Si’an/China
泗安療養所
中華人民共和国
Leprosy Sanatoriums in the World / 世界のハンセン病療養所
Si’an/China
中華人民共和国
人口14億の中国で2016年の一年間にハンセン病と診断された患者の総数は672。この数は、全国の保健対策の上では極めて小さな問題と見られがちだが、診断の遅れを示唆する重症者の割合が高いということが依然として中国のハンセン病の問題を象徴している。
2016年9月、中国政府衛生部(保健省)は、第19回国際ハンセン病学会を北京で開催した。開会式は中国共産党中央委員・国家副主席が出席して習近平国家主席の祝辞を披露するという国内外の注目を集めるものとなった。中央政府の衛生計画疾病対策局長は、新中国の建国間もない1950年から66年間にわたる中国のハンセン病対策の総括を報告。会議には世界100の国・地域から1300名(国外500名、国内800名)が参加し、会場を埋めた。晴れやかな開会式の会場には、南の広東省泗安医院から3名の高齢の回復者たちがボランティアの青年たちに支えられて参加していた。全体会議では、回復者支援NGOが社会との融合(インクルージョン)について基調報告をするなど、「未完の課題・Unfinished Agenda」というこの会議のテーマの一端を示唆するものであった。
以下、広東省の省立ハンセン病専門医療機関である泗安医院に焦点を当て、そのなりたちや変遷をたどるとともに、中国におけるハンセン病対策の歴史を概括しておく。
泗安療養所(泗安医院・泗安村、泗安麻風博物館)
http://leprosyhistory.org/geographical_region/country/china
2016年9月北京。第19回国際ハンセン病学会。自作の絵画を披露する泗安村の彭海提氏(中央)。左は張国成 大会運営委員長、右は陳志強 漢達康復協会事務局長(写真提供 泗安麻風博物館)
孔子(前552‐前479)の言行を記録した「論語」から。
病気で臥せっていた高弟の一人伯牛を孔子が見舞った。病気は「悪疾であった、と後世の註解者は述べている。『悪疾』とは当時、ハンセン病のことを称していた。」「伯牛はハンセン病を病み、人目を避け、寝室に引き籠っていたのであろう。孔子は伯牛を不憫に思い、或る日、伯牛を見舞ったが、伯牛の心情を気遣って、孔子は寝室には入らず、客室の小窓から手を差し伸べ、伯牛の手を握って慰めたのである。」 (犀川一夫)
中国最古の医学書「黄帝内経」
「寒冷、熱さ、疼痛、痒みが解らない」病とあり、「西暦前すでにハンセン病に感覚麻痺が存在していることを記述していることは実に驚くべきこと」であり「今日でもハンセン病診断の決め手になる臨床症状は知覚麻痺の存在であるが、そのことを紀元前に見逃さずに記述している中国人の観察の鋭さには、驚く外はない」(犀川一夫)
東晋時代(316‐420)医書に「癩」の文字が初めて使われた。
古来、中国の歴史書、医学書、故事、伝説のなかでハンセン病は表され、癘、毒癘、癘瘋、癘疾、風疾、大風、悪風、悪疾、癩、癩疾、癩風、白癩、黒癩などの文字が用いられてきた。(Leung 犀川)
医学書と道教の文献で癘/癩の伝染に言及。性行為との関連。
薬物学の書「本草綱目」に大風子油が効果的という記載がみられる。
癘/癩は伝染性で、不治の病、社会の脅威として患者は追放された。広東省では女性患者は、性交により男性に病気を移して自らは治るという(過癩、賣痲風、放痲風)迷信と風習のため、危険な存在と怖れられた。
1518年福建省に開設された施設を皮切りに、広東、福建、江西、浙江など各地に「養濟院」「癩子營」「瘋子院」「癩民所」「麻風院」「麻風寮」「存恤院」などとよばれた施設が、市城壁の外側、山間僻地、島などに造られた。救護施設は不治の伝染病である痲風の患者を隔離して社会を守ると同時に、病者たちを殺傷や焼き討ちなど残忍な手段で排斥する社会(時には家族)から保護するためでもあった。この時代痲風は伝染病とされながら遺伝性も信じられていた。救護施設はある種の閉ざされた社会であり、中では男女の結婚が認められていて、子どもの養育が可能であった。そこでは痲風の遺伝は、初代の患者夫婦から数えて3世代目で抜けると信じられていた。(Leung)
阿片戦争による清朝の弱体化、英国による植民地化。
ハワイへの労働移民始まる。
中国からの移民労働者の急増が、ハワイ及び太平洋諸島や、オーストラリアでのハンセン病患者の増加の原因だとされた。ハワイ王朝は1866年モロカイ島に隔離施設を造った。ハワイではハンセン病は中国病(マ・イ・パケ)とよばれた。
天津教案、義和団の乱(1899-1901年)反キリスト教事件が起きた。
米国議会 中国人移民禁止令。
オーストラリアで中国人移民禁止令。
辛亥革命 清朝の滅亡と中華民国の成立。
中国麻瘋救済会(キリスト教救らいミッションCMTL)設立。英・米のキリスト教ミッションと連携。中国各地にハンセン病療養所を運営。
中国麻瘋救済会(CMTL)機関誌「麻瘋季刊 THE LEPER QUARTERY」(中・英)出版。
1932年の麻瘋季刊は、「らい患者船」を報じている。広東、江西省などで病者を船に乗せて河を放浪させることも珍しくなかった。家族は病者を小舟に乗せ、必要な食料や衣料を積んで河や海に送り出す。「らい患者船」は群れをつくって河を漂い、他の船に援助を乞うほか、河に浮かぶ死体から衣服等を奪うなどして放浪の旅を続けた。
満州事変、中国共産党と国民党(蒋介石)との対立。
第一回全国ハンセン病会議(the first National Conference on Leprosy)開催。宣教師や海外専門家が参加。中華民国政府のハンセン病対策の不十分さを指摘。
ハンセン病患者300人余りが、白雲山で広州軍警により殺害された。
日中戦争
中華人民共和国建国。
新政府、保健衛生対策を重視。ハンセン病研究チーム発足。
全国防疫専門家会議。会議に先立ち全国ハンセン病施設、収容人員調査。
DDSの国内大量生産が可能になった。これ以前は、英国ミッション経由で香港から入手し、一部の療養所では使用されていた。
第一回全国麻風防治シンポジウム開催。
『調査・隔離・治療』を根幹とするハンセン病対策を決定。
全国農業改善綱領(案)でハンセン病の「積極防治」を提言。
全国麻風病専門家会議及び第一回麻風病防治工作会議(済南)開催。
ハンセン病制圧中央計画決定。
「麻風村」による患者隔離の全国展開を指示(一部東北省を除く)。
大躍進運動(~1961)「麻風村」への隔離政策は、毛沢東主導の大躍進運動の一部となり全国的に展開され、各省で年間数十か所の「麻風村」が造られた。
「広東省東莞県立泗安医院」開設。
「広東省立泗安医院」開設。
文化大革命 農村合作医療制度。はだしの医者(赤脚医生)の養成。
毛沢東重点スローガン(1965,6,26)「医療サービスの重点を都市から農村へ」
全国に1,199のハンセン病病院と診療所、「麻風村」があった。この大半は「麻風村」であった。
MDT(多剤併用療法)の試験的投与 四川省、雲南省で開始。
第一回中国国際麻風防治会議開催(広東省広州市)。中国麻風学会、中国麻風研究センター、中国麻風財団の設立を発表。保健大臣、馬海徳顧問、WHO事務局長、国際NGO、王震中共中央政治局委員、笹川良一日本財団会長等が出席した。
MDTの全国的投与開始。国際NGOによる中国全土(チベット含む)のハンセン病対策支援が拡大。
第15回国際ハンセン病学会を北京で開催。中国政府はハンセン病制圧の達成を宣言した。(中国の制圧基準は人口10万に患者一人)
日中の若者たちによる、「麻風村」ワークキャンプ運動の始まり。2004年ボランティア団体「家‐JIA」の誕生。http://jiaworkcamp.org/jp/Default.aspx
662か所の「麻風村」の存在が把握された。内3分の1は貧困地帯に。住民の平均年齢65才。64%は障害者。麻風村の平均人口は31人(1人~300人まで)。
保健省「全国麻風病院・麻風村建設計画」を公布。既存の施設の調整と統合を前提として、施設の改築、改善により住民の生活の質的向上を重点事業とすることを決定。
泗安麻瘋博物館の開館
第19回 国際ハンセン病学会が北京で開催された。
学会のテーマは「残された課題」
泗安医院は広東省の省立ハンセン病専門医療機関で、南部珠江デルタ地帯の東莞市にある。広東省は日本の約半分の面積に、人口1億1000万人(2017年)、人口もGDPも中国最大の省である。泗安医院がある東莞市は、かつては貧しい農村地帯であったが、香港・深圳と広州市の中間にあることから、1980年代末の改革開放政策によって急速に工業地帯に変貌した。東莞市は香港・深圳から内陸に拡がる広大な珠江デルタ地帯にあり、泗安医院は珠江から網の目のように広がる川の中の、泗安島とよばれた島にある。
設立は1958年で、当初は東莞県のハンセン病患者隔離村に付随した診療所であった。1963年、中央政府によるハンセン病対策の強化の一環として、広東省内に第三の省立病院を建てることになり、中央政府のハンセン病専門家であった馬海徳博士が広東省を訪れた際、東莞県内の二つの村の接点にあり、「往来がフェリーに限られ、隔離に適当であるところから、この地を推奨した」と泗安医院の記録は伝えている。1964年、広東省人民委員会の決定を経て1400エーカー(170万坪)の広大な土地を確保、高圧ライン、護岸堤防、講堂、病棟、スタッフ住居、医療機器を備え、240人の職員と800床の病院が完成した。1965年9月1日に開所し、市や県の幹部職員や労働者患者の受け入れを開始し、同年11月22日「広東省泗安医院」と命名された。
泗安医院建設直前の1956年11月から12月にかけて中国におけるハンセン病の状況を視察した長島愛生園の塩沼英之助医師は、当時の広東省の状況を次のように述べている。
「広東省は其の人口3,604万。衛生庁は大体省内の患者を多く見積もっても5万を出ないとみているが、これは人口千人に対し1.4の割合に当たる。この比率は現在の沖縄の癩浸潤の比率に類似していて、なかなか濃厚な数字である。」「現在省内の癩院は12か所、癩村コロニーは5か所ある。」「これらの施設に収容された患者総計は3,890名(男子2,899名。女子991名)で男子3に対し女子は1の割合である。」「衛生庁は本年44個の癩村コロニーを作ったが、1957年までに、なおこのコロニー及び防治所を増設し、これが完成したら、全部の結節癘は癩村コロニーに収容したいと述べた。」「次に解放後からこれまでに癩院又は癩村を軽快退所したものは298名」
(中共に癩をたずねて)(7)
泗安島周辺の珠江デルタ(写真提供 泗安麻風博物館)
泗安医院の旧外来の建物(写真提供 泗安麻風博物館)
泗安医院の旧病棟(写真提供 泗安麻風博物館)
1949年10月に発足した中華人民共和国は、保健衛生対策を社会主義国家建設の重要な柱と位置づけた。ハンセン病は、性病、住血吸虫症とならんで、農民の健康に深刻な影響を与える感染症として早期から取り組みが始まった。新中国建国以前、海外ミッション等により運営されていた療養所は、南部の広東省、福建省を中心に全国で50か所あまりであったが、建国後まもなく、ほぼ全ての施設が政府管理に移行した。
「ハンセン病は、大衆運動をとおしてのみ適切にコントロールすることができる。」(江澄)
「ハンセン病は、南部に限らず全国的に農村部に蔓延しているとして、おそらく中国の歴史上初めて主要な伝染病として公式に中央政府の標的となった。」(Leung)
1951年4月には第一回全国防疫専門家会議が開催され、この会議に向けて全国の施設、収容人員等の調査が行われた。1953年には第一回全国麻風防治会議が開催され、1957年には、全国麻風防治専門家会議(第一回全国麻風防治工作会議 済南)が開催されて具体的計画策定した。同年、共産党中央委員会が「全国農業開発綱領(案)」の中でハンセン病の「積極防治」を提案し、さらに10月には政府保健省が「全国麻風病防治計画」を発表、「調査・隔離・治療」を根幹とする「積極治療と伝染防止」方針が確定した。
新中国の保健政策の柱として進められてきたハンセン病対策は、1958年に毛沢東が主導した「大躍進運動」(1958‐1961)の一環に組み込まれたことで、その様相は大きく変貌を遂げることになった。調査・隔離・治療の推進は、発見された患者を直ちに隔離するための大量の「麻風村」(ハンセン病者隔離村)の建設を促した。中央政府はこれら「麻風村」の建設にさいして、三つの主要条件を設定した。
一つは、「麻風村」は、山や湖など自然条件で患者が健常者のコミュニティーと隔絶される場所を選んでつくること。そのために地元は、仏教や道教の古い寺や祖先を祀る祠、廃屋などを自主的に提供すること。二つ目に、「麻風村」は医療と農業生産が結合した場所であること。三つ目は、「麻風村」は地元の共産党組織の直接の監督下に入ることであった。
この結果、大半の隔離村は山間僻地、島、河の中州などにつくられることになった。基本的な医療は移動診療班または現地の診療所が提供したが、病者たちは自ら農作業をして自給自足の生活をすることが期待されていた。大躍進運動のなかで、「麻風村」に送り込まれた病者たちは、地域の人民公社幹部の指導のもとに農業社を組織し、その下の生産隊をつくり、さらにその下の作業班に所属して、各自農業生産に従事した。(JIA Leung)
1980年末時点の公式の統計では、全国に1,199のハンセン病病院と診療所、及び麻風村があったとされている。
「公式統計は、病院、診療所、麻風村を区別していないが、この大半は麻風村であったことは明らかである。言い換えれば、1950年から1980年の間、中国ハンセン病予防政策は、基本的に安上がりで、隔離重点で、都合よく自給自足で、基本的な医療は移動または通常の診療班が提供する、農村部の麻風村の建設を中心としたといえる。」(Leung)
註:2001年中国医学科学院皮膚病研究所がWHO Bulletinで公表した統計では、1950‐1998年までのハンセン病登録患者総数は474,774人となっている。さらに「麻風村」の大多数は1957年から1960年代半ばまでの間に建てられたとしている。http://www.who.int/bulletin/archives/79(4)306.pdf?ua=1
虎の侵入防止柵があった、山岳地帯の新開田麻風村(広東省)。(写真提供 泗安麻風博物館)
徒歩と馬の背でたどり着く湖南省の脂胭麻風村(上左奥)。(写真提供 泗安麻風博物館)
広東省健娯麻風村(写真提供 泗安麻風博物館)
高齢の揚四妹さんが、最後の一人となって生き続けた、広東省野湖麻風村(写真提供 JIA原田燎太郎氏)
歴史の証人 旧療養所地区の巨大な榕樹(ガジュマル)。右側の建物は旧療養所の売店、図書館、理髪室(写真提供 泗安麻風博物館)
中国南部の広東省は福建省とならんで歴史的にハンセン病の患者が多い地域で、清朝末期の18世紀にはすでに両省それぞれ15か所のハンセン病者の救護施設があったことが知られている。また新中国建国前の1940年には、ミッションの施設を中心に広東省に13か所、福建省に9か所の施設があった。(Leung)
省のレベルのハンセン病医療施設として歩み始めた泗安医院であったが、文化大革命の始まりとともに業務の停滞を余儀なくされた(1966年‐1976年)。その間、省内の他の療養所も同様の混乱の中にあり、泗安医院が珠江デルタの2か所のハンセン病院を吸収合併するという展開となった。
その一つは1970年に吸収合併した東莞稍潭医院であった。1902年ドイツのラインミッションが建設し、最も多い時には300人以上の患者を収容。院内に福音堂があり、多くの患者が収容後にキリスト教に入信していた。1953年に広東省衛生庁に接収され、1970年に泗安医院に合併、1975年に閉鎖された。
1957年に中国のハンセン病視察旅行をした塩沼英之助は、同年12月3日稍潭医院、翌12月4日には石龍新州医院を訪れている。以下はそのうち稍潭医院訪問の記録。
「朝8時40分ホテルを出て、2台の自動車に分乗し、衛生庁の人々5人と共に稍潭の癩院に向かう。増城県新塘に到着したのが午前10時。この地は珠江に臨んだ処で、広州市からここまで48㌔。自動車を乗りすてて、今度は国営東莞糖廠の旗を掲げたモーターボートに乗り移る。」「珠江のいくつかの支流を舟は横道に入り、東莞県中堂区にくる。それから一同は浅瀬のため舟から下りて、稍潭まで歩く。」「医師7名。中級医士7名。看護婦25名。他に事務職員57名。収容患者は238名(男子213名。女子25名)。」「治療薬としてはここでもDDS、サルフェトロン、チビオン、大風子油である。中国の薬剤は複方麻風丸と名づけ、30幾種類かの薬が使用されている。」「男女間に問題はないかとたずねたが、無いとの答えであった。やはり療養所内では結婚は禁止されていて、従って夫婦病棟と名のつくものはない。患者の作業としては豚の腸詰を作っていた。娯楽としてはバスケットボール。麻雀。但し麻雀といってもお金はかけない。」
もうひとつの東莞市石龍新州病院は、1907年にフランスのコンラジー神父(ハワイのカラウパパでダミエン神父とともに働いた)が、広東省で患者の多さ、その生活の悲惨さに心を痛め、病者たちの安住の地として珠江デルタのこの島(石龍島)を購入して開設した。1921年には600人以上、1922年には960人の患者を収容していたが、日中戦争下の1938年、東莞が陥落したため病院は維持不可能となり、患者たちは散り散りになっていた。1953年、石龍新州医院として広東省人民政府衛生庁の管轄となり、1975年に泗安医院に統合されたのち病院は解散閉鎖された。
(广东省泗安医院院志)
塩沼英之助は、12月4日に訪問した石龍新州医院についても記録を残している。大規模施設での病者たちの日々、施設運営にかかわる様子が描かれている。
「珠江を再びさかのぼった舟は、石龍の新州医院の所在する島に到着する。上陸した州には、木陰に大きな船体が組み立てられていて、本職の船大工はすべて患者であった。」「患者の療舎地帯を通り抜けると、この洲から陸にむかって長い木橋がかかっている。これは患者が架けたものだという。」「現在では患者1,229名。内、男子782名、女子247名を有する中国一の収容数を有する療養所である。但し開院以来収容した患者数は4500名といわれている。」「院内の建物の数は37棟で、内28棟は病棟である。全体としてはこれを四つの区域にわかち、一つの病者地区にはいずれも問診部と薬局、注射室、外科室がある。而して男子の住む地帯と女子の住む地帯とは何れも各々離して建ててある。又院内の結婚も昔から禁ぜられている。現在夫婦の発病者が一組おるが、それもはなればなれの生活をしているとは可愛想なことで、この点日本の夫婦患者は幸せであると感じた。」
「院内には患者自治会の組織もある。院の事務を司る患者は42名。医療補助患者は55名。毎月、院の重要な事項を議するのには医務委員会というのがあって、これに参加するのは院当局から4名の院長、医務課の副主任、庶務課、会計課、人事課の各課長、患者側からは自治会総代、副総代3名がこれに参加する。患者の主なる作業としては、大規模な煉瓦工場を持っていて、月産110万枚をやくという。これは外部に売却して大いなる収益をあげている。その他造船、旧館の修理等の仕事。」
「野菜を作り、果樹園を経営し、或いは家鴨を飼い、養豚、養魚をやる場所はこの島にはなく、間近の小島にあるために、此処に行くには患者は渡し船を利用する。」療養所からの帰途、石龍の街を歩いた際、「或る茶店の傍らの樹木に一つの標札が掲げられていて、それには『風疾の人は茶碗をもっていらっしゃい。』という意味のことが毛筆で書いてあった。」「風疾とは麻風患者のことである。」
(中共に癩を訪ねて)(7)(8)
文化大革命の終了後から1980年代をとおして、泗安医院は省立の医療機関として整備も進み、発展を続けた。海外華僑や近隣諸国からの訪問も増えた。1978年には外国人用のゲストハウスを建設し、海外の専門家や研究者を受け入れた。また外国人患者用の病室や幹部用の病室を増築し、インドネシア、フィリピン、シンガポール、華僑の患者なども受け入れた。某国の共産党首脳が罹患して、秘密裡に入院治療をしたというケースもあった。
1990年代以降、病院の組織改革や経済の発展、都市化の影響もあり、泗安医院は広州と東莞の市街地に皮膚科の外来クリニックを開設。東莞市内のクリニックは評判が高く患者が増えたので、3,000平米の臨床皮膚科クリニックを新たに建設した。
巨大な檳榔樹の根がおおう、旧療養所の映写室(写真提供 泗安麻風博物館)
旧療養所の泗安村住民委員会事務所(写真提供 泗安麻風博物館)
旧療養所のあひる飼育員用宿舎(写真提供 泗安麻風博物館)
千人食堂。高い天井と大きな空間は大勢の人々が群がり食事をとった日々を想像させる。中には舞台もあり催しものにも使われた。(写真提供 泗安麻風博物館)
中国のハンセン病をめぐる状況に大きな変化が訪れた。社会から排除されて忘れ去られていた山奥の「麻風村」に、突如外の世界の若者たちが訪れてきたのだ。見えない壁に大きな穴が開き、若いエネルギーが流れ込んだ。2001年に日本の若者たちが始めたワークキャンプ運動は、数年のうちに中国の大学生を巻き込んで2004年「JIA・家」というNPOになり、驚くほどのスピードで麻風村と外の世界をつないでしまったのだ。 http://leprosy.jp/people/harada/ http://leprosy.jp/people/komaki_harada/ http://jiaworkcamp.org/jp/
中国政府もこの状況を見過ごさなかった。外科医として、また中国のハンセン病対策の事実上の責任者として1980年代から深くかかわって来た張国成(後述)にとっても、辺鄙な山奥の麻風村で、孤独のうちに年老いていく人々の最晩年は気がかりであったに違いない。
2010年、中央政府は省政府の協力を得て全国の麻風村の状況の改善に乗り出した。財政豊かな広東省の場合、3,974万元(現6.8億円)の予算で重点病院を整備し、整備の遅れている14県の病院や麻風村の統廃合をはかるというもので、泗安医院は8重点医院の一つとして、近隣の県や市(韶関市、江門市)などの調査と統廃合にあたった。
統廃合の中でも印象深いのは、南シナ海の大衾島(大襟島)に残された人々の泗安移住であった。大衾島は広東省の南、マカオの西、南シナ海に浮かぶ面積9平方キロの島。米国バプテスト教会と華僑の人々により島の北部を購入して1924年に開設された(1919年開設 Leung)。在米華僑たちの募金はその後も続き、1929年には病棟(12病室と治療室)と患者礼拝堂、職員礼拝堂、職員宿舎2棟などからなる総面積2,950平米の療養所が完成した。 http://leprosy.jp/world/island/island16/
島には牧師夫妻(夫人は看護師)の他、医療3名、事務3名の職員が常駐。1929年から患者収容をはじめ、ピーク時(時期不明)には600名の病者が生活した。島には病者たちの労働で維持した80エーカー(約10万坪)の水田があった。1937年日中戦争勃発後、牧師夫人の急逝もあり、牧師は帰米。212人の病者が残された。戦争中の困窮の中で210人が餓死や病死で命を失い、1945年時点で残ったのは2人であった。
1946年から3年間、新たに米国人牧師夫妻が着任して教会の支援で27人の患者を収容したが、新中国建国の1949年には中国人医師に委託し、1951年広東省衛生庁に移管された。広東省衛生庁は6つの病棟を増築、水道、電気設備の改修、埠頭整備と船の配備など改善に努めた。1951年から1985年までに収容・治療した患者は1015人であった。
2011年1月9日の早朝、大衾島最後の住民44人が、泗安医院から来た看護師やボランティアたちに支えられながら足場のわるい埠頭の坂道を下り、我先にと迎えの小舟に乗り込んだ。最後の住民が島を離れたのは午前10時35分であった。小舟から沖合で待つ大型の船に乗り換えて90分で本土に到着。さらに3時間のバスの旅で、終の棲家となる泗安医院に着いた。大多数の住民が待ち望んでいた移転であった。今回移住した44人の平均年齢は75才、その内の30人は義足を装着していた。移住から4年以内に12人が他界した。http://www.smhf.or.jp/e/ambassador/077_04.html
「2011年1月9日の朝、大衾島の港で44人の回復者たちと迎えの小舟を待った。舟が近づくと手足の不自由な老人たちは、我さきにと争うように、石ころ交じりの埠頭の坂を駆け下りた。みんな、此処から離れたいのだ。」(101時刻)
註:広東省のハンセン病(2002年時点)
①1950年~2002年 発見症例総数 95,000人。
②「麻風村」総数73。その内の68村に3,468人が居住。
③ 平均年齢:65才。障害者:77%。義足651人。失明97人。
④ 68村の内、水道なし23村。電気無し20村。車では行けない村28村。内4村は島。
⑤ 地方政府からの少額の生活保障がある。
(楊理合報告 JIA原田燎太郎氏経由)
ワークキャンプの若者たちは、単なる慰問者ではなく生活をともにして家族となる。(写真提供 泗安麻風博物館)
大衾島(大襟島)療養所。沖合26キロの孤島の療養所。1924年キリスト教ミッションにより開設された。(写真提供 泗安麻風博物館)
大衾島療養所の病棟の内廊下(写真提供 泗安麻風博物館)
2011年1月9日 44人が大衾島から撤収した。(写真提供 泗安麻風博物館)
張国成 Zhang Guocheng(1952- )中国麻風防治協会会長 形成外科専門医
新中国のハンセン病対策を主導した馬海徳保健省顧問(故人)は、世界と共に働ける若手のハンセン病専門医の育成に意欲的で、張国成は選ばれた若手の一人であった。専門は形成外科。若さと熱意で言葉の壁を乗り越え、中国を訪れる人々の信頼を得た。中国医学科学院ハンセン病研究センターを率いて、政府のハンセン病対策の事実上のリーダーとなり、40年以上にわたる経歴は国内、国外ともに多彩である。その間専門チームを率いて全国500か所の「麻風村」を訪ね、35,800件に上る手術を行ったという。2014年政府のポストを退いた後も、中国麻風防治協会の会長として、中国のハンセン病関連事業の顔であり牽引車であり続ける。その最後の仕事は、隔離政策の負の遺産である僻地の「麻風村」で、厳しい生活に耐えて生きる高齢の療養員(回復者)たちの人生の最終章をどう支えるかということで、この国のハンセン病政策の一翼を担ってきた張国成として目を背けることはできない。
2017年夏、張国成は若者のボランティアの団体「家 JIA」(http://jiaworkcamp.org/jp/)の名誉顧問に就任した。2011年、北京で開かれた日本財団グローバルアピールの会場で、JIAを創設した日本の若者原田燎太郎に会った張国成は、療養員たちの心を開放していく若者たちの力に既に注目していた。張国成はまた、ハンセン病関連事業の集大成の一つとしての歴史保存と博物館活動にも注目し、大胆で創造的な展示で一石を投じつつある「泗安麻風博物館」に、中国麻風防治協会として協賛した。病者の苦しみを知る立場と、政府の施策を支える立場には葛藤があるとも思われるが、残された課題をすでに見ている張国成の力は、中国のハンセン病問題の最終章にこそ必要だと思われる。
(写真は、北京の馬海徳邸にて蘇菲夫人と。)
彭海堤 Peng Haiti(1937- )泗安医院の居住区に住む療養員(回復者)。画家、書家、社会活動家
広東省の貧農の生まれ。困窮して妹は売られるような生活だった。10代でハンセン病の症状が出て学校は退学、人民公社の農業隊へ。1970年石龍新州医院(前出)に収容。石炭船の労働で手を痛めた。石龍の閉鎖で1975年から泗安医院(療養所)へ。それから40年余り。その間手の症状が悪化して指を3本失ったが、幼い頃から好きだった書と絵の制作を続けた。近年、道具も手に入るようになり、泗安の景色や日常を描く彼の作品をバザー等で購入してくれる人も現れた。書と絵の売り上げがまとまると、他の療養所で不自由な暮らしを続ける病友たちの暮らしを助けたいと、洗濯機、電動3輪車などを送り続けている。療養所内の自室での自立生活は工夫に満ちている。スクーターでの移動、カメラの操作なども自在にこなし、泗安の歴史を記録して発信する。2016年7月、50年ぶりに兄との再会が実現した。同年9月には、北京で国際ハンセン病学会に参加した(前出写真)。生まれて初めての北京では、天安門上で建国宣言をする毛沢東と同じポーズで写真を撮り、義足をものともせず階段を上り、万里の長城に立った。自らと病友たちの人生を取り戻すために意欲的に生きている。
(工夫して写真撮影もこなす。)
黄焱紅 Huang Yanhong(1951- )写真家、作家、編集者、泗安麻風博物館ボランティア館長
その名前が語るとおり、黄焱紅の情熱なくして泗安麻風博物館は生まれなかったといっても過言ではない。
北京出身で101中学の卒業生。北京の101中学といえば中国共産党が創設した名門中の名門校。多感な10代を文化大革命の渦中で過ごした黄青年は、革命の後半は北京から遠く離れた四川省奥地の少数民族地域で過ごしている。2014年8月、62才の黄焱紅は、香港で出版されている旅行画報誌の記者を定年退職したボランティアとして泗安療養所に現れた。人生のどこかでハンセン病と出会ってしまった彼は、黄焱紅にしかできない創造的な手法で、泗安麻風博物館をつくり上げてしまった。その手法は、徹底してハンセン病を生きた人々に自分自身を重ね、人々の日常であった「物」をとおしてその生きざまを蘇らせるものであった。泗安に関わって3年、すでに100か所以上の「麻風村」を訪ねて、使われなくなった文字通り「ガラクタ」の品々を集めてくる。自家用の車で、あるいは片道10キロの山道を徒歩で、両肩に「ガラクタ」を担いで。壊れたランプ、使われなくなった秤の数々、木の根っこで作った椅子、手製の松葉杖や義肢。黄焱紅の手にかかると忘れられた「物たち」が、肩寄せ合って生き抜いて来た人々の姿を生き生きと蘇らせ、世界に類を見ない「物」が語る麻風博物館が出現していった。
ここまで来るには、彼の仕事に強く心を寄せた各地の療養員(回復者)たち、彼の仕事の意義を理解して配慮を与えた泗安医院当局と中央の張国成(前出)の理解があったことは言うまでもない。黄焱紅には、現在の仮展示の博物館を、檳榔樹の巨木に囲まれた旧泗安医院の跡地に移して「歴史空間」を復元したいという夢がある。果たしてその日は訪れるのだろうか。
(写真は、泗安麻風博物館にて。村から回収した理髪用の椅子について語る。)
2010年以降、ハンセン病回復者村の整理統合が具体化しはじめた。財政的に余裕のある省や重点病院に付随する施設、あるいは一般社会の関心が集まる施設などには、郊外の瀟洒な住宅団地に見まがうような住居が出現していった。
2014年1月,泗安島を含む珠江地帯を本土とつなぐ道路と橋が開通し、泗安医院は半世紀にわたる渡船時代と決別した。ハンセン病の重点病院に選ばれ、回復者の居住棟を含め環境は一新された。並行して進められた統廃合は、前述の大衾島麻風医院の集団移転とは別に、居住者が極めて少数となった「麻風村」の統合を視野に当事者たちとの話し合いが慎重に進められている。
「麻風村」の生活は基本的に自給自足。地方政府の給付金もあるが生活は自立が原則で、畑を耕し、鶏を飼い、薪を集めて煮炊きをする。高齢化が進む村の人々には生活の不自由と医療への不安は大きい。現在までに泗安療養所への移住が実現したのは三つの「一人村」からの三人だという。
2017年現在、泗安療養所の居住区に住むのは70人。ボランティアの訪問、他の「麻風村」との交流、「生まれて初めて」の近代都市広州へのバス旅行など、穏やかで少し華やかな日々が続いている。
黄焱紅(前出)が生み出した「泗安麻風博物館」は、一見ガラクタ展示の感があるが、立ち止まって説明を聞き、解説を読むと、ガラクタの語る物語の奥深さに足がすくむ。
泗安麻風博物館は、新築された泗安医院の2階に「仮展示」という形で開館し、将来のかたちは模索中であるが、広大な敷地に放置されて朽ち果てつつある「旧泗安医院」の建物を生かして、ハンセン病の歴史空間を再現しようという動きもある。煉瓦づくりの1960年代当時の病棟、千人食堂、図書館、売店、毎日人々が眺めた壁新聞を貼った横長の壁、バスケットボールコート、そしてその真ん中に、今や大樹となって一部の建物をも蔽う檳榔樹の樹々。その外には今も実をつけるバナナの樹と廃船となって藻に覆われる泗安医院の舟が二隻。
巨大都市、広州と深圳からのアクセスも良いこの場所が、「泗安麻風博物館」のユニークなインスタレーションの数々をとおして、ハンセン病の歴史とそこに生きた人々の姿と時間と空間を体感させる「ハンセン病歴史空間」として新たなページを開くことになるかどうか、注目していきたい。
ボランティアの訪問も多い現在の泗安村の人々(写真提供 泗安麻風博物館)
野湖村の最後の住民であった揚四妹。脚の潰瘍が進行して危険な状態であったので、移住後まもなく片下肢切断。今は車椅子を使用しつつも安堵の表情。(写真提供 泗安麻風博物館)
左上)「その辛苦を測り知ることは出来ない」古い天秤の組み合わせ 中上)「2011年1月9日 午前10時35分」松葉杖と脱出時の写真で表した、大衾島療養所の終わり 右上)「お座り下さい」1本足から5本足まで、病者手作りの椅子たち 左下)漢方薬棚の引出しを埋める「紅旗」など「あの時代の薬」であった冊子たち 中下)電気のない麻風村に光を届けたランプたち 右下)「たった一人の村」の住民と物たち。ほとんどが手作り(写真提供 泗安麻風博物館)
参考資料: