People / ハンセン病に向き合う人びと
駿河療養所の入所者自治会「駿河会」の会長をつとめる小鹿さん。
口数少なく、物静かなたたずまいから、
ときどきピリッと繰り出されるユーモアに心和まされる。
小鹿さんのまわりには、さまざまな人びとが集い、交流の場が育まれている。
意のままにならない病の辛さを抱えてきた療養所の人びとのために、
いま小鹿さんが感じていること、望んでいることを語っていただきました。
Profile
小鹿 美佐雄氏
(おじか みさお)
1942年(昭和17)年生まれ。1950(昭和25)年、駿河療養所に入る。14年にわたって駿河会(入所者自治会)会長をつとめている。
駿河療養所の少年少女舎(双葉寮)は1953(昭和28)年に建てられ、当時珍しい個室だった。
昭和25(1950)年、私が小学校3年生のときです。そのころの駿河には270人ほど入所者がいました。それでも他の療養所に比べて少ないほうでしたが、小中学生も十数名はいましたよ。まだ園内に小学校もなくて、私が入った年に小泉孝之さんという人が寺子屋をつくったんですね。私も最初はその寺子屋で学びました。
校舎はなくて、子どもたちが寝起きする畳の部屋で授業をやってました。昼間は机を出して勉強し、夜になると机をしまって同じ場所で寝る。子どもたちが住んでいるところが即寺子屋だったんです。教科書は近くの学校にお願いして手に入れたとか聞いてました。そのあと昭和28(1953)年に富士岡中学校の駿河分校として園内の中学校が正式に認可されて、翌年に小学校も神山小学校分校として認可されました。
分校ができると、少年少女舎の寮も新しくつくられました。双葉寮といいまして、ここは完全個室になっていたんですよ。一つの部屋が四畳半で、そこで上級生と下級生の二人が一組になって生活するんです。私はちょうど中学生になったころだったので、年下の子と同じ部屋になることが多かったです。
その時代に子ども舎が個室だったというのはほかにはなかったと思います。建物はH型で、男子と女子が分けられていました。男子寮には寮父さん、女子寮には寮母さんがいて、ぼくたちは「お父さん、お母さん」と呼んでいましたね。
それはもう、そうですよね。なにしろ競争率が高かったですから。私は新良田の三期生でしたが、同級生の中には三回目の受験でやっと入れたという人もいました。神山復生(こうやまふくせい)病院から来た女の子もいました。その子は、復生病院から駿河(療養所)の中学校に通ってたんですよ。病院から車を出してもらってたようですが、ときどき自分の足で歩いてくることもあったようです。復生病院と駿河は近所にあるとはいえ、子どもが歩いてくるのはかなり大変ですよ。
長島愛生園のなかに残されている新良田教室の校舎。1987(昭和62)年に閉校されるまで、のべ397人の卒業生を送り出した。社会復帰した方も多い。
はじめは、なんと坂の多いところだなと思いました(笑)。長島というのはもっと平らなところかと思ってたんですよ。駿河も平らなところとは言えませんが、大きな坂がひとつあるだけでしょう。でも長島はどこに行くにも昇ったり降りたり。私がびっくりしたくらいなんですから、星塚(敬愛園)とか菊池(恵楓園)とか多磨(全生園)のような平らな療養所から行った人は、みんなびっくりしたと思いますよ(笑)。
それから夏の暑さがたまらなかったですね。とくに夕凪のときは風がぜんぜん吹かない。
私もいちおう、野球もやり、卓球もやり、テニスもやりましたよ。とくに最初の1年間は野球ですね。でも2年生になったときに手が悪くなってしまって、ボールが投げられなくなってしまった。それまでも多少の不自由はあったんですがなんとかなっていた。それが、手の麻痺が進行してしまった。俗にいう“らい反応”というやつですね。体もどんどんきつくなって、3年生のときには学校をやめようかなと思うようになってました。
自分が何かやりたいと思っているのに、それが自分の意思と関係なくできなくなってしまうと、どうしてもつまらなくなりますよね。それで勉強もぜんぜんしたくなくなってしまった。結局、ずるずる流されるようにして4年間を過ごしてしまいました(新良田教室は定時制普通高校で4年制だった)。
いましたよ。駿河療養所ができたのが1944(昭和19)年、私がここに来たのは1950年ですから、断然そういう人が多かったです。最初の入所者たちは建物をつくるところから自分たちでやらざるをえなかったと聞いています。私が入ったころも、そうやってつくられたひどい建物しかありませんでした。
子どもに対してはそういうことはなかったです。駿河では子どもはとても大切にされていたんじゃないかと思いますね。ただ、中学を卒業すれば即大人扱いです。14、15歳になると完全に一人前扱いされちゃう。そこからはきつい仕事もなんでもやるしかない。私も新良田を卒業してこちらに戻ってからはそうでした。入所者の作業はぜんぶ自治会が管理していて、私は自治会から言われて和文タイプを覚えて、印刷の仕事をやりました。
臨時の作業や不自由者の手伝いのように、順番でまわってくるような仕事もあった。そういうものは「やれ」と言われたら、「いや」とは言えない。やるしかない。
そういうルールがあったという記憶がないんですよ。昭和30年ごろからは、みんな自由に出かけていたと思います。こんな山の中じゃ、どうやったって取り締まれないでしょう(笑)。いくらでも山道や抜け道を通って外に行けちゃいますから。
1957(昭和32)年に建てられながら、自治会の反対に合って一度も使われることのなかった火葬場。
駿河療養所で亡くなった入所者はずっと三島市で火葬されていたんです。ところが昭和32(1957)年に、火葬場は療養所に必要な建築物だということで、国と施設側で園内につくってしまったんです。これに自治会が猛反対しまして、結局「つくりはするけど使わない」ということを施設が自治会に約束したんですね。だからあの火葬場はできたときから今まで一度も使われていません。
昔の自治会というのはそれくらい強い力があったんですよ。どこの療養所でもそうだったと思います。
そうですね。以前はやっぱり、施設との交渉が自治会の大事な仕事でした。施設の職員の感覚というのは、どうしても「管理している」「面倒みている」というふうになってしまう。自分たちの都合のいいように、やりやすいようにどんどん物事を進めてしまう。それを食い止めるにはどうしたらいいかということで、自治会が一生懸命やっていたものでした。
うーん、どうなんでしょう。おそらく療養所によってかなり違いがあるのではないかなと思います。それに、どこの園でも入所者が減って、自治会を維持していくのが大変な状況になってきてますからね。
いまのハンセン病療養所で、入所者がどんどん減っていくことに関しては正直いって当然だと思っているんですよ。ただ、入所者にとっての「終の棲家」としてすこしでも満足できるものになっているかというと、そうはなっていないんじゃないかと思うんです。長いあいだ隔離されて社会に出られなかった人たちなんですから、せめてここに住んでいてよかったなとちょっとでも思えるようなところにしたいと思っているんですが、それがなかなか難しいなと思います。
インタビュー前夜の駿河納涼祭で自治会長として挨拶をする小鹿さん。
やはり医療面のサポートが十分にできてないんじゃないかと思います。本当に具合が悪くなったような人に対して十分な対応ができているとは言えないですね。いまの療養所の医療は中だけで完結するということはなく、外の医療機関と連携していく、外に委託していくということが欠かせないんです。でもこのとき、たとえば外の病院に入院する人たちが、十分な介護を受けることができないといった問題があるんですよ。
入所者の方々は家族との縁を絶たれている人も多いわけです。病気で入院するというときに、安心して付き添い介護を頼める人、家族に代わるような人がなかなかいない。駿河療養所を退職した職員に頼んで介護してもらうという話もあったんですが、これもなかなかうまくいかなかったですね。自分が信頼している人が付き添ってくれるならいいんですが、ただ職員が役目としてそこにいるだけじゃ安心できないですよね。人間同士の相性の問題もありますし。
それから、いま「駿河」では入所者57人(2017年10月19日現在で56人)のうちほとんどの方がセンターにいます。でもそのセンターでは、夜間に職員が誰もいなくなるんですよ。
平均年齢がもう84歳になっていますからね。いまは元気な人でもほとんどが病気と隣り合わせですよ。ですから療養所といいながらも、本当は生活の場でのサポートやケアがいろいろと欠かせないんですが、それが十分に行われていない。そういったことのできる看護師や介護士の人数も足らない、定員はあっても雇用できていないんです。
入所者が元気なころは、体調が悪くなれば自分から治療棟に出向いていって、必要があれば病棟に入るということでよかった。でも入所者がここまで高齢化し認知症を抱えるような人が増えてくると、在宅で治療が受けられるようにすべきではないか、具合が悪くなったときに入所者のほうが病棟に行くのではなくて、医者と看護師が動くべきではないかという議論もいま全国で盛んに出ています。
駿河療養所の盆踊り大会(納涼祭)は1948(昭和23)年ごろから始まり、最盛期には三日三晩、400人もの入所者が参加したという。中断した時期もあったが1985年から再開され、2001(平成13)年からは地元の人びとの参加を得て3000発の花火の打ち上げも加わった。
小鹿さんが楽しみにしている「駿河読書会」。小鹿さんの右隣りが世話人の佐藤健太さん。
やっぱり、ハンセン病がどういう病気かということを正確に知ってほしいということですね。多くの人がもっているハンセン病に対するまちがった考え方を改めてほしいし、ぜんぜん知らなかったという人には、もっとよく知ってほしいと思います。
まだあると思います。なくなってないと思います。
ほんとうは昨日の納涼祭なんかでも、もっと多くの入所者が祭の場に出て、お客さんたちと交流できるようになると一番いいんですけどね。ああいうところで交流すれば、理解ももっと早く進むと思うんです。動ける人が少なくなってきたので、なかなか難しいことなんですけどね。
あの集まりは、ハンセン病市民学会の学生・青年部会の交流会がここで開催されたのがきっかけでしてね。小堀智恵子さん、谷岡美穂さんをは
じめとした実行委員会の人たちが盛り上がっちゃって、「せっかく知り合ったんだから、これからも集まろうか」ということになった。最初はただ集まって食べて飲んでおしゃべりしてたんですが、そのうちに何かみんなでやろう、「駿河療養所ガイドブック」をつくろうということになったんです。2~3回、私が療養所の中を案内して、皆さんもいろんな資料を調べて、だいたい原稿ができあがった。いよいよ本にするために誰かにお願いしたいということになって、それで佐藤健太さんがかかわってくれることになった(佐藤健太さんのインタビューはこちら)。
でも本を一冊つくるというのはなかなか大変だということで、とりあえずマップにしようということになって、それでできたのが「駿河療養所ガイドマップ」です。マップもできあがっちゃったし、また次になにかできないものかと谷岡美穂さんが提案して、佐藤さんが「昔の入所者の書いた文学を読むのはどうだろうか」と言って、「それはいい」ということで読書会が始まったんです。
私は文学なんてからっきし弱いから、「皆さんの好きなようにやってください」って言って参加させてもらってるだけです。佐藤さんも、ひとつの結論につなげようとしないで、できるだけゆるく上手にやられているから、皆さんも自由な意見が言いやすいようです。ああいう昔の入所者の書いたものを読んで、いまの若い人たちがどういうふうに思うのかということには興味がありますし、聞いていておもしろいですね。私にとってもほんとうに楽しみな会ですよ。
取材・編集:太田香保 / 撮影:川本聖哉