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イベントレポート/THINK NOW ハンセン病 キャンペーン 2017 INDIA

ハンセン病問題に関するシンポジウム
(人権フォーラム2017 in 兵庫)

2月4日(土)、神戸文化ホール・中ホールで「ハンセン病問題に関するシンポジウム(人権フォーラム2017 in 兵庫)」が開催されました。

日時
2017年2月4日(土) 13:00〜
場所
神戸文化ホール・中ホール

「ハンセン病に関するシンポジウム」は、ハンセン病回復者に対する偏見・差別の解消、ハンセン病に関する正しい知識の普及・啓発を目的として2005年からおこなわれているもので通算16回目、兵庫県では今回が初の開催。武庫川女子大学附属高等学校・放送部の司会により、シンポジウムは親和中学校・親和女子高等学校のコーラス部による合唱からスタートしました。

主催者挨拶

登壇者
厚生労働省 健康局長 福島靖正氏
法務副大臣 盛山正仁氏
兵庫県副知事 金澤和夫氏
全国人権擁護委員連合会副会長 進藤斗志代氏

主催者挨拶では、塩崎恭久厚生労働大臣の代理として登壇した福島靖正厚生労働省・健康局長が「昨年6月16日の『らい予防法による被害者の名誉回復及び追悼の日』式典において献花をいたしましたが、その際あらためて、これまでのハンセン病問題を反省し、二度と繰り返してはならないこの歴史を後世に確実に伝えていくこと、そして過去の歴史や回復者の状況などに対する理解を深めていくことが重要である、との決意をあらたにしました」など、塩崎恭久厚生労働大臣のメッセージを紹介。

塩崎恭久厚生労働大臣のメッセージを伝える福島靖正厚生労働省・健康局長

続いて登壇した法務副大臣・盛山正仁氏も「法務省ではハンセン病患者・回復者の方々に対する偏見や差別の解消を人権啓発活動の強調事項のひとつに掲げ、さまざまな啓発活動を実施しています。本日のシンポジウムではハンセン病に対する正しい知識や理解を深め、回復者の方々が歩んでこられた歴史、人権の尊さについて、ぜひ知っていただきたいと思います」と挨拶しました。

パネルディスカッション

コーディネーター
黒尾和久(国立ハンセン病資料館 学芸部長)
パネリスト
屋猛司(邑久光明園入所者自治会 会長)
宮吉正吉(ハンセン病関西退所者原告団いちょうの会 会長)
加藤めぐみ(社会福祉法人恩賜財団大阪府済生会 ハンセン病回復支援センターコーディネーター)
大槻倫子(弁護士)
長谷川亜衣加・三河みずき(大手前大学 総合文化学部2年)

来賓者紹介、メッセージ紹介に続いておこなわれたパネルディスカッションでは、屋猛司(おく・たけし)邑久光明園入所者自治会 会長、宮吉正吉(みやら・せいきち)ハンセン病関西退所者原告団いちょうの会 会長、加藤めぐみさん(社会福祉法人恩賜財団大阪府済生会 ハンセン病回復支援センターコーディネーター)、大槻倫子さん(弁護士)、長谷川亜衣加さん・三河みずきさん(大手前大学 総合文化学部2年)の6名が登壇。それぞれの立場からハンセン病回復者に対する偏見・差別をなくしていくためにはどのようなことが必要か、という議題について話し合いました。

屋猛司さんは邑久光明園の前身であり、大阪市・神崎川河口付近の海抜ゼロメートル地帯(現大阪市西淀川区中島2丁目付近)につくられた外島保養院のなりたち、1934年の室戸台風によって壊滅的被害を受け、入所者173人を含む196人が犠牲となったこと、1938年に岡山県長島に邑久光明園として復興された歴史などについて紹介。

合わせて1970年代初頭から取り組んできた邑久長島大橋架橋運動と1988年に念願の橋が開通したときの様子、2009年に施行された「ハンセン病問題の解決の促進に関する法律」など、邑久光明園自治会として取り組んできた名誉回復、および将来構想の実績についても語りました。

邑久光明園入所者自治会長の屋猛司さん

「光明園の入所者数は現在113名、平均年齢は86歳。個人での社会復帰は年々難しくなっているため、光明園全体で社会復帰・社会交流をしようと考え、将来構想を進めてきました。昨年は光明園内に特別養護老人ホーム『せとの夢』と歴史資料の展示などをおこなう社会交流会館ができ、今年度からは3年計画で総合診療棟の新築整備も進めていく予定になっています」

そう語った屋さんは昭和49年の5月に自身が光明園へやってきたときの様子、園の職員から変名を使うかとたずねられたが「何も悪いことはしていないのだから」と、変名の使用を拒否したこと、宗教に関してもいままでどおり無宗教で通してきたことなど、自身のライフストーリーについても語りました。

コーディネーターの黒尾和久さんからは「邑久光明園に残された10本ほどの16㎜フィルムをお預かりして調べたところ、そのなかに室戸台風直後の外島保養院の様子が約10分間にわたって収めたフィルムがあることがわかりました」と、あらたな歴史資料発見の報告がされる一幕も。

コーディネーターを務めた黒尾和久さん

続いて宮良正吉さんもみずからの生い立ちと経験について、当事者の立場から発言しました。1945年沖縄県石垣市生まれの宮良さんは小学校4年生のとき、身体検査でハンセン病であることがわかり、1956年4月に沖縄愛楽園に入所。正門横の検査室にあったホルマリン漬けの胎児の標本を見て、とても病院とは思えずびっくりしたと証言。「少年舎に入るとき、園名を付けようと言われたが断りました。自分が自分でなくなる気がしたからです」と、当時を振り返りました。

「その後プロミン治療で治癒し、同じ少年舎からも社会復帰者が相次ぎましたが、ある先輩がハンセン病の元患者であることを理由に高校受験で不合格になるということがありました。この人は文武両道のたいへん優れた方でしたが、手に少しだけ後遺症があった。そこで私は希望をもとめて1961年4月、長島愛生園内にある岡山県立邑久高等学校新良田教室へ進学しました」

ハンセン病関西退所者原告団いちょうの会 会長の宮良正吉さん

宮良さんは新良田教室入学時に「患者輸送」と書かれた郵便列車に乗せられ、トイレに行くたびに消毒されたこと、入学してからも教員室に生徒が入ることは許されなかったことなど、当時の差別的待遇についても紹介。1965年、卒業と同時に知人の紹介で印刷会社に就職、社会復帰を果たしたものの、病歴を隠しつづけることはとてもつらいことだったと語りました。

「2001年5月、らい予防法違憲国賠訴訟での勝利が、私をハンセン病回復者という過去にふたたび向き合わせてくれました」そう語る宮良さんは現在、教育、医療、宗教関係施設で語り部として活動中。教育、医療、宗教関係施設などを中心に、年50〜80回おこなっている人権啓発活動についても紹介しました。

続いて弁護士の大槻倫子さん、ハンセン病回復者支援センター・コーディネーターの加藤めぐみさんが、回復者を支援してきた立場から発表をおこないました。大槻さんは「らい予防法違憲国賠訴訟が熊本地裁でおこされた1998年に司法修習生として初めてハンセン病療養所を訪れ、翌1999年から弁護士一年生として原告弁護団に参加してきました」と語り、日本におけるハンセン病隔離政策のあらましと、その政策に一般市民がどのように関わってきたのかについて説明。戦後も続いた強制収容と、その運動が官民行政・一般市民が一体となって進められていた事実などを語りました。

違憲国賠訴訟に弁護士一年生から関わってきたと語る大槻さん

加藤めぐみさんは2001年6月におこなわれた国賠訴訟勝訴記念シンポジウムで初めてハンセン病回復者の方と出会い、その方の語る「ハンセン病問題を風化させてはならない」ということばに強い感銘を受けたとコメント。大阪府に永年保存されている行政資料などを交えつつ、ハンセン病療養所に暮らす人たちが受けてきた偏見・差別の事例について説明しました。

ハンセン病問題の歴史から学ぶことが大切と語る加藤さん

また1966年から1974年まで兵庫県で展開されていた「不幸なこどもの生まれない運動」についても紹介。「このような施策の背景には障がい=不幸、あるいはあってはならない存在、とする障がい者観があります。障がい者施設の建設反対運動が全国的に起こっている現状、出生前診断で障がいや病気がわかると人工中絶されている実態も多く、ハンセン病問題の歴史から学び、二度と同じ過ちをおかさないために考えていくことが大切だと思います」と語りました。

大手前大学 総合文化学部2年の長谷川亜衣加さん、三河みずきさんは、2015年度から長島愛生園でおこなっているボランティア活動について紹介。愛生園のパンフレット、園内音声ガイドの英語翻訳、入所者証言ビデオの英語字幕作成、公式ホームページの英訳などを手がけたことなどについて語る一方で「ハンセン病のことはまったく知らずにボランティアに参加しましたが、事前学習で断種がおこなわれていたことを知り、強いショックを受けました。本当にこんなことをしていいのか、と感じた」「証言ビデオの英語字幕をつくっていくなかで、当事者の方々の『生きる力』を強く感じました」と、ボランティア活動を通じて感じたことについてもコメント。

ボランティア活動で感じたことを若い世代の視点から語った長谷川さん、三河さん

コーディネーターを務める黒尾和久さんから「ハンセン病のことを知って、変わったことは何ですか」と訊かれた長谷川さん、三河さんは「意識の持ち方が変わりました。自分に関係ない知識は必要ないと思いがちですが、知らないことで差別や偏見を助長してしまうこともある。そうならないためにも正しい知識をもつことが大事だと思う」「兵庫県にはハンセン病療養所などの施設もなく、自分たちの親世代でもハンセン病について知らない人が多い。だからこそ正しい知識を知って上の世代に伝えていかなければいけないと思います。会場にいる若い世代の人たちも、今日ここで知ったことを誰かと共有してほしい」と、同世代の人たちに向けても語りかけました。

パネルディスカッションの最後にメッセージを、とうながされた屋猛司さん、宮吉正吉さんは全国の療養所で進みつつある高齢化問題について触れ、「障がい者・難病患者にとってやさしい日本の国であってほしい。また全国にある療養所の永久保存についても、将来構想と合わせ、取り組んでいかなければならないと思っています。後世への教訓、負の歴史遺産として残していくことが重要」「病気を理由とした差別、人の人生を隔離するというあやまちを二度とくり返してはならない。そのためには医療の基本原則と医療体制の充実、国および地方公共団体の責務をあきらかにした医療基本法の制定、正しい医学知識、啓発活動、人権教育などが必要」など、具体的な歩みに向けた意見を語りました。

演劇「光の扉を開けて」

登壇
NPO法人HIV人権ネットワーク沖縄
広島学院中学・高校演劇部

劇中ではハンセン病患者が受けた偏見・差別なども回想シーンとして再現される

小休止のあとはNPO法人HIV人権ネットワーク沖縄(以下、人権ネットワーク沖縄)による演劇「光の扉を開けて」が上演されました。「光の扉を開けて」は実話をもとに制作されたもので、初演は2004年。HIV(エイズウイルス)感染を知らされた女子高校生がハンセン病回復者である「八重子おばぁ」との出会いによって勇気と希望をつかむというストーリーで、演じるのは高校生を中心とした沖縄のこどもたち。今回の上演では広島学院中学・高校の演劇部13名も初めて共演しました。

劇のフィナーレではオリジナルの劇中歌「We Are Just One」が歌われた

上演に先立って挨拶に立った平良仁雄(たいら・じんゆう)さんは「私は9歳のときにハンセン病と診断され、沖縄愛楽園に強制収容されました。1999年に退所しましたが、みずからがハンセン病であることはずっと黙って生きてきた。私が人権ネットワーク沖縄というグループと出会ったのは2008年のことですが、そのとき感じたのは彼らの温かい心です。その経験を経て、気がつけば、私は愛楽園の第一回ボランティアガイドに参加していました。それまでの自分には、考えられなかったことです」と、みずからの半生と人権啓発活動に取り組むようになったきっかけについて語り、「この舞台のテーマは、ひとりの人間が変われば周囲も変わるということ。ぜひ表面だけを見るのではなく、子供たちの心のなかにある温かさを感じてほしい。そしてともに光の扉を開いて新しい世界に入ろうではありませんか」と観客に呼びかけました。

フィナーレ

シンポジウムの最後には、パネルディスカッションの登壇者、演劇「光の扉を開けて」出演者のほか、兵庫県マスコット「はばタン」、邑久光明園イメージキャラクター「こみょたん」、人権イメージキャラクター「人KENまもる君・人KENあゆみちゃん」もステージに登場。

挨拶する藤崎陸安 全国ハンセン病療養所入所者協議会・事務局長

挨拶に立った藤崎陸安(ふじさき・みちやす)全国ハンセン病療養所入所者協議会・事務局長は「偏見・差別の解消は難しいが、その歩みは遅くとも一歩一歩前へ進んでいると実感しています。まだまだ時間はかかりますが、若い人たちが積極的に関わり、正しい知識を得ていくことが、第一歩になるのではないかと思います」とコメント。続いておこなわれた「世界に一つだけの花」の合唱では、観客もステージに上がり、人権ネットワーク沖縄のメンバーや観客が沖縄の踊り「カチャーシー」を踊る一幕も。こうしてシンポジウムは、にぎやかにフィナーレを迎えました。

シンポジウムは歌と踊りで賑やかにフィナーレを迎えた。中央は舞台でカチャーシーを踊る金城幸子さん