宮古南静園入園者自治会 連絡員)

日本統治下の台湾での強制収容。敗戦による沖縄愛楽園への強制転園。
強いられた自給自足のための労働。治療の遅れによる病気の悪化。
長いあいだ生きる場所を選ぶことができなかった豊見山一雄さんは、
疎遠になっていた家族との関係を取り戻すことによって、
ようやく自らの意思でふるさとの宮古島に帰ってきた。
三つの療養所をまたぐ豊見山さんのライフストーリーには
肉親の幸せを願うがために、肉親を遠ざけ続けた
ハンセン病当事者の家族たちのヒストリーが込められている。

Profile

豊見山 一雄氏

1929(昭和4)年、宮古島で生まれる。1943(昭和18)年、日本統治下の台湾でハンセン病を発症し、強制収容によって楽生院(台湾総督府楽生院)に入園。日本の敗戦を機に、1946(昭和21)年に沖縄愛楽園に転園。1985(昭和60)年より宮古南静園。入園者の高齢化により休会中の自治会において、現在「連絡員」をつとめている。

台湾、沖縄、宮古島――3つの療養所を体験して

豊見山さんは、いまお幾つですか。ハンセン病はいつごろ発症したのですか。

今年の6月がきたら米寿(88歳)になります。発病は昭和18年の3月ごろだったと思います。ぼくは宮古島の生まれなんですが、そのときは父親の仕事の関係で台湾におりました。友達といたずらして鉛筆でつつき合っているうちに、腕の皮膚の感覚がないことに気が付いたんです。おかしいなと思って、友達につねってもらったんだけど、ぜんぜん痛くない。母親にそのことを言ったら高雄の病院に連れて行かれて、医者から陸軍病院で診察を受けるように言われました。その陸軍病院で「らい病だ」と言われました。それがどういう病気なのかよくわかりませんでしたが、母親の顔色が変わったもんですから、あれっと思ったんです。

でも母親にくわしいことを聞こうとしても「なんでもない」と教えてくれない。父親もあんまりものを言わなくなってしまって。しばらくすると、警察から連絡があって、楽生院(台湾のハンセン病療養所)へ行くようにと言われました。病院の先生が言うならわかるんですが、なんで警察がそんなことを言うのかなと思いました。あとで知ったんですが、強制収容というのはそういうものなんですね。

台湾の療養所は、日本政府がつくったものですよね。

当時は日本が台湾を統治してましたからね。それで、楽生院に入院しました。14歳のときです。

入院したときに、入園者の役員の方たちに呼ばれて、偽名を使えと言われました。親がつけてくれた名前があるのに、なんで偽名を使わなきゃならんのかなと思いました。そのころはハンセン病に対して偏見や差別があるということを全然知りませんでしたから。どうすればいいのかもわからず黙っていたら、向こうから「タナカマサオ」にしろと言われました。突飛な名前を付けられて困りましたが、しかたなくそれを使いました。あとで下の名前だけは本名の「一雄」に変えましたが。

楽生院では、日本人と台湾の人とは別々になっていました。炊事もそれぞれで、ぼくたちには料理のうまい先輩がいて、いろいろつくってくれました。量はないですけど、ある程度不自由なく食事がとれました。ところが終戦と同時に、台湾の人たちといっしょにされたんです。食事も台湾料理になってしまって、しばらく慣れるのに苦労しました。

そのあと、昭和21年の12月に、沖縄の愛楽園に引き上げました。

戦後すぐの愛楽園も大変な状況だったのでしょう。以前、愛楽園を取材したとき、沖縄戦
で建物が壊滅し、皆さん物資や食糧がなく大変苦労されたと聞きました。

  • 沖縄愛楽園の歴史資料館に復元されている敗戦直後の病棟。米軍のコンセット(兵舎)が使われていた。

それはもう、ものすごいところに来たなと思って、びっくりしました。あちこちに爆弾が落ちた穴が開いていて水が溜まってました。その穴を埋めたりする作業をさせられました。そのときまだ20歳かそこらですから、先輩たちから「やれ」と言われたら、嫌とはいえないですからね。朝から晩まで、「あれをしろ、これをしろ」とこき使われました。

アメリカ軍の収容によって、それまで900人ほどだった入園者が1000名近くに増えていたんです。建物といえばアメリカのコンセット(かまぼこ型の兵舎)があるだけで、一棟あたり30人くらい、毛布とゴザを一枚ずつ与えられて、畳一枚分くらいの場所で寝起きしてました。食べるものもすべて自給自足ですよ。

その後、プロミンが出回るようになったんですが、「あんたは後回しだ」と言われましてね。退所できそうな軽症の人から先に与えられたんです。そのうちに急に体調が悪くなって、半年くらい39度近い熱が続きました。体に紅斑が出て、それが化膿するんです。プロミンやDDSでなんとか落ち着きましたけど、以来ずっと体がおかしくなって、そのときから退院はあきらめました。この指も、そのころからだんだん曲がってきたんですよ。

愛楽園からここ南静園にはいつ移られたんですか。

昭和60年、1985年です。やっぱり歳をとってくると故郷が恋しくなりますからね。ここにきてから本名を名乗るようにしました。沖縄に引き上げたときに本名を使うかどうか考えたんですが、台湾でずっと「タナカ」と呼ばれてたのですっかり慣れてしまいましてね(笑)。急に変えるのも都合が悪いかなと思って、ずっと「タナカ」で通してたんですよ。

沖縄戦によって愛楽園は甚大な被害を受けた。いまも生々しい被弾跡が園内の壁に残されている。

家族との別れと再会――差別への恐れがもたらしたもの

ハンセン病のことをよく知らないまま台湾の療養所に入られたとのことですが、その後
は偏見や差別を受けたことがありましたか。

ぼく自身は、偏見や差別にあった経験というのは、あまりないんです。台湾では地元の店に行ったりしても、そんなに嫌われているようには感じなかった。ただ、沖縄では少しありましたね。愛楽園の隣村の人たちは、ぼくたちが道を通るとヘンな目で見てました。わざわざ海岸のほうを遠回りして行ったりしてましたね。お祭りを見に行ったら「帰れ、帰れ」と言われたこともありました。

それよりもつらかったのは、家族のことです。台湾の療養所に入ってまもなく、父親が亡くなったという連絡が姉から来たんです。それで線香の一本でもあげたいと思って、こっそり家に帰ったんです。その家も、以前の住所から変わっていたので、だいぶん探し回って、ようやく母親と会うことができました。

ところが、母親が「あんたを家に連れて行くわけにはいかない」と言うんですね。そのころいちばん上の姉が婚約したばかりで、ぼくのことを姉の旦那に話していない、「あんたが行ったら大変なことになる。我慢してくれ」と泣きだしそうな顔で言われたんですよ。その顔を見て、ぼくまで泣きそうになりました。結局、線香をあげることもできず、しかたなく園に戻りました。

先輩たちにその話をしたら、「そうだろうな。やむをえないよ」って言われました。どうしても納得できなかったですよ。それまで、ハンセン病になると家族にまで差別が及ぶなんてことも、母親が姉の結婚のためにそんな心配しなければならないような状況があるということも、ぜんぜん考えたこともなかったんです。でも母親のあのときの顔を思うと、それくらい大変なことなんだということはわかりました。

それからしばらく、家族とは離れたままになっていました。台湾から引き上げてくるときもべつべつですし、母親や姉弟たちが宮古に戻ったのかどうかもわからない状況が続きました。

その後、お母さまやご姉弟とは再会されたんですか。

あるとき、南静園から愛楽園にひょっこり知り合いが来ましてね。その人が、ぼくの家族がどうなっているかを調べてくれたんです。そうしたら、南静園の福祉室の人が、偶然ぼくの姉を知っていた。そこから、家族が那覇にいることがわかったんです。ただ、那覇のどこにいるのかまでは詳しくはわからなかった。

そのころぼくは園の自治会にかかわっていました。先輩といっしょに那覇に出る折衝の用事があったんです。そのとき「たぶん家族がいるのはここらへんだ」と聞いていた場所に行ってみたら、偶然にもそこに母親がいたんですよ。母親が歩いていたんです。

すごい偶然ですね。お母さまのほうもびっくりされたでしょう。

はい、それはもう。一番下の弟は仕事で京都にいるとかで会えなかったんですが、すぐ下の弟とも会うことができました。それから少しずつ、家族とのあいだで行き来が始まったんです。家族のことを教えてくれた南静園の友達には、感謝しきれないくらいですよ。

ぼくが宮古に来てから、たまたま姉夫婦が宮古に引っ越してきました。そのころはもう外出もさほど厳しくなかったですから、姉の家を訪ねていって、初めて旦那とも会いました。そうしたら、台湾では母親があんなにまで言って、ぼくが行ったら縁談がだめになるかもしれないからって線香もあげさせてもらえなかったのに、旦那にはそんな偏見は何にもなかったんです。姉に、ぼくが父親が亡くなったときに訪ねていったことを知っているのか聞いてみたところ、聞いてなかったと言ってました。母親はそのことも隠していたんです。

このハンセン病というのは、病気にかかった者だけではなくて、家族にまでそういったかたちでつらい思いをさせてきたんですね。いま家族裁判が起こされていますけども、本当に家族の皆さんもいろいろな目に合ってきただろうと思いますよ。

でも豊見山さんはそうやって、またご家族との縁が取り戻せたんですね。

いまも姉の子どもたちがしょっちゅう訪ねてきてくれます。甥っ子は、ぼくが愛楽園にいたとき、突然訪ねてきてくれたこともあったんです。琉大を受験することになったから、2、3日泊めてほしいって。いやいや、びっくりしましたよ。「お前、誰からここのことを聞いたんだ」って言ったら、「へへへ」と笑ってごまかしてましたけど(笑)。まさかそんなことしてくれるなんて思ってなかったですからね。やはり若い人たちほど、病気に対する偏見がないんですね。

むしろぼくのほうが、何かあると家族に迷惑がかかるんじゃないかと、ずっとびくびくしていたようなところがあります。国賠訴訟の原告になるかどうか迷ったときも、父親に線香をあげにいったときに母親から言われたこと、「姉弟に迷惑をかけるようなことをするな」と強く言われたことが、ずっと頭のなかに残っていて、なかなか決心できませんでした。名前が表に出たら、姉弟たちに迷惑がかかるのではないかと思っていたんです。でももう時代は変わってきたんだ、園の仲間たちといっしょに国賠訴訟を闘ったほうがいいんだと考えて、姉に話したうえで、原告団に入りました。

南国の海と赤瓦のコントラストが美しい現在の南静園。かつてこの一帯は患者の暮らす「有菌地帯」と呼ばれ、高台にある職員地区=無菌地帯と区別されていた。

偏見や差別をなくすために――正しい知識を知って理解してほしい

愛楽園でも南静園でも、いろんな文化活動やスポーツが盛んだったと思いますが、豊見
山さんがとくに熱心にかかわって来られたことはありますか。

  • 地元ボランティアのみなさんの協力によって整備が進んでいる、人権啓発交流センターとハンセン病歴史資料館

  • ハンセン病歴史資料館では、かつて使われていた生活道具を集めて入所者の暮らしを再現している。

愛楽園にいたときに沖縄芝居をやっていました。沖縄芝居の好きな人が自治会長になって、みんなでやらされたんですよ。あのころ1000人もの入園者がいて、10か11の部落に分かれて、食料をつくるのも何をするのも、部落ごとにやっていたんです。芝居も部落ごとに分かれて、競いあってやりました。

ぼくは宮古の生まれだから、沖縄の言葉はぜんぜんわからなかったんですが、「それでもやれ」って言われて無理やりに(笑)。でも、そういった活動をすると必ず夜食が出るんですよ。若いころは年がら年中腹が減ってますから、最初はそれを食べるのが目的でやりました。そのうちに少しずつ沖縄の言葉も憶えて、宮古の言葉よりもつい沖縄の言葉のほうが出てしまうまでになりました。いまだにそうですよ。

あのころは仕事はきついし貧しいし、つらいことが多かったですが、どこか楽しいという気分もありましたね。いまはいろんな面で恵まれていますけど、楽しみというのがあまり感じられないんです。愛楽園の友達と会うと、よく「あのころは楽しかったなあ」なんて昔話をしますね。

南静園では、老人クラブが早くから地元と交流してきたと、新城園長からうかがいました。

毎年、歌と踊りの交流会をやっています。「らい予防法」が廃止(1996年)されたときからですね。ここの老人クラブ「福寿会」が、平良市の老人クラブの連合会に入ったんです。それまでも、連合会に入れてくれと掛け合ってたんですが、「らい予防法」があるうちはなかなか入れてもらえなかった。個人には偏見や差別はなくても、やはり団体同士となると、法律があるうちは難しい面があったのでしょう。でも予防法が廃止されるなり「どうぞお入りください」となった。初めての交流会のときは、外からの参加希望者が多すぎて、時間が足りなくなってしまったそうですよ。いまでも13県の療養所の内で、老人クラブが外の人たちと交流してるのはここくらいのものじゃないですか。

前はゲートボールも盛んでした。宮古島のゲートボールは南静園が発祥だという話もあるんですよ。いまも毎月のように外の人たちが園にきてやってますが、入園者はみんな高齢になってしまって、たまに2、3人参加するくらいですね。

やはり、せめてもう少し早く予防法が廃止されていれば、ぜんぜん違う状況になってたんじゃないかと思います。高齢化して体が思うように動けなくなってから「退園していいですよ」と言われてもね。仕事ができるわけでもないから。

歳をとるとハンセン病の後遺障がいもますます辛くなってくるんでしょうね。

障がいそのものが進むことはないんですが、ケガが怖いんですよ。感覚がないから、ケガをしたことさえ気づかない。いまはいい薬もあって、傷をつくってもそんなに悪くなることはないんですが、とくに足の裏の傷がなかなか治りにくいんです。車椅子で生活していても、生活していると足を使わないわけにはいかない。一度できた傷がなかなか治りにくいんです。

南静園ではいま、交流館の資料展示が整備され、見学も多いそうですね。

残念ながらいまは自治会が機能してない状況ですから、「人権ネット宮古」(ハンセン病と人権市民ネットワーク宮古)と退所者の団体が中心になって、親身になってやってくれています。すでにプレオープンまでして、グランドオープンが5月の予定ですが、ちょっとそれは無理かなあ(笑)。でもあれだけの資料をよく集めたなと思います。戦時中の空襲で資料がみんな焼けてしまってますから。

南静園では、戦争中は職員がみんな避難してしまって、入園者は島尻の自然壕で生活していたそうです。食べ物もなく、たくさんの方が亡くなっています。終戦したことも知らされなかったそうですよ。

資料館で当時のことを語る入園者の方の証言を読みました。貴重な資料ですね。

以前、愛楽園の自治会といっしょに証言集をつくったときに聞き取りしたものです。そのときにも「人権ネット」の皆さんにはたいへんお世話になりました。

ぼくたちには、やはりハンセン病について正しい知識をもってほしいという思いがあります。正しい知識を得たうえで、この病気のことについて理解してほしい。これはハンセン病のことだけではなく、ほかの病気でも言えることです。子どもたちの「いじめ」の問題なんかも関係することだと思うんです。大人の偏見差別の影響を子どもたちが受けてしまう。自分たちと違う人だというふうに見るのではなく、それぞれの考え方をよく知って認めていけば、差別なんて起こらないんじゃないか。そう思いますよ。

取材・編集:太田香保 / 撮影:川本聖哉

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